柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(7)

<「柳田民俗学」の特徴>
彼の学問はよく「柳田学」と言われる。そのように、または少なくとも「柳田民俗学」と呼ぶのが正しい。彼の人格や興味が色濃く投影されているのだから。あるいは、みずからも言っているように、「新しい国学」と呼ぶのもいい。それはこの学問の本質をみごとに言い表している。
「柳田民俗学」が日本の学問体系の中で曖昧な位置しか占められないのは、それが「移植学問」でないからである。柳田がみずからの試行錯誤のうちに到達したもので、内発的な形成を遂げているのだ。西洋の刺激は形成に力があった。決定的な役割を果たしたと言ってよい。しかしそれは、神道と仏教の関係に譬えられよう。のちに「神道」として体系化を遂げるものは、むろん仏教移入以前からあったのだが、仏教の刺激によって、仏教にならって体系を得たのである。
柳田自身が示した「民俗学」の定義は、「民族の内省の学」である、というものだ。「自ら知らんとする願望」を持ち、「答えんとする用意」を備え、「目標は現実疑問の解答に」置いて、「好事家と割拠の弊」を排し、「利他平等」に「相互連絡と比較調査」によって、「眼前の疑問への解答」を「帰納による当然の結論」として導き出す。これが「柳田民俗学」である。
彼の「民俗学」には、きわだった四つの特徴がある。
1.経世済民
「学問は生活の実際上の要求に役立たぬ様では、始める甲斐が無いとまで思って居る」(「婚姻習俗語彙」序、1937)柳田は、「学問救世」を説き、「なぜに農民は貧なりや」という問いを発して、「私たちは学問が実用の僕となることを恥としていない」と断言する(「郷土生活の研究法」)。強い倫理性が「柳田学」の特徴だ。柳田に対してなされる、性の問題をなおざりにしているという批判はまさしく当たっているが、その態度のよってくる由来は、こんなところにもあろう。「士大夫の学問」などと言われる所以でもある。
2.民俗資料の三部分類
彼は民俗資料を三つに分けた。(1)目の採集によるもの。旅人でも採集できるもの。生活外形、生活技術誌、有形文化がこれである。(2)耳の採集によるもの、寄寓者が採集できるもの。言語の知識を通して学びえるもの。言語芸術。(3)心の採集。同郷人の採集と名づくべきもの。生活意識、心意諸現象。
 その上で、この第3部がもっとも重要だと考える。そして、この部門は行きずりの旅人やわずかの間その土地に住んだ者には感得しがたく、その土地に育った者にしか真に捉えられないとして、同郷人の報告を重んじた。村の者がみずから考え、書き記すことが必要であり、そのために村に住む人々のうち志ある者を組織しようとしたのである。
この第3部を、ただ単に民間信仰などと考えてはならない。それは倫理や世界観・価値観、認識や思考法などを含むのだ。「義理又はリクツというもの、男らしさだの世間並だのと名づけられて居る生活の理想、破れば必ず制裁を受ける道義律の根本箇条、それから個人の立場でいう幸不幸の標準、それを選り別けて行く暗黙の技術、その技術の力のみでは動かし難いと認められて居る外部の法則と力、斯ういう幾つかの大切なものに対する考え方」(「食物と心臓」、1932)などがそれであり、昭和9年から12年(1934-37)にかけての山村生活調査で用いられた「採集手帖」には、「褒められる若者・女性」「信心深い青少年」「義理固さ」「衰弱感」「家の盛衰」「長生の家筋」「幸福な家」などという調査項目がある。ここまで知ろうとしたのであり、これを見ても西洋流の「民俗学」と際立った違いのあることが知れる。
3.語彙を手がかりにする方法
「我々の頼む所は同郷同族人の理解と、用語に対する至って精緻なる知感とであった」(「生と死と食物」、1933)。「言葉によって一国の民間伝承を採集し保存し、比較し又整理するという我々の方法は、今日の所謂民族学と、日本民俗学とを区別する、最も明瞭なる目標と思われるにも拘らず、自分の知って居る限りに於いては、他の国々ではその各自のフォルクスクンデを記録するに際して、こちら程熱心に此方法を採用しようとしない」(「セビオの方法」、1938)。
 「ことばの聖」と評した人もあったくらい、柳田は言葉にこだわった。それには固有名詞を普通名詞で解く彼一流の方法論も含まれるが(「説話の内容は常に史実では無い」と喝破する鋭いテーゼ。少し意味は違うが、固有名詞を出さずに書いた「明治大正史 世相篇」も想起される)、わけても、民俗語彙の採集に力を入れ、それを手がかりとして研究を進めるという独特な方法が特徴的だ。「此方法は自分の喜しい発見だと秘かに誇って居るところである」(「民間伝承論」)。入門書として書かれた「郷土生活の研究法」は、実は語彙採集の手引書である。そして昭和10年(1935)以来「分類民俗語彙」を刊行していき、それは最終的に「総合日本民俗語彙」全5巻(1955-56)にまとめられた。
4.「運動」の性格
これは「経世済民」と密接に関連する。柳田はむろん学者、それも博識の大学者であるのだが、「社会運動家」として見たほうが、彼の学問の特質を的確にとらえられる。「柳田民俗学」は「社会運動」なのである。はたからは「小学教師たちの組合」とさえ見えたかもしれない。上記第3部の採集のため、地方在住の研究者・報告者の組織がこの「運動」の最重要課題だったのである。女性にも「民俗学」への参加を呼びかけ、組織した。「地方に・僻地に住むこと」「女性であること」は何ら欠格事項ではなく、それどころか特権的に有利な地位であるという認識の大転換、大革命が人知れず敢然と遂行されたのである。
彼は、共にこの学問の道を行く者を「同志」と呼ぶ。民間伝承の会の発会式では、「講演者は先生でなく聴講者の仲間であり友人だ」と言明している。「革命党」の口吻ではないか。左翼知識人が「柳田学」に流れ込むという現象が見られたが、まったく当然のことである。昭和12年(1937)から3年間、民間伝承の会は丸ビルで「日本民俗学講座」を開くが、これは「正に校舎なき大学」であり、計画や事務が学生の委員会によって行なわれたことから見ても、「民衆大学」の様相がある。
彼の生家は小さくて(みずから言うところの「日本一小さい家」)、二世帯がよく暮らし得ず、嫁姑の争いのため、長兄の嫁は二人とも離縁、うち一人は自殺した。のちにこの悲劇を回想し、「民俗学のなさ」を嘆息したというエピソードに、彼の考える「民俗学」というものがうかがえる。それはよりよい生活を目指す知的活動であり、精神姿勢であった。
また、日本の敗戦が決まったとき、日記に「いよいよ働かねばならぬ世になりぬ」と書き、8月15日には「大詔出づ、感激不止」と書く。彼はたしかに「ナショナリスト」であったが、「ナショナリズム」の語義を汚さないナショナリストだったのだ。そして戦後には、新設の社会科に「民俗学」の方法や成果を入れようとし、教科書の編纂に乗り出す。国語教科書の編集にもあたっている。このあたりは彼の面目躍如で、柳田論では決して落としてはならない部分だ。
「野の学問」である「柳田民俗学」は、このようなものとして、アカデミズムである「民族学」とか「人類学」などでなく、たとえば中西悟堂日本野鳥の会柳宗悦民芸運動などと並べ考察されるべきなのである(註22)。


(註22)柳田の民俗学は、民芸運動とほとんど没交渉であった。柳宗悦の活動を特徴づける玩物収集・仏教・西洋趣味は、無関心三点セットとでも言おうか、柳田のまさに好まないものだったことにもよろう。