対比と相似の「柳田学」(4)

著作権の彼岸>
ある学問がまさに形成されようとしているところに、ぜひ立ち会ってみたいものだと思う(もちろん学問でなくてもいいけれど)。公式の組織形態から離れた同志的な結びつきで、刺激や発想の交換を行なう瞳の輝く人たち。シャンパンの泡がはじけるような脳内の沸騰、周囲の活性化。著作権が生じるとき、それはもう死んでいる。凝固したもの、さらに言えば抜け殻にすぎないのだから。
柳田が「民俗学」への道を歩んでいたとき、いまだ固定しえぬ生成の息吹がそこここにあったに違いない。「山島民譚集」(1914)の再版の序(1942)の、「ほんの片端だけ、故南方熊楠氏の文に近いような処のあるのは、あの当時闊達無碍の筆を揮って居た此人の報告や論文を羨み又感じて読んで居た名残かとも思う」との柳田の述懐、「古代研究」(1930)の「追い書き」に「私は先生の学問に触れて、初めは疑い、ようやくにして会得し、ついには、我が生くべき道に出たという歓びを、今も忘れないでいる」「先生の表現法を模倣することによって、その学問を、全的にとりこもうと努めた」との折口の回想は、同語反復である。その後自分独自の文体を確立したわけだが、尊敬する先達の思想を学ぶため、文章がまず似てくるというのはさもあるべきこと。書き癖を模倣しても取り入れようとしあった若々しい学問の誕生の風景が浮かび上がってくる。「石神問答」(よくまあこんな形式の本を出したものだ)も、その仮説の当否はともかく、創意の交換のさまがありがたい。南方との「往復書簡集」もしかり。
「常民」という言葉は「柳田民俗学」のキーワードということになっている。柳田はこの言葉を明治44・45年(1911/12)から使っているが、大正年間にはこれよりも「平民」のほうを多用し、「庶民」も用いていた。渋沢敬三(1896-1963)が戦時中アチック・ミュージアムの改称を余儀なくされたときに、「日本常民文化研究所」としたことは前にも触れたが、彼もまた「常民」という言葉を昭和初期から使っている。彼の年譜のその年(昭和17年)の項には、「常民」とは英語の「コンモンピープルの意として用い出せるもの」で「敬三の作出にかかる」と記されており、柳田も、「常民」の語を使い出したのは「私よりおそらく渋沢君などのほうが早いかもしれませんけれども、それを是認したのはわれわれで」と「日本文化の伝統について」(1957)の座談で語っているのだ。1932・33年あたりから柳田のこの語の使用がふえていることから見て、このころ渋沢の解釈や用法の影響を受けたのかもしれぬと有賀喜左衛門は考えている(註42)。だが、先後関係やプライオリティは問題ではない。共有と交換、相互影響が問題なのだ。「戸籍調べ」より先に感じるべきは、論理や術語が泡立つそのさまだ。


(註42)有賀喜左衛門渋沢敬三柳田国男柳宗悦」、「一つの日本文化論」所収、未来社、1976。