「勝達いくみ遺稿集」あとがき

 遺稿を整理していたら、大量の手稿があった。当人や家族親族、地域の歴史を伝えるものとなるし、一周忌の供養にもなると思い、遺稿集としてまとめることにした。

 その中のノートにこんな詩を見つけた。

 

  新しき年 

一、ひとはみな 憩ひ楽しむ

 新しき 年の初めは

 毎年の ことゝは云へど

 寒き終日 机に向ひ

 冷える酒庫 ホースを運ぶ

 手は荒れて 爪も痛みぬ

 酒造りの 業の故か

 人はみな 楽しむ日なれど

 我のみは いよゝ忙がし

 

二、あらたまの 年の初めに

 追打ちを かけるが如く

 増税の 時期は迫れり

 報告の 書類はたまり

 売る酒の 在庫少なし

 綿のごと 体は疲れ

 眼底は 鈍く痛みて

 気のみぞ いよゝ嵩ぶる

 我のみは 何故か忙がし

 (昭和51年)

 

 いわゆる「ミドルエイジ・クライシス」であったのだろうか。それはちょうど句作や詩吟、漢詩を始めた時期とも重なる。同じノートにこんな句もある。

 

 不断着の まゝ元旦を 迎へけり

 

 また、詩作のごく初期に書いたと思われる次のような詩もあり、韻を踏んでいないから習作だろうが、そのころの著者の環境心境がうかがえる。

 

  偶成

 祖母長患余命僅 祖母は長く患いて 余命僅か

 母亦病弱視力衰 母も亦病弱にして 視力衰ふ

 晩春忽然慈父逝 晩春 忽然と慈父は逝き

 家業不振双肩重 家業振はず 双肩は重し

 (昭和51年)

 

 所収の「ロータリークラブでの卓話」に見えるように、研究者がおそらく天職であって、酒屋の主人には向いていなかったと思しい。だが、境遇のしからしめるところ、その仕事を全うすることとなった。悶々はあっただろうが、それを救ったのが漢詩作りであったと思われる。何かにつけ、ことあるごとに詩を詠み、詩友もできた。「悲しき玩具」ではないけれど、詩作を手のものにしてからはさまざまに遊んでいる。次韻や連環体のような伝統的なものから、漢俳、小唄や寮歌を漢詩にするなどの試み。遊ぶのは楽しく、遊んでいるのを見るのも楽しい。喜ばずにはいられない。

 さまざまなことを漢詩に詠んだけれども、なぜか妻についての詩はない。考えてみれば、それももっともだと思う。詩にするには対象との距離が必要だ。そんな距離は夫婦の間になかったのだ。妻の側からもそうだったのだろうと思う。そんな夫婦のあり方は、昔はごく当たり前でごく自然だったのに、現今いつの間にか失われていってしまっているのではなかろうか。そんな「自然な」夫婦の最後の世代だったのかもしれない。そのためでもあるまいが、一方の四十九日が他方の初七日であるような逝き方をしていった。「ホトトギス」の投稿句に二人の名前が並んでいるのを見るのは慰めである。