柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(2)

<明治大正期に「民俗学」はあったのか>
では、明治から大正初期には「民俗学」は存在していなかったのか? いなかったとも言えるし、いたとも言える。
あらかじめ用語の混乱を避けるために、生物としての人間をあつかう分野を自然人類学、人間の文化をあつかう分野を文化人類学としておこう。「民俗学」は、「広辞苑」によれば、「一つの民族の古来の伝承を研究対象とする学問。文献に頼らず、言語や行為によって伝承されているものを蒐集し、研究する。民族学とは縁は近いが別な学問とされている」とある。このくらいが一般的な認識であろう。「自民族の研究」というニュアンスもある。
日本の人類学会が創立されたのは明治17年(1884)。開国が1854年であることを考えれば、おそろしく早い。1963年生まれで当時まだ学生の坪井正五郎とその友人たちのクラブのようなもの(「じんるいがくのとも」)だったとはいえ、パリ人類学会設立に25年、ロンドン人類学会に21年遅れるのみだという。広義の人類学、つまり自然・文化両人類学と考古学をその領域としていた(註4)。考古学会はのち1895年に人類学会から分立する。文化人類学の分野は当時「土俗学」と呼ばれており、報告はいくつもあったし、盛んであったとも言えるが、草創期の当然として、深くもなければ体系的でもなかった。注目すべき寄稿者は、山中笑、伊能嘉矩、鳥居龍藏、出口米吉、南方熊楠などである。
人類学会の活動として、明治26年(1893)から夏期人類学講習会が催され、その機会に、それに参加した人々が集まって、第1回の「土俗会」が開かれた。鳥居が発起人である(註5)。この会はそれから明治33年までに6回(1894・95・96・97・1900)開かれ、参加者が、坪井正五郎が出題した回ごとのテーマ(「正月の風習」「贈答習俗」「若者が一年中の楽とせるものの種類」「育児風習」「食事」「年中行事」)について、自分の故郷や勤務地の習俗を報告するというもので、アイヌの参加者のある年もあったが、特に結実を見ることなく止んだ。
「郷土研究」創刊と同じ年、大正2年(1913)には、前年に発会した「民俗学会」(註6)が「民俗」を創刊する。編集は石橋臥波(註7)である。石橋と永井如雲が幹事となり、井上円了・芳賀八一・大槻文彦・加藤玄智・吉田東伍・高楠順次郎高木敏雄坪井正五郎富士川游・福田徳三・三宅米吉・白鳥庫吉関根正直関野貞と、錚々たる顔ぶれがこの会の評議員に名を連ねていたが、2年後に通巻5号で終わった。雑誌には人類学会の坪井・鳥居・伊能や、南方、伊波普猷なども寄稿した。この雑誌を目にしたことはないけれども、大藤時彦によれば、「こゝに民俗学と申し候ふはVolkskundeの義にして、国民の間に現存する古代文化の遺物即ち伝説、童話、俚諺、俗謡、迷信及び習慣等に就きて研究するものにてこれあり候。folkloreと申す名称は英国のウイリヤム・ジヨン・トームス氏が、一千八百四十六年、始めて用ゐしものゝ由に承はり居り申し候。欧米に於けるこの種の研究は既に各種の方面より沢山なる材料を蒐集して、今はこれらの材料によりて、その間の連絡、異同、由来、変遷等を明かにし説明を試みつゝある次第にこれあり候。我国に於けるこの種の研究に至りては未だ見るべきものこれなきは我が学界のために甚だ遺憾とする処に候。吾儕の現下に於いて最も力を致すべきは、個々のものにつきてその説明よりも、各地に行はれつゝある多くの材料を蒐集整理することにこれあるべく候。而してこれ実に本誌の任務とするところにこれあり候」という巻頭言を毎号掲げていたそうである(註8)。
「土俗学」「民俗学」を標榜したこの2回の試みとも早世であったが、要するに、「民俗学」の必要は意識されていたし、組織化が始まるばかりになってはいたのである。


(註4)歴史は繰り返すと言うが、坪井の早すぎる死(1913)、鳥居の帝大講師辞任(1924)以後、人類学会が自然人類学・形質人類学の学会となっていく中で、昭和の初め頃、岡正雄江上波夫など、アンソロポロジー・プレヒストリー・エスノロジーの若い研究者が集まったAPE会は、坪井たちが人類学会を結成したときの興味の広がりに呼応している。このとき脱皮が行なわれたわけである。
(註5)鳥居龍藏は「ある老学徒の手記」の中で、これより前の明治24年(1981)頃、独逸協会学校の学生を集めて「土俗会」を設けたことがあると言っている(「鳥居龍藏全集」12)。また、明治33年(1900)に山中笑・奥村繁次郎らによって「土俗会」が創立されたと、寺田和夫「日本の人類学」(角川文庫、1981)にある。
(註6)柳田が「フォルクロアの学会は今年は打ち立て申すよう、乏しき有力者連を説きおり候」と南方宛明治45年2月9日付書簡に書いているのは、これを指しているのかもしれない。「しかし、雑誌の方はまずもって誘導的任務に力を注がねばならぬ故、小生は会報として対面その他の拘束をうけぬよう独立して発刊させたく存じおり候。よって貴下御入会は御いやにても、雑誌の方にはたくさんの助力を与え給わりたく候」と続けているところ(雑誌というのは翌年創刊される「郷土研究」である)から見ても、この「学会」は柳田が設立しようとしたのではなく、石橋の「民俗学会」だと思われる。これに柳田は参加していないが、「郷土研究」の相棒高木敏雄は石橋とともに設立を「主唱」したという(「人類学雑誌」28巻5号の記事)。南方が直前の同年1月17日付で「わが国にも独立して俚俗学Folklore Societyの建立ありたきことに候」と書いたのを受けて報知したものだろう。ちなみに雑誌発刊の希望は、すでに明治44年6月14日付書簡で示している(同年6月12日付で南方が「わが国にも何とかFolk-lore会の設立ありたきなり。また雑誌御発行ならば云々」と書いたのに応じて。機運が熟しつつあるのが読みとれる)。柳田もこの学会設立に間接的にか消極的にか関わり、途中で離れたということだろうか。彼は石橋をまったく評価していなかった。「彼はいささかも学問をせざる男なり」(大正3年5月2日付南方宛書簡)と酷評している。
(註7)富士川游主宰の「人性」の編集に従事していたという。大藤後掲書。
(註8)大藤時彦「日本民俗学史話」(三一書房、1900)による。
なお、「日本民俗学会設立趣旨」も引いておくと、「我が日本民族に関する各種方面の研究は近時漸くその歩を進めつつあるも、その精神的生活及び物質的生活の全方面に亘りて、之を民族学的及び人文史的に研究する、即ち所謂最広義に於ける民俗学的研究に至りては、尚未だその緒に就かず、我が学会の為に一大恨事とする所なり。惟ふに我が民族は単一なるものに非ざるが如く、従つて民族文化の基く所甚だ複雑なるものあり、加之、古来の習俗、伝承等年に湮滅し月に変化しつゝあり、今の時に於て之を蒐集し攻究せずんば、将にその旧態を止めざるに至らんとす。此に於て同志相謀り、「日本民俗学会」を設立し、以て我が民族の由つて来る所、文化の基く所を究め国民の性情を明かにし、聊か日本民俗の研究に貢献する所あらんことを期す。」(「人類学雑誌」28−5)