柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(4)

<「民俗学」とは何か>
ここで、「民俗学」という言葉が問題になってくる。
日本には二つの「ミンゾクガク」が存在している。「民俗学」と「民族学」である。そのほかにも「文化人類学」「社会人類学」という名称もある。漢字二三文字の同音異義語が多いのが近代日本語の宿命とはいえ、「機会」や「機械」、「家庭」や「過程」ぐらいは何とか我慢するが(これだってぎりぎりだ)、非常に近い領域を扱う隣接の学問で、対象と手法に違いがあるとはいえ、それも亜種的なものにとどまるのみの両者が、同じ名前では困ってしまう。それに至るまでにはもちろん事情がある。「柳田民俗学」の特徴は、言葉を手がかりに考察を進めていくところにある。少し意味は違うが、ここでわれわれも言葉の問題を考えてみよう。
日本の近代は、西洋の学問体系を移植する過程であった。翻訳語を作り出すのが学者の重要な任務のひとつであった。欧米のほうですでに体系化が終わっていれば、それを移植するのはさほどむずかしいことではない。だが、こと「民俗学」「民族学」に関しては、西欧においても、名称のみならずその研究の対象や方法についても、国により民族により異同があった。柳田自身この問題について、「青年と学問」所収の「Ethnologyとは何か」「日本の民俗学」や「民間伝承論」(1934)「郷土生活の研究法」(1935)で追究している。名辞において共通理解が得られない場合、それを原語ないし西欧語で言うことによって了解をはかる、というのは日本の学者の間でよく見られる光景だが、「民俗学」に関してはそれもむずかしい。西欧においても必ずしも共通理解があるわけではないからだ(少なくとも柳田の時代はそうであった)。現在一般に「民俗学」はfolkloreの訳語だと見なされているが、そのfolklore自身、1846年に初めて使われたほどの新語である。Folkloreの語はイギリス以外の国にも受け入れられたが、それ自身には学問の意味はない(註15)。ドイツでは、Volk(民族、民衆)の単数形をとってVolkskunde、複数形でVölkerkunde と名づけ、自民族と異民族の研究を区別している(柳田のテクストで、「一国民俗学」「自国民俗学」という言葉を「比較民俗学」「世界民俗学」と対比的に使っている例があるが、あれはそれぞれVolkskundeとVölkerkundeの訳語である(註16)。「一国民俗学」(註17)に排他的なニュアンスを読み取るのは、むしろ曲解と言うべきである)。
今ではそれぞれ「民族学」「民族誌」として訳語が定まっているethnology、ethnographyには、実は当時から「定訳」があった。「土俗学」「土俗誌」である。東大では戦前を通じ「土俗学」として講じられていた。これは「適訳」でもあった。19世紀から20世紀前半のethnologyは、いわゆる「未開人」ないし欧米以外の地域の民族を扱う学問であり、日本や中国もその対象であったが、欧米人は対象に含まれなかった。漢語の「土人」はもともと「ところの人、土地の人」の意で、本来は特に貶める意味ではないけれど、しかし大正の時代でも、「上州の土人」などと言っては怒られる。西洋人の言うethnographyは、要するに「土人」の生活誌であったわけだ(彼ら自身が「土人」でないのは言うまでもない)。それを口真似し、海外はもちろん、国内同胞も「土人」として研究しようという態度が、「土俗誌」の語感にはつきまとう。「土俗という言葉は久しい前からの漢語であって、字面から言うならば或郷土の習俗、土に即して古来存するものというだけかも知らぬが、此語を用いる人々の心持には、卑しく鄙びた又奇怪なる所作、自分たちならそうはせぬものという意味があったようだ。是がちょうど又Ethnographyという洋語の、当初その本地に於て帯びて居た語感でもあった」(「郷土研究の将来」、1931)。「以前日本に行なわれていた土俗学などというものは、かつて白人が赤黒褐色の国に携えて行った態度をもって、この自国同胞の上に臨もうとしたのである。我々の久しく説いている個々の郷土研究とは、ほとんど似たところの一つもない、乱暴きわまる調査法であった」(「郷土生活の研究法」)と柳田が指摘する通りである(註18)。「土俗」同様、「民俗」も由来の古い語であるが、前者と違ってそれを言われる側にも抵抗がない。「土俗」の同義語として以前から使われていたし、したがって「土俗学」(=エスノロジー)を「民俗学」と言うこともままあった。
日本もそのころ白人に人種差別をされる国であったことを忘れてはならない。漱石が「文学論」序に、「ロンドンに住み暮らしたる二年はもっとも不愉快の二年なり」と書いたこと、南方熊楠大英博物館で殴打事件を起こしたことの背景にはこれがある。移民問題は柳田の関心事であったが、アメリカの排日移民法制定がまさに当時の大事件であった。
第二次大戦後、欧米でも自分たち自身をethnology、ethnographyの対象と考えるようになり、「ヨーロッパの民族学民族誌」が違和感なく言えるようになったとき、名称をめぐる混乱はなくなった(それは、ヨーロッパ人の反省にもよると同時に、交通・通信の発達や「文明化」の進展で、われわれと隔絶した生活を送る「未開人」というものがいなくなってきたという事情にもよる)。戦後のドイツでVolkskunde の名称を忌避する動きが出たのは、Volkskundeが民族精神発揚の手段としてナチスに利用された過去の悪い思い出のためでもあるが、ひとつには自他の垣根を設ける必要が薄れたことにもよっている。


(註15)ヨーロッパでは、folkloreには民話・民謡・民俗舞踊・祭礼などを指すという語感がある。
なおfolkloreについては、漱石が「倫敦消息」(1901)に「もう一人お婆さんがある。このお婆さんが先だって手紙をよこしてそのなかにfolkという字を使っている。ただ使っているだけなら不思議はないが、その字にfoot noteが付いている。これは英国古代の字なりとあった。「ノート」を自分の手紙へつけるのも面白いが、そのノートの文句がなおさら面白い」と書いているのを思い起こしてもいい。このお婆さんがわざわざ脚注をつけたのは、folkの語が一種「ゆかしき古義」のようなものだったからであろう。
(註16)「私はかりにフオルクスクンデの方を一国民俗誌学、または日本民俗誌学、今一つのフェルケルクンデを万国民俗誌学、もしくは誤解のおそれがないならば比較民俗誌学と名づけておいて、他日もっとよい語があったら取替えることにしようと思う。そうしてこの知識が十分に整理せられ、一つの体系をもってこれに臨むことができ、たとえばフオルクスレエレという語が用いられてもよい時節が来たら、はじめてわが国でも堂々と日本民俗学と名乗っても、未だ必ずしも遅しとせぬであろうと信ずる」(「郷土生活の研究法」)とも書いている。のちにはVolkskundeを「民俗学」、Völkerkundeを「民族学」としている(「比較民俗学の問題」)。
(註17)「日本民俗学」をのちに頻用したのは、「民族学」との同音を避けるためでもあろうが、この「一国民俗学」の意味合いも付与されている。
(註18)東欧諸国では同胞自民族の研究をもethnography(ハンガリー語のnéprajzはその直訳)と称していた。
歴史が浅く、その間にも歴史に翻弄された「民俗学」は、それぞれの国や民族の事情によって、官学との関係によって、さまざまな現われ方をする。インスティテューションの問題もある。「日本民俗学」の特徴は、物質文化研究が弱いことだ。それは、柳田や折口という精神文化のすぐれた学者が指導していた在野の学問という生い立ちによる。聞き書きは容易だが、モノの収集には資金や運送手段、保管場所が必要だ。民族のアイデンティティの要として優遇されていた一方で(各国の民俗博物館の首都におけるよい立地を見よ)、その研究者のほとんどが都市民の出身である。農村出身者(柳田自身がそうだ)の多い日本とはここも違う。「比較民俗学学」というものをやってみたらおもしろかろう。