柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(9)

柳田国男とマージナルなヨーロッパ>
ここではたと気づく。この手紙を含め、上に引いた手紙の中に出てくるのは、ほとんど東欧・ロシアの人ばかりである。彼のジュネーヴ滞在時の日記を見ると、東欧の影がそこここに差している。「セイケイ」というハンガリー人と知り合い、彼がアメリカへ渡るまでの間同居させてやっている。バレ・リュス(ロシア・バレエ団)の公演を見に行ったり、オルテンのような田舎町でバラライカの演奏を聞きに行ってもいる。それまでの人生で、とりわけて東欧やロシアに関心を持っていた人ではないのに。東欧ではないが、やはりヨーロッパの辺境で、ロシアから独立したばかりのフィンランドについても、「フィンランドの学問」(1935)などで紹介している。新渡戸稲造国際連盟時代の随筆「東西相触れて」に、ポーランドチェコについての言及が多いのも思い合わされる。ある意味で「東欧の時代」、西欧に向けて東欧が溢れ出した時代であったのだろう。
東欧に興味をもつ理由があったかもしれない。支那や印度や日本のように、「一面には新文化を味わいつつ、旧い考えをその間にもっている」国は西洋諸国には珍しいのだが、「もっともヨーロッパのうちでも東に寄った、ブルガリヤやユーゴースラビヤなどには、そうした面影があるかもしらぬ」(「郷土生活の研究法」)と認識していた。日本に近い位相にあると感じていたのだろう。
そして、ユダヤ人である。自覚もしていたようだが、彼の周りにはユダヤ人が多かった。オデッサユダヤ人が人口の3分の1を占めていたような町だから、ウマンスキー刀自もそうかもしれない。19世紀の末、東欧のユダヤ人が起こした二つの影響の大きい運動があった。ひとつはポーランドリトアニアの境の町に生まれたザメンホフの考案した国際語エスペラント、もうひとつはブダペスト生まれのヘルツルの唱えたシオニズムである。この二つともに柳田は強い興味を示している。
エスペラントについては上述の通りである。この運動にもユダヤ人が多かった。柳田とも交渉があり、国際連盟の公認を得ようと活動していたプリヴァ博士もユダヤ人だった。もうひとつのシオニズムは、その目標の地パレスチナがまさに柳田の所属した委任統治委員会の熱いテーマで、彼自身パレスチナ視察を外務省に願い出たほどである。この旅行は残念ながら役所一流の事なかれ主義のため実現しなかったが、彼は滞在中、ラムブラン「猶太禍論」、レオンラヴィゾン「史上の猶太人」、「ロシアに於ける猶太人」などを読んでいた。帰国後の大正13年(1924)には、国際連盟協会で「猶太人の問題」を講演している。「新国学者柳田国男の背後にはそういう経験や知識があることを忘れてはならない。時代の「インターナショナリズム」を彼は背負っている。