柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(10)

<「民俗学」時代を悔やむ柳田>
女婿の堀一郎によると、終戦後のある日、柳田はこう語った。「私はね、消えていくものには消えていくだけの理由があり、それを元へ返せなどと考えたことも云ったこともない。しかし今度は違う。滅んではならないもの、滅ぼされてはならないものがある」。敗戦によって日本人のこれまでの信仰が顧みられなくなるのを憂えたのである。そして、「新国学談」と題して「祭日考」(1946)「山宮考」(1947)「氏神と氏子」(1947)を矢継ぎ早に刊行した。同じく堀は、晩年の柳田が「惜しいことをした。昔話や方言などに熱を上げるんじゃなかった。もう時間が足りない」と口癖のように言っていたことを伝える(註27)。日本人はどこから来たかという問題を扱った最晩年の著作「海上の道」(1961)は、沖縄への思いをこめて、学問的でありたいという意志に反して、きわめて詩的である。それは、ジュネーヴへ立つ直前の「海南小記」の旅や、のちに藤村の詩となったことで有名な、新体詩人のころ、伊良湖岬に流れ着いた椰子の実を拾ったエピソードと呼応して、昔話や方言を取り扱い大きな成果をあげていた「民俗学時代」をはさみこむ。柳田国男個人にとって、帰国から敗戦までの「日本民俗学」の時代がどのように考えられるべきか、これもまたひとつのテーマである。


要するに、「柳田民俗学」というのは、柳田国男の意志と問題意識に導かれた、きわめて特異な、個性的な「民俗学」なのだ。柳田なき「柳田民俗学」が行き詰るのは当然である。彼の死とほとんど同時に始まった高度経済成長によって日本社会は大きく変貌し、民俗資料の採集自体がむずかしくなったということもある。「柳田民俗学」としては「民俗学」は成り立たない地点に来ているのだ。最晩年の昭和35年(1960)に「日本民俗学の頽廃を悲しむ」講演をしたというが、「今日流行の民俗学は珍談奇談に走り過ぎる」「学問は国のためにならねば、する必要はないと思う。…面白いだけでやってはいけない」などという発言は、柳田自身には至極もっともでも、以後の世代には共有できなくてもしかたがない。今日においては、柳田が昭和初年に考えていた「民俗学」(フォークロアと「婚姻」したエスノロジー)を目指すのが、「柳田民俗学」の真の復興であろう。


柳田を知る者は折口である。柳田論は汗牛充棟であるが、折口の「先生の学問」(1947)ほどに的確に捉えたものはない。「一口に言えば、先生の学問は、「神」を目的としている。日本の神の研究は、先生の学問に著手された最初の目的であり、其が又、今日において最明らかな対象として浮き上がって見えるのです」。「そう言う学問を立てよう立てようと、陣痛期の長い苦しみを経て、ひょっくりとふおくろあに行き逢われたのです」。「だから先生に創始せられた日本の民俗学は、明治の「大学の学問」が、凡飜訳して輸入した――其とは全然違う。…其処に到る道程は、西洋人がしたように、先生自身苦しんで歩いて行かれたのである」。「すべての遠慮をかなぐり捨てて、真のふおくろりすととして立たれたのは、貴族院書記官長を辞し、国際連盟の委員として二度洋行せられ、帰朝後、朝日新聞論説委員として記者生活に入られた大正十年頃からです。ちょうどこれを境として先生は、成城学園地域に定住せられ、学問の方へも、ぴたりと、輝く瞳を正面から向けて来られることになったのです。勿論表現様式も変わって来ました。これを考えなければ、先生の学の推移はわかりません」。「先生の他の学者との差別ある点は、言語に対する愛情の深さです」。
以上述べきたったところは、ほとんどがこの文章の注釈にすぎない。


(註27)堀一郎柳田国男と宗教史学」。後藤総一郎編「柳田国男研究資料集成」13所収、日本図書センター、1987。