対比と相似の「柳田学」(6)

<対抗史学発言録>
柳田国男の一生を考えると、「戦う人」という感想をもってしまう。貴族院議長徳川家達と衝突して官界を去ったなどというエピソードにとどまらず、彼はやたらに戦っている。
民俗学」確立期には、在来史学に激しく切り込んだ。従来の歴史学ではわからぬ婚姻制度の歴史を、多くの民俗資料を並べることによって再構成してみせた「婿入考」(1929)には、「歴史学民俗学」のサブタイトルがつけられていた。これを当の史学会で講演したその頃の柳田の姿は、「鋭利な刃物でも見るよう」であったと、近くにいた有賀喜左衛門は述懐している。
歴史への強い傾斜があり、「「国民生活変遷誌」を以て、日本民俗学の別名の如く心得」(「実験の史学」)ていた柳田の「民俗学」を考える場合、彼の「歴史」に対する見解をたたいておかなければならない。以下は彼自身の書いたものを集めたラフ・スケッチである。
「今日は学問上の材料の選択に革命が起って居る」(「民間伝承論」)。柳田はまず、史料には、伝えたいと思うことだけを意図をもって記した「計画記録」と、筆記されたものを筆者の計画した以外の別の問題を明らかにするために援用する「偶然記録」の二種があるという重要な指摘をする。資料としてさらに「採集記録」を加え、これを活用することで、「計画記録」のみではもちろん、「偶然記録」を渉猟してもなかなかわからぬ平民の過去の生活を知ることを念願とした。「思うに古今は直立する一の棒ではなくて。山地に向けて之を横に寝かしたようなのが我国のさまである」、前代の生活が山中などの僻地に残っているという「後狩詞記」の旅(1908)での発見が、この「革命」をもたらした。電気・石油・種油・松の火と時代順に垂直に遡るはずの燈火の歴史が、当時の日本人の生活の上に水平に存在しているという「実験の史学」で示してみせた例のように。
「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、わが国の農民史は一揆と災害との連鎖であったごとき、印象を与えずんばやまぬこととなるであろう」(「郷土生活の研究法」)。
「有史以前」という言葉の流行を見て、「有史以外」があるのだと説く。「我々に忍ぶことの出来ぬ淋しさを感ぜしめるのは、有史以前の空漠に非ずして、有史以後の記録の空虚さである」。「歴史はもと我々の足跡の如く、無意識に後に残されたものではなかった。孔子の筆になるという「春秋」の昔から、筆者が是ぞ伝うるに足ると認めた事実だけを竹帛に垂れたのが歴史である。従うて其内容の如きは、即ち史官の判断選択に依るより他はなかったのである。もとより下級無文字の階級の生活が其選択に入る由もなかったのである。史官は最初から歴史の一部を無歴史にしようとする意図を持って居たともいえるのである」。「今日の歴史の閑却している部分に、我々が知りたい歴史、即ち自分の謂う史外史が存するのである」(「民間伝承論」)。
「新たなる鉛の活字で刷ってあっても古いものならば採る。古い伝承であると知れても、このごろ文字になったものなら使わぬ。文字以外のものでも土器鉄器のかけら、古い骸骨の示すものならば信ずる。生きた人間の信じ感じ行い記憶していることは省みぬ。この窮屈なる分界線の傍に立って見ていると、私は何人よりも以上に、史学が今後なお大いに進歩すべき若々しい学問なることを、信ぜずにはいられないのである」(「郷土生活の研究法」)。
「歴史はいつでも尚古派の武器といわれ、老人の護衛者の如く、古いことを語る為のものとなって居る。…そして学ばんとする者の要求を忘れさせ、あらぬ方面に導いて行こうとする。それを学問の義務とさえ心得て居るのである。之だけは必要だ、之だけは是非覚えておけというのであるが、是は恐らく口で歴史を語り伝えて居た時代からの遺伝なのであろう。歴史は実際求める者の知識欲とはぴたりと合致せぬ学問なのである」(「民間伝承論」)。「史学は古い事を穿鑿する技術ではけっしてない。人が自己をみいだすための学問であったのだ。が、そういう風には自他ともに考える人が少なかった」(「青年と学問」)。
「人が何故に貧苦を脱し得ないか、村がどうして何時までも衰微感の為に悩まされているか。選挙がどういう訳で此国ばかり、まっすぐに民意を代表させることが出来ぬかという様な、さし迫った一国共通の大問題なども、必ず理由は過去に在るのだから、是に答える者は歴史でなければならぬ。人がそういう史学を欲しがる時が、今まだ来ていなければ、近い将来にはきっと顕れる」(「実験の史学」、1935)。「今までは単に手段によって目的を制限せられて居たのである」(「郷土研究の将来」、1931)。
「親しき同胞の為にする理解は、乃ち又自分に取っての内省である。この久しい年代に亙った放擲と軽蔑とを、片端から新知識に化し得るという期待が、人生の光明でなくて何であろうか」(「国史民俗学」、1935)。
そして、「或山村の一老翁は、小学教員の物を聞きに来た者に対して、そういう話をすることまでが、何かの役に立つ御時世になったかと、涙を流して喜んだそうである。我々は其事実を知って以来、正しい伝承者をして黙々として世を去らしめることを、罪悪と考えるようになったのである」(「採集事業の一画期」、1935)。
「柳田民俗学」は、顧みられないままただに実直でありつづけた、田舎のこうした人々のための学なのである。