2006-01-01から1年間の記事一覧

オシムはクラマーかジーコか

サッカーの日本代表は、このところずっと外国人監督が続いている。トルシエ、ジーコ、そしてオシム。加茂・岡田の前もオフトがやっていた。 それはちっとも悪いことでなく、外国人監督は歓迎だ。情実が入りこみがちな日本人に対し、外国人は達成だけが判断の…

FT通信/「ダ・ヴィンチ・コード」から考える

リャザン国立大学で働いている友人に、弁論大会の予選に出場した学生のスピーチ原稿を見せてもらいました。とてもおもしろかったので、紹介します。 リャザノワ・アンナ:ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」から ― キリストは神ですか、人間ですか?…

対比と相似の「柳田学」(7)

<「考古学者」柳田国男> 明治期に存在した学会で、のちの「民俗学者」たるべき柳田の関心にもっとも近いはずのものは人類学会だが、入会したのは非常に遅く、明治43年(1910)である(註43)。明治38年(1905)「人類学雑誌」には7篇を寄稿しているが…

対比と相似の「柳田学」(6)

<対抗史学発言録> 柳田国男の一生を考えると、「戦う人」という感想をもってしまう。貴族院議長徳川家達と衝突して官界を去ったなどというエピソードにとどまらず、彼はやたらに戦っている。 「民俗学」確立期には、在来史学に激しく切り込んだ。従来の歴…

対比と相似の「柳田学」(5)

<悪口雑言集> 私は柳田の「悪口雑言」をこよなく愛する者である。 柳田という人は、折口信夫よりも詩人、南方熊楠よりも野人だと思う。詩を書かない詩人は、書く詩人よりさらに「詩人」である。彼の著作すべてが「詩」である、と言いたい気持ちに駆られる…

対比と相似の「柳田学」(4)

<著作権の彼岸> ある学問がまさに形成されようとしているところに、ぜひ立ち会ってみたいものだと思う(もちろん学問でなくてもいいけれど)。公式の組織形態から離れた同志的な結びつきで、刺激や発想の交換を行なう瞳の輝く人たち。シャンパンの泡がはじ…

対比と相似の「柳田学」(3)

<坪井正五郎と白鳥庫吉> 「後狩詞記」(1909)「遠野物語」(1910)は、言ってみれば聞書きにすぎない。往復書簡という妙な形式ではあるが、農政学以外で自分の論(仮説であっても)を立てた著書は「石神問答」(1910)が初めてである。これら三つの書物の…

対比と相似の「柳田学」(2)

<柳田の「道の友」たち> 柳田国男という人は社交的で、さまざまな会を組織したり会に参加したりして交友も広かった一面、自分の学問領域の周辺では、やたらに人と衝突する人でもあった。それも、優れた人物を選んだかのように角逐している。逆説的に、彼と…

柳田覚書/対比と相似の「柳田学」(1)

柳田の内的発展は赤坂憲雄によって丹念に追われている。ここでは「外的」発展を、事件と人物から眺めてみることにしたい。そこにはさまざまな対照や相似が現われてきて、そのうちに柳田の特質をとらえることができそうなのだ。 <日本近代史としての「柳田国…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(10)

<「民俗学」時代を悔やむ柳田> 女婿の堀一郎によると、終戦後のある日、柳田はこう語った。「私はね、消えていくものには消えていくだけの理由があり、それを元へ返せなどと考えたことも云ったこともない。しかし今度は違う。滅んではならないもの、滅ぼさ…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(9)

<柳田国男とマージナルなヨーロッパ> ここではたと気づく。この手紙を含め、上に引いた手紙の中に出てくるのは、ほとんど東欧・ロシアの人ばかりである。彼のジュネーヴ滞在時の日記を見ると、東欧の影がそこここに差している。「セイケイ」というハンガリ…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(8)

<ジュネーヴ体験> おそらく、大正8年(1919)末に官を辞し、最初の3年は内外を旅行をさせるという条件で朝日新聞に入社して、沖縄旅行(ここからの帰途に、国際連盟委任統治委員になれとの話が電報で飛び込んできた)に出たときに、「前史」が終わり、後…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(7)

<「柳田民俗学」の特徴> 彼の学問はよく「柳田学」と言われる。そのように、または少なくとも「柳田民俗学」と呼ぶのが正しい。彼の人格や興味が色濃く投影されているのだから。あるいは、みずからも言っているように、「新しい国学」と呼ぶのもいい。それ…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(6)

<「日本民俗学」の確立> 柳田の還暦の祝いに「日本民俗学講習会」が催され、「民間伝承の会」設立、機関紙「民間伝承」が発刊された昭和10年(1935)に、「日本民俗学」は確立したと言える(しかしなお「民俗学」の名称は会の名からも雑誌の名からも慎重…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(5)

<柳田の学問と「民俗学」の名称> 柳田自身の使用例を見てみると、どうだろう。柳田は、自分の研究を「民俗学」と呼ぶことに長くためらいがあった。「「民俗学」という語を普通名詞として使用することは日本ではまだ少しばかり早い」。「民俗学というのは惜…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(4)

<「民俗学」とは何か> ここで、「民俗学」という言葉が問題になってくる。 日本には二つの「ミンゾクガク」が存在している。「民俗学」と「民族学」である。そのほかにも「文化人類学」「社会人類学」という名称もある。漢字二三文字の同音異義語が多いの…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(3)

<明治大正期の柳田と「民俗学」> 柳田個人においてはどうだったのだろうか。 のちに「民俗学」を志した動機について問われたとき、即座に「それは南方の感化です」と答えたという(註9)。柳田が「日本人の可能性の極限かとも思い、又時としては更にそれ…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(2)

<明治大正期に「民俗学」はあったのか> では、明治から大正初期には「民俗学」は存在していなかったのか? いなかったとも言えるし、いたとも言える。 あらかじめ用語の混乱を避けるために、生物としての人間をあつかう分野を自然人類学、人間の文化をあつ…

柳田覚書/柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(1)

<柳田像には歪みがあること> 柳田国男(1875-1962)は、言うまでもなく「日本民俗学」を打ち立て組織した大学者である。しかし、その業績があまりに巨大であるために、後の世からこれを眺める人は、少なからぬ誤解や大きなパースペクティヴの歪みを持って…

「吸血鬼伝承」拾遺(2)

<僵屍―漢族> 上で「吸血鬼」との類似が指摘されるインドの起屍鬼やハイチのゾンビなどを見てきたが、いささかの類似点がある一方で、大きな相違点があることがわかった。ところが中国に目を転じると、バルカンの「吸血鬼」に酷似した「生ける死体」伝承が…

「吸血鬼伝承」拾遺(1)

B.東欧以外の「生ける死体」伝承<屍鬼―インド、チベット、モンゴル> インドには、ヴェーターラvetalaという死体に憑いて活動させる鬼神の一種がある。漢訳仏典で起尸鬼、起屍鬼、起死尸、起死屍鬼、起屍、屍鬼などと訳され、また毘陀羅、毘多荼、鞴陀路…

WM雑感/民族論的に

サッカーの魅力は、その国際性にある。国際的でないものは、サッカーではない。国内リーグでいくら成功を収めても、国際舞台で通用しなければ意味がない。サッカーは、ルールは同じ、フィールドもボールも同一であるにもかかわらず、国によって独特のスタイ…

WM雑感/対オリンピック・対野球

ワールドカップはオリンピックとよく比較される。 比べてみてすぐに気づくのは、オリンピックでメダル独占をたくらんでいるアメリカ・ロシア・中国の三大国が、ワールドカップでは弱い。オリンピックで思い出すのだが、シドニー五輪のとき、あるロシアの地方…

WM雑感/命題集

命題その1。サッカー競技の主役は、ゴールポストとバーである。 ほとんどの試合に1度や2度はある、強烈なシュートがバーやポストを叩くシーン。客席からあがる、うなりとも叫びともつかぬ大きなどよめき。シュートが決まったときの歓声や悲鳴がa音を基調…

WM雑感/サッカー地理学とサッカー日本語学

日本リーグ時代の試合を見に行ったこともあるし、入学して最初の早慶戦は、野球でなくサッカーのほうを見に行ったくらいのファンではあるが、観戦歴のほとんどはJリーグ開幕以降だ。そりゃそうだよね、それまではサッカーなんてテレビで見られないんだもの…

WM雑感/ああ、日本代表

日本代表は今回のワールドカップに参加していなかった。闘っていなかったのだ。ブラジル戦が終わった瞬間から、世界は日本がこの場にいたことをさっぱりと忘れてしまうだろう。記憶に残る何物も残さなかったから。いろいろ忙しいんだろうから、負担をかけて…

私たちの問題と私たちの弁論大会

先日サハリンの弁論大会も無事終わったようで、これでシーズン・オフ。他地域を横目に見つつふりかえれば、やたら突出しているのがウズベク人の弁論大会愛好癖です。そのメンタリティに迫る一助となりそうな、おもしろいスピーチを紹介します。5月にタシケ…

サハリン消息/「ダ〜チャ」

ユジノでやった極東・東シベリア弁論大会で、「ダーチャ」についてスピーチした学生がいました。この大会の模様は同僚教師がDVDに録画してくれていて、それを編集したものをもらっていました。しかし、支給品のパソコンは型が古く、CDの読み取りはでき…

サハリン消息/「サハリン検定」

「京都検定」「映画検定」など、日本では最近検定試験ばやりのようですね。別にそれにあやかったわけではないのだが、実はこんな検定を企てています。 サハリンは日本との深いつながりがある地域なので、ガイドの需要も日本語能力の需要もあります。しかしな…

サハリン消息/古き慣わしいくつか

以前ハバロフスクにいたとき、冬の休みに外国語図書館に通って、レオポルド・フォン・シュレンクが1854−56年にアムール川下流地方やサハリンで行なった調査の記録「アムール誌」を閲読しました。図書館と言っても、普通の住居を転用していて、閲覧室は…