対比と相似の「柳田学」(5)

<悪口雑言集>
私は柳田の「悪口雑言」をこよなく愛する者である。
柳田という人は、折口信夫よりも詩人、南方熊楠よりも野人だと思う。詩を書かない詩人は、書く詩人よりさらに「詩人」である。彼の著作すべてが「詩」である、と言いたい気持ちに駆られる。また、初めから官途に就くことなく、紀州田辺という辺境に蟠居していた南方が野人なのは言うまでもないこと。官吏として一応の位を極め、それを辞してのち、あれほどの学識見識を有しながら大学に職を求めず、一貫して在野で活動した柳田国男が「野人」でなくて何であろう。その「詩人」にして「野人」の本領が、彼の時折発する「激語」に現われている。
「学問に向ってどれだけ現代に役に立つかを尋ねるなどは、冒涜のように感ずる学者もあった。無遠慮に批評すれば、是ほど片腹痛い言い草はたんと無い。学問を職業にし、それで衣食の資を稼ごうと企つればこそ賎しかろうが、弘く世の中の為に、殊に同胞国民の幸福の為に、又は彼等を賢こく且つ正しくする為に、学問を働かすということがどこが賎しい。寧ろそうしたくても出来ないような者こそ、気が咎めてよいのである」(「現代科学といふこと」、1947)
「教育は如何なる場合にも必ずもとの群から出てしまい、以前の自分たちと同じ者を食いものにし、又は少なくとも彼等を家来にしようとする」(「現代科学といふこと」)。
「受け売りもなるほど国内では学問のうちだが、これをふたたび翻訳して見せることは、あたかも氷を煮て食べさせようというようなもので、本元に向かっては通用しない。しかるに日本の名士の中には、人種差別論さえ白人から受け売りする者があり、またその受け売りすら十分にはなしえない有様である。かくして大学あり学者ある国として認められたいというのである。国を愛する一国民たる自分すらもこれには首を傾ける。いわんや冷淡なる世界ははたしてこれを許すかどうか」(「青年と学問」、1925)。
「日本がもし今までの通りに、いくらか流行におくれつつも、真似だけはかならずする国民であるならば、これから三十年五十年の後の、学問の方向だけはおよそ予察しえられるのである。ただ大学は寺院に次いでの保守派であるから、やや余分に遅蒔きに渋々ながら追随するという結果に、陥りはせぬかと気遣うのみである」(「青年と学問」)。
「外国人は何かというとすぐuniversalというが、それは彼等の知って居る範囲のみをいうのであって、其範囲以外のことを云われると彼等の知識は破滅しなければならぬのである」(「民間伝承論」、1934)。
「日本などは農の歴史でも税の歴史でも、鎌倉室町の五六百年間を、ぴょいと跨いで来たままに抛って置きながら、おまえの村の由来は不明だ、平民は要するに無名だと、乞食が金を借りに来た時のような挨拶をなし、そしてわきを向いて大に国民性を論ずるなどは感心しないではありませんか」(「郷土誌編纂者の用意」、1914)。
「我々が「国民道徳の伝統」などと大きな事を言う人に、広く材料を求めて貰いたいのは平凡人の平凡生活であって、決して政治家の茶呑話や大将軍の気紛れでは無いのだ」(「雑誌は採集者の栞」、1918)。
「多くの学問は暗記であり様式であり盲従であり、良心ある者にはすなわち苦悶であった」(「郷土研究ということ」、1925)。
民間伝承を正しく利用できず誤ることがあったため、これを否定的に見る者がある。「併しながら濫用すれば何だって悪い。古事記書紀の正文でも、誤って之を援引するときは無用以下である。近頃の歴史家と云う人の中には古墳を鑑定する者があって、其証拠に供せられるのが大抵の場合には国造本紀などである。而して其様な断定が実際馬鹿々々しいものだとしても、此が為に其古書の価値は下りもせねば上りもせぬ。況や古墳の方に至ってはどこ迄も古墳で、馬鹿な学者に連坐して贋物に堕落する道理は有り得ない」(「雑誌は採集者の栞」)。
「フオクロアはどこまでも常民大衆の生活より帰納せられるべき学問であって、予め煙にまかし盲従させるべき英雄的事業ではないのである」(「民間伝承論」)。
「できるだけ多量の精確なる事実から、帰納によって当然の結論を得、かつこれを認むること、それが即ち科学である。社会科学のわが国において軽しめらるる理由は、この名を名のる者が往々にしてあまりに非科学的だからである」(「郷土生活の研究法」、1935)。
近隣から食べ物をもらい集める、つまり共同体の助力によって治すというモノモライの治療法を論じて、「瞼のできものの治療は甚だ微々たる現象であるが、是に残って居る思想は重要であった。ちょうど我々日本人が失い又は忘れて、今や何ともいえない寂寥を感じて居るものが、まだ此部面だけには幽かに伝わって居たのである。それを発見する手段が他にも有ると思う者だけが、ただこのフオクロアの学問を侮蔑することができる。其他の人々が笑うのは心得ちがいであろう」(「モノモラヒの話」、1935)。
南方熊楠も痛快に人を罵った人だが、それに勝るとも劣っていないのではないか? 丸太ん棒をブンブン振り回すのが南方なら、柳田のは切れ味鋭い真剣だ。深手を負った人も多かろう。柳田は官位があって幸せだった。ふつうこんなことを言う者は奇人変人扱いされて、まともに取り合ってもらえない。その言が「正しい」ために。「正しい」ことは危険だ。柳田の場合、その「正しさ」を貫徹しえたのは、単に履歴のみでなく、凡輩をはるかに抜く知識と意志があったからである。