対比と相似の「柳田学」(7)

<「考古学者」柳田国男
明治期に存在した学会で、のちの「民俗学者」たるべき柳田の関心にもっとも近いはずのものは人類学会だが、入会したのは非常に遅く、明治43年(1910)である(註43)。明治38年(1905)「人類学雑誌」には7篇を寄稿しているが、うち5篇は明治43年(1910)から大正3年(1914)に集中し、あとは昭和2−4年(1927-29)である。大正3年から中断するのは、もちろん自分の雑誌「郷土研究」に精力的に執筆していたからだ。「考古学雑誌」には、明治43年(1910)から大正2年(1913)までの間に、「十三塚」「矢立峠」など、塚や地名について6篇書いているが、これも「郷土研究」創刊からとぎれる(明治43年はひとつの画期であるようで、「歴史地理」にも書き始めている。それまでの寄稿は農政・法学・文学の雑誌ばかりであった)。
後から見て奇妙に思えるのは、人類学会より先に、まず考古学会に入会していることだ。大藤時彦によると、明治36年(1903)の入会という(註44)。明治41年の会員名簿には名前がある(註45)。明治44年には評議員にまでなっており、南方に入会を勧誘してもいる。「小生はこれからかの雑誌にもだんだん書きたく存じおり候」(明治44年4月30日付書簡)と、のちに考古学にきつい物言いをした人物らしからず、積極的だ。
学者というのは本を読む人に決まっているが、その中でも柳田は大読書家であった。法制局に勤めていた明治43年(またしても)、内閣記録課長に任ぜられ、内閣文庫の「館長」のような体で、この文庫の蔵書を読みに読む機会があった。「明治四十三年の夏などは、夏休みというものを私は取らなかった。そうして暗くなる迄へとへとになって虫ばんだ本を読み散らし、うまいことをした気で帰って来たのは、今考えて見ると一つの病であったようだ」(「柳田国男自伝」)。そして「この厖大な記録類の中に入ってつくづく思ったのは、書物というものは一生かかっても見終ることはないということであった」。それで、「要点をつかみ、それを実地に即して調べて行く方が、文献だけを漁りまわしているよりは効果がありはしないかということを、書物に埋もれた結果、私は考え出したのである」(「故郷七十年」)。文書史料以外の資料を求める道へ踏み出す、これがひとつの機縁になっている。
この方面での最初期の彼の興味の対象は、苗字・地名と(註46)、石や塚など、ある念慮を背景にもつ有形物であった(註47)。それは「遺跡」でもあるかもしれない。ここから考古学会入会へとなっていったのだろうと考えられる。しかし、彼が知りたいと思ったのは「遺跡」そのものではなく「念慮」のほうであり、考古学には満足できなくなった(当然のことだが)のだろう。
塚には墓であるものとないものがある。墓であるものはいわゆる古墳だが、「古墳の研究者の中には、塚を卑しみ、古墳を過重する風が盛んである」。だが、「古墳の方が、築造の目的が明白であって、研究の余地もそれほど多くないと言える。之に反して、塚を築いた民衆の最初の動機に至っては、全然不明と云うも誇張ではない」。古墳にしても、それが葬所であることが忘れられてからは、ずっと民衆の生活の中、その精神的物質的要求のうちにあった。「之に注意を払う考古学者の一派に、古墳が築かれてから今日に至る迄の、民俗上の変化を無視した研究の仕方をして居るものがありはしないかと思う」(「民俗学上に於ける塚の位置」、1918)。つまり考古学も、彼の知りたいと願うことを扱わぬ点で、歴史学とまったく同じなのである。そして考古学から離れていく。考古学は結局、文書史料以外の史料を求める旅の、最初の立ち寄り先にすぎなかったのだ。
のちの手厳しい考古学批判、「相変わらず上代偏重、石器土器をいじくることばかりが考古学者の任務の如くである。しかも少しでも有史以後に入って来ると必ず歴史を傍らに置いて考証を試みようとするのである。…我々は此状態を叩き壊して、広義の歴史の学問を変更させる為に、所謂考古学なるものと民間伝承の学問との提携をさせ、二つの学問の境界を無くして了いたいと欲して居る」「古いもので土中から出たものなら我々は研究するが、現在あるものは我々の領分でないというのは変な云いようである」「古代人は念ずる力が強く、物を造る場合でも矢張り神仏を念じ心をこめて造った。しかるに考古学は全然此裏づけを切離し、造られたものを素裸にして取り扱う」(「民間伝承論」)等々は、たとえばエリアーデが、「文化の最古の諸層においては、人間として生きることは、それ自身において宗教的行為である。というのは、食糧収集も性生活も勤労も、象徴的な価値をもっているからである。言いかえれば、人間であること、というよりはむしろ人間になることは「宗教的」であることを意味する」「先史時代人が「宗教的」であったか、それとも「非宗教的」であったかという問いが問われるのならば、その仮説を支持する証拠を示さなければならないのは「非宗教性」論者のほうなのである」(「世界宗教史」)というふうに示す宗教学と考古学の関係とまったく同列である。歴史学(農政史)から出る道をまずここに見出した柳田だが、旅はまだまだ続いたのである。
考古学と柳田の関係は、人文地理学会と今和次郎の関係として繰り返されるものであったかもしれない。今は考現学が人文地理学の方法と似ていることを認識しており、人文地理学会の創設や機関誌の編集にも関わっていた。だがのちには「人文地理学なんて、つまらない学問だ」と言っていたという。「農村を歩いてみると、百姓がよくあぜ道で立小便をしている。気をつけてみると、百姓が立小便する場所には、ある種の法則のようなものがあるらしい。それでこれを調査してみたら、と提案したところ、そんなものは、人文地理学の対象にはならない、と言われた。だから、人文地理学なんてつまらない学問だ」(川添登今和次郎」)というのだそうである。これをもっともだと思うか否かで、人間は二種にわかれる。前者のように世界と向き合う姿勢、それが本稿の追ってきたものであった。


(註43)岡谷公二柳田国男の青春」、筑摩書房、1991。
(註44)大藤時彦前掲書。
(註45)岡谷前掲書。
また、八木奨三郎・林若樹など大学の人類学教室の関係者が発起人となり、明治29年、「古器物を集めて彼我打ち解け、話し合ふといふにあり。即汎く世の同好者を会し各自所有の古物を携帯して、互に品評を下し、傍ら経験を語り考へを述べ以て談笑の中に智識を交換するを旨と」して設立された「集古会」というものがあった。官民の集合で、市井の篤学者をひきつけた。のちには学者連はしだいに離れ、好事家の集まりとなった。坪井正五郎は当然中心人物だが、鳥居龍藏は加わっていない。山中共古は初回から参加している。明治37年のこれの会員名簿に、柳田の名前が見える。尊敬する先輩山中共古の縁であろう。考古学会と同じ頃に入ったものか。とにかく、人類学会に入るのがいちばん遅いのである。
(註46)明治初年、内務省地理局が各府県に地誌の編纂を求め、地図を添えて提出させたものが内閣文庫に収められており、これを見る便宜があった。
(註47)柳田と有形物との関係は、彼の伝説研究の表題「木思石語」(1928-29)がよく示している。目に立つ木や石には伝説が付着しやすい。彼の興味はもちろん木や石そのものでなく、それが語るもののほうにある。見えないものを見るための手段ということだ。