オシムはクラマーかジーコか

サッカーの日本代表は、このところずっと外国人監督が続いている。トルシエジーコ、そしてオシム。加茂・岡田の前もオフトがやっていた。
それはちっとも悪いことでなく、外国人監督は歓迎だ。情実が入りこみがちな日本人に対し、外国人は達成だけが判断の基準になる。強いメッセージを発することもできる。それに、トルシエファルカンを除き、あとは外国人といっても日本をよく知る人たちだし。
そのように外国人監督をひいきにしている人間から見て、ひとつ気になることがある。加茂や岡田を呼び捨てにする選手はいない。「岡田さん」「岡田監督」と言うよね。でもジーコトルシエはみんな呼び捨てなんだ。「部下」である選手たちが。
一方で、ラモスのことはみんな「ラモスさん」て呼んでるでしょ? ラモスとジーコと、どっちが上だと思ってるんだ。ラモスもうまい選手で、日本サッカー史に残る存在だけれど、世界サッカー史上に輝くジーコとは比べものにならないじゃないか。
ラモスの場合、年長者や同輩は「ラモス」と呼び捨て、後輩たちは「ラモスさん」と呼ぶ。みごとに日本社会の、体育会系のあり方をしている(現代表のサントス・アレサンドロはまだ若いから、たいていの人に呼び捨てにされているが、若い連中は「アレさん」と言ってるんじゃないかな)。
この両者をわける線がどこかにある。ラモスをその内側に、ジーコを外側に置く見えないラインが。それは、日本国籍の有無なのだろうか? まさか、そんな法務省管轄で敬語の用法が決まってたまるものか。では、日本語ができるできないが基準なのだろうか? これはどうも当たっていそうだ。だが、それにもなお反証がある。じゃあ「クラマーさん」はどうなんだ、ってことです。外国人だし日本語できないけど、いつも「さん」づけだぞ。
今日までの日本サッカー史上最高の達成である五輪銅メダルを勝ち取ったメキシコ組の選手もコーチも監督も、敬愛の念をこめて彼らすべての師であるクラマーを「クラマーさん」と呼ぶ。あとに続く連中もそれにならう。上司が「さん」づけしてるのに、部下が呼び捨てにするわけにはいかないものね。
教師タイプの人だったようで、やったことも要するにヨーロッパの進んだサッカーを教えることだった。人格者でもあった。尊敬されるべき資格はふんだんにあった。ちなみに、トルシエが反発を招いたのは、サッカー界の重鎮連中が外国人(より正確には、ヨーロッパの白人)指導者に無意識に「クラマーさん」を期待していたからなんだろう。人格者を期待してるとこにあんなのが来たから、よけいに反感を持たれたんだろう。あれはあれで、白人のひとつの典型なんだけど。「クラマー・コンプレックス」の犠牲者みたいな側面はあったと思う。かといって別に同情はしないが。
「クラマーさん」は尊敬していて、「ジーコ」は尊敬してないのか? しかし、サッカー選手でサッカー選手としてのジーコを尊敬しない者などいない(監督としては別にしても)。コトは、敬意が敬語・敬称という形をとる場合ととらない場合がある、というふうにまとめられそうだ。


会津八一という人は、坪内逍遥だけが「先生」で、あとはみんな「クン」づけだったという。「大伴クン」と言うから誰かと思ったら、大伴家持だったそうだ。そう聞くとみんな笑うけど、じゃあどうして笑うのか。「クン」づけだから? いや、「くん」だからいかんのではなくて、生きている人と違い、この場合は「大伴さん」でも、敬語を使ってもおかしいのである。家持について、「大伴さんのお詠みになったお歌はたいそうお上手で」、とは言わんわな。ウラの大伴さんちのバアさんの歌についてなら、そうも言うかもしれないが。といっても、万葉歌人より近所のお婆さんを尊敬しているわけではもちろんない。歴史上の人物には敬語を使わないし、「さん」づけもしないのが原則なのだ。
柳田国男の弟子には、まだ存命の人が少々いる。この人たちは今も必ず敬意をこめて「柳田先生」と言い、それより年少の、生前の柳田を知らぬ者(つまりほとんどすべての現生日本人)は「柳田」とのみ言うが、敬意を持たぬゆえに呼び捨てるわけでは決してなく、「漱石」や「鴎外」に敬称をつけないのと同様だというにすぎない。呼び捨てでも、じゅうぶん敬意を表すことはできる。敬称抜きのほうがむしろ純粋に尊敬を表しうるとも言えるだろう。「先生」づけは、敬意とともにステータスをも表していそうだし。自分は親しく指導を仰いでいたのだというような。
尊敬語は尊敬の念を表すというのはナイーブな誤解で、「尊敬」と同等に「敬遠」も表しうる。距離感の表現であるわけだ。敬語が示すのは、いうなれば「世間」の関係にあるということであり、上下関係や敬意もだが、おそらくはそれ以上に「親しさ」と「遠さ」を表している。ある程度親しく、ある程度遠い人に対して使われるのが敬語なのである。だから、「世間」の外にいる人たち(歴史上の人物とか、日本語を話さない外国人とか)に対しては、敬語や敬称が用いられない結果となる。
日本語には、「ウチ」と「ソト」というものがある。自分と自分に近い人が「ウチ」、それ以外が「ソト」。ウチに属する者にソトの人がものを与えたら、それは「くれる」。ソトの人になら「あげる」。「ケンちゃんがくれた花」と「ケンちゃんがあげた花」。日本人なら花をもらったのがどんな人かすぐわかる。しかしウチとソトの境界は、場面によって流動的だ。部長が社内で説明すれば、尊敬語で「ご説明になる」(この場合の部長はソト)、同じその部長当人がよその会社の人に説明すれば、謙譲語で「ご説明する」(この場合はウチ)。日本語において「ウチ」と「ソト」は文法的カテゴリーにまでなっていて、敬語の尊敬語と謙譲語はこれを基に体系づけられているのだ。
しかし、この「ウチ」と「ソト」をひっくるめて、その両方を「ウチ」とし、そのさらに外側を「ソト」とする視点がある。「メタウチ」「メタソト」というわけだ。敬語体系の彼岸である。歴史上の人物とともに、外国人はそこにいる。
ジーコの場合、「さん」づけしないことがむしろ敬意なのかもしれない。対面でインタビューするときなどにはもちろん「ジーコさん」と言うけれど、そうでない場面でそう言ってしまうと、何か妙ななれなれしさが出てくる。そういうもののないある種の隔絶感は、敬意の表現の一種であるかもしれない。
「クラマーさん」の場合は、内側の人となったから、「さん」づけなのだ。その中には、尊敬の念と同じかそれ以上の分量の親しみがこもっている。母校で親しく教えてくださった外国籍の先生、という感じなのだろう。「ケーベル先生」と同じである(そういえば、メキシコ組ってほとんど大学出なんだね)。


オシムはどうなるのだろうか。「オシム」と呼び捨てか(「ジーコ」のように)、「オシムさん」と呼ばれるか(「クラマーさん」のように)。ジェフの選手は「オシムさん」と言っていそうな気がするが。
教師的な感じはあるし、老人でもある(最近の日本では敬老の念はとみに薄いのだけれど)。自分の哲学を持っている人でもある。日本人だったら尊敬を集めるはずの要素はじゅうぶんにある(ただ、「哲学者」と「人格者」は別の概念なんだよね)。
オシムは「ジーコ」になるか、「クラマー」になるか。業績のほかにも、私はこんな点にひそかに注目している。