柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(8)

ジュネーヴ体験>
おそらく、大正8年(1919)末に官を辞し、最初の3年は内外を旅行をさせるという条件で朝日新聞に入社して、沖縄旅行(ここからの帰途に、国際連盟委任統治委員になれとの話が電報で飛び込んできた)に出たときに、「前史」が終わり、後世の知るあの「民俗学者柳田国男」に向けての重大な一歩が踏み出されていたのだろうと思う。しかし、それを決定的にしたのは、「ジュネーヴ体験」(1921-23)である。
柳田の滞欧は、フレイザーを訪ねた、ベルリンの古本屋でボアズに会った、などというエピソードにとどまるものではない。
ジュネーヴの柳田は、孤独を痛切に感じていた。「ジュネヴの冬は寂しかった」。沖縄の旅行記「海南小記」(1925)は帰国ののちに出版されたが、それはこんな文句で始まる。もう五十にも手が届くような歳で、彼にとって初めての一人暮らしであった。それも異国で。「今でもよく憶えているが、諫早駅で小さな子供がよちよちプラットフォームを歩いているのが目についた。そのとき、あの子は西洋へ行かんでいいなあと感じてしまった」(「故郷七十年」)。そして、「本国に於て山出しとか、赤毛布とか謂って居た言葉の意味を、爰へ来て始めて内側から体験した」。「やたらに通りがかりの日本人を引き留めて、幾夜か語り更かす」(「ジュネーブの思ひ出」)前貴族院書記官長。
大正11年12月9日付佐々木喜善宛書簡には、「私は国の為にこんな不似合な仕事の為に三年越の大切な月日を何もせすにこゝでくらしてゐる 此だけの分は何が何でも定命より長生をさせて貰ハねハならぬ」と書いている。出発前にすでに我が行く道を見つけていた人の言と聞くべきだ。もう若からぬ自分の歳を数え、これからせねばならぬ多くのことどもを考えて、滞欧を無為の月日と観じて漏れた言葉だが、いかに孤独で不如意な生活だったにせよ、柳田は機会を逃す人ではない。そもそも朝日新聞社に願い出た3年の旅の期間には、「兼ての望みだった太平洋諸島の巡歴」をしようとも考えていた、大正7・8年(1918-19)ごろには、弟松岡静雄を助けて日蘭通交調査会を作り、オランダ語を習い、辞書まで編もうとし、インドネシアのことをしきりに調べていた彼ではないか。「外交官になって見ようかと思う」などと日記に書いてもいたし(大正7年)、若い頃は、船の中で読めるし、外国へも行けるから、「学資のいらない商船学校へ行って船長になろうかと考えた」(「故郷七十年」)人だ。その通り、渡欧の船の中ではよく本を読んだ。その書目には、有朋堂文庫、「燕石雑志」などに混じって、「ザメンホフ伝」もある。上海では「ピジンイングリシュ」の本を買ってもいる。どうしてそんなものを?
彼は委員会で、言葉の問題に直面していた。「どんな事柄でも即座の欧州が出来、怒りも喜びも自分の言葉と同様に、隠れた隈も無く表出し得るようにならぬ限り、結局は…我語を用語とした国に一籌を輸することになる。負けに行くようなものだ」。「言葉が根本の問題だということを、痛切に考えずには居られなかった」(「ジュネーブの思ひ出」)。
むろん、必要なフランス語の稽古をおろそかにはしない。「小説にあるやうな露国の零落した婦人にフランス語を学んでゐます」(大正10年7月16日付佐々木喜善宛書簡)。しかしその英仏語で困難を感じていた彼は、エスペラントに「希望」を持った。
彼が入っていたエスペランティストの会は「ステロ(星)」といった。「ステロの会員には貧乏な人が多く、多くは又婦人です、私の先生はシニヨリノウマンスキ、オデッサ生れの露人です フランス語と両方の教授で生活して来た人です、年ハ私くらゐで文章は中々上手です 其他にフランス語の先生がハンガリー人、昨年の先生ハ露人に嫁したボエミヤ人、女中もボエ人を置いてゐます、純粋のジェヌボアは仏人とよく似て附合を好まず、たまたま近よつてくる人ハ多くは気の毒なイスラエリットです」(大正11年12月9日付佐々木喜善宛書簡)。エスペラントの大会にも参加し、佐々木に写真を送る。「四月の四日にヴェネチヤでうつしました、場所は世界でも尤もうつくしいサンマルコ大寺の門前で仲間は皆エスペランチストです 右の大きいのがチェッコスロバキヤの人ロマダ他の二青年はハンガリヤ人、二人の姉妹は此町の娘です、エスペラント大会の特志案内役でした 今になつては夢のやうな記念です」(大正12年6月16日付書簡)。「私は「エスペラント」の方から日本の文章道をも改良し得るとさへおもつてゐます」(大正12年1月7日付佐々木喜善宛書簡)とも書く。自分たちの学会の構想として、「行く行くはパンフレットなども刊行し、国際文化局などとも結び、エスペラント語などで研究発表すれば、諸外国の学者をも喜ばせ得ると思う」(「民間伝承論」)と語ってもいる。
1922年の委員会で、国際連盟委任統治委員会の委員は休会中めいめいが課題を持ち帰り、それを調べて報告することになった。柳田の報告は翌年行なわれたが、「委任統治領における原住民の福祉と発展」というテーマで、「此ナラ道楽ノ学問トモ若干一致スル故此カラアマリ旅行ナトセス静カナ処ニヰテ本ヲ読ムヘシト決心致候」(大正11年8月13日付)(註23)、「御蔭ニテ留学生ノヤウナ心モチニテ学問ヲスルコトカ出来、自分トシテモ悦ヒ居候」(同年9月22日付)と外務省の山川条約局長宛に書いている。この中には、原住民の言語や教育をめぐって、かなり重要な認識が示されている。原住民のことばのほうが語彙や文法に類似性があるので学習しやすい、原住民と支配層の間に立つ通訳などの特権グループを生み出さない、などの利点をあげて、「ヨーロッパ語のかわりに原住民の一、二のことばを共通語として採用する」ことを推奨し、「原住民の子供に国歌や歴代皇帝の名前を強制的に覚えさせるといったあまりにも国家主義的な、二つの人種の同化だけを目的とした類」の教育でなく、「彼らがアフリカや太平洋の広大な地域と人類の長い歴史のなかで占める位置を理解」して、「彼らの個々の存在やその存在意義を自覚する」ためには、「上手に系統立てられた歴史や地理の教育」が必要だと指摘している。また、福祉の対象として考えられているcommon peopleとかcommon bodyは、原住民から混血児・外来者・首長や重立ち・通訳などヨーロッパ語を話せたり特別な教育を受けた階層をはずした残りの大多数であって、「柳田民俗学」で重要な概念となっている「常民」と重なる。つまり「常民」概念がこの報告から始まっていることを、岩本由輝は指摘している(註24)。
余暇にはジュネーヴ大学に聴講に通い、ピタール教授の人類学の講義を聴いた。そこでドーザの「言語地理学」を知った。「蝸牛考」(1930)で示された名高い「方言周圏論」は、このような刺激を受けて成ったのである(註25)。
帰国後の柳田のひとつの顔は、方言学者であった。前身の方言研究会や東京方言学会でも主宰者の一人であったが、昭和15年(1940)に日本方言学会が創立されると、その初代会長になった。上述の言葉をよりどころにする方法、民俗語彙の体系的収集が始まったのもこの時期、昭和3年(1928)の春からである。地名については明治期より研究していたけれども。国語学に関する論考が出てくるのも昭和期である。
ヨーロッパの、特にドイツやスイスの民俗学会の活動に触れたことも大きかったろう。バーゼル大学のホフマン・クライヤーが中心になって、「独逸民間伝承研究団連合」は「民俗学書誌」を刊行していた。柳田文庫にある「1917年度民俗学書誌」(1919)「1918年度民俗学書誌」(1920)は、当時現地で購入したのだろう。協同の力を信じ、生涯にわたってそれを推し進めた柳田は、「民俗学」が大学に講座を持つ学問であり、学会が組織され、機関誌のみならずこのような書誌も刊行し、協力して事典類の編纂を行なっているのを見て、自信を得たのではないか。「道楽の学問」からの脱皮がスイスで果たされたと考えてよかろう。のちによく利用したボルテとマッケンゼンの「民譚語彙(昔話語彙)」(「ドイツ昔話辞典」第1巻1930/33・第2巻1934/40)はまだ出ていなかったが、ボルテとポリフカの「グリムの御伽話細註」全5巻は当時ちょうど刊行中で、第4巻(1930)・第5巻(1932)は未刊だったが、第1巻(1913)・第2巻(1915)・第3巻(1918)は滞欧中に入手できた。伝説には昔から関心があったけれど、彼が昔話の研究を始めるのは昭和期である。昔話の「発見」はジュネーヴで行なわれた(註26)。
40代後半の独居で孤独だったかもしれない異国暮らしだが、時代としても年齢としてもよい時期に「留学」したものだと思う。彼の中ではいろいろなものが発酵していたのではないか。大正11年12月9日付の佐々木喜善宛書簡では、「此頃フランス語に熱心になつて、若い洪牙利生れの猶太婦人を相談相手に「嫁の田」の話を書いてゐます」と伝える(同年の日記の12月1日条には「ウナリ考」を仏文で書く気になるとある)。さまざまな刺激を受けて書かずにいられなくなった柳田の姿を認めるべきだろう。


(註23)「道楽ノ学問」と言ったのは、もちろん外務省に対しての韜晦でもあろうが、南方への大正3年5月12日付書簡でも「民俗学は余分の道楽に候」と言っていたように、そのような自己認識はまだ続いていたとも見られる。「民俗学」はいかにも道楽に傾きがちになるものだが、のちにこの道に専心するようになったとき、「民俗学」を「道楽」的に研究する態度を排斥する急先鋒になった彼(「道楽の分子をフオクロアに入れることは断じて不可である」)を思うと、示唆的である。
(註24)岩本由輝「もう一つの遠野物語」、刀水書房、1994。
(註25)W.A.グロータース「『蝸牛考』のふるさと」、「定本 柳田国男集」月報35、筑摩書房、1971。なお「周圏論」という言葉自体はドイツの農業経済学者テューネンから引いたという(「わたしの方言研究」、1961)
(註26)高木昌史編「柳田国男とヨーロッパ」、三交社、2006。