対比と相似の「柳田学」(2)

<柳田の「道の友」たち>
柳田国男という人は社交的で、さまざまな会を組織したり会に参加したりして交友も広かった一面、自分の学問領域の周辺では、やたらに人と衝突する人でもあった。それも、優れた人物を選んだかのように角逐している。逆説的に、彼と衝突するのは一流の証だとも言えそうな気がする。柳田の学問の特質は、これらの人々を横に置くことで、より深く理解できるのではないかと思う。
南方熊楠との決裂が有名だが、家に住み込んだという点で「唯一の弟子」かもしれない岡正雄(1898-1982)も、耐え切れず逃げ出し、「破門」された格好である。折口信夫(1887-1953)は、何をされても師礼を尽くし、袂を別つことはなかったが(註30)、ふつうなら決別しているような仕打ちを何度か受けた。いっしょに「郷土研究」を編んだ高木敏雄の場合は、こちらも圭角多い人物で、当初から懸念されていたらしいが、案の定編集をめぐってぶつかり、1年ほどで雑誌を去っている。「考現学」を唱えた今和次郎(1888-1973)は、実際にはそんなことはなかったのに、「破門された」と自称して遠ざかった。予感があったのかもしれない。
そのほか、兄弟だから衝突こそしなかったが、松岡静雄(1878-1936)や井上通泰(1866-1941)、特に前者とは学問的にぶつかるはずのものであった。「郷土研究」にならったような雑誌「民族と歴史」(1919-24)を出して、賎民や漂泊民、先住異民族など、マージナルな人々を研究し、明治・大正期の柳田と関心領域において重なっていた歴史学者喜田貞吉(1871-1939)との関係にも、微妙なものがあったようだ。


高木敏雄と柳田が出会ったのは、明治44年(1911)、神道談話会で高木が「古事記について」を講演した席だった。そのわずか4か月後には共同で雑誌「郷土研究」を創刊しているのだから、意気投合したにちがいない。南方に高木を紹介して、「高木君は十二、三年来貧乏にもかまはず非常の精力をもつて読書せし人にて、学殖すこぶる軽んずべからずと存じ候。今後何とぞ喧嘩をせぬやうに御交際をねがひたく候。少々変人との評あれど、小生はうまく梶をとり、死ぬまでにぜひ大なる研究事業を完成せしめたく熱望致しをり候」(明治45年2月9日付書簡)と書き送っている。雑誌編集をめぐる意見の相違があったことのほか、経済的にゆとりがなく稿料稼ぎのための原稿執筆に忙しいという事情もあり、「郷土研究」と柳田から離れるが、柳田のほうでは、高木の早すぎる死後その遺稿をまとめて出版してやっているし、評価の言葉を惜しんでいない。
金田一京助は中学時代、「素神嵐神論」を引っさげて「帝国文学」誌上で姉崎嘲風・高山樗牛らと堂々の論戦を戦わしていた高木の論文に感動させられたと回想しているし(「わが道」)、折口は「年譜」に、14歳のころ「白鳥処女伝説」を読んだことを記している。感銘を受けたらしい。「早太郎童話論考」では萌芽的な構造分析を行なうなど、ヨーロッパの研究とも同時代的に、いまだ未開の日本の神話学を切り開いた先駆者であった。
高木の伝記には不明なところが多いが、落ち着かぬ生涯を送っている。学問的に多産だった時代のあとに、何も書かない数年が続く。職も住地も転々としている。大学を卒業し、明治33年(1900)熊本の五高教授に任ぜられるが、40年(1907)にそこを辞め(学校内の騒動によるものらしい)、1年余り浪人ののち、翌41年(1908)から東京高師に勤めるも、大正5年(1916)に辞め、5年を越える履歴上の空白(その間陸軍の翻訳などをして生計を立てていたとのことである)のあとで、大正11年(1922)1月松山高等学校講師、同年3月に新設の大阪外国語学校教授となり、6月にドイツ留学の辞令を受けるも、出立することなく、同年12月18日に腸チフスで死去する。
論文発表著書刊行は、明治32−37年(1899-1904)と明治43−大正3年(1910-14)に集中している。この前期と後期の間にも空白があり、後期のあとも学問的(伝記的にもそうだが)空白を残したまま死んでしまう。前期は金田一や折口に感銘を与えた華々しい論争の時期であり、この期の集大成は「比較神話学」(1904)として現われた。後期の論考は「日本神話伝説の研究」(1925)として没後にまとめられた。結果的に見れば、「郷土研究」を大正3年(1914)に離れて以後、柳田との別れのあとは、ただ沈黙である。精神的にも不安定な人格だったのだろうか。大阪外国語学校に職を得て、ドイツ留学もしたならば、また学問に復帰し、第三の多産期をむかえていたかもしれないと思うと、惜しまれる急逝である。


井上通泰には終生敬意をもっていたが(しかしその歌にはかなり手厳しい批判をしている)、弟静雄との関係には冷たいところもあった。通泰は眼科医で、森鴎外と親交があり、新声社や「しがらみ草紙」に加わっていた。宮中の御歌所の歌人として知られ、明治天皇の歌集の編纂にも当たった。山県有朋の常盤会にも参加した。還暦をむかえると医業を廃し、学究の生活に入って、「万葉集」や諸風土記の注釈考証を行なった。
静雄は海軍兵学校を出(首席卒業という)、軍人として日露日独の戦役に従軍、大正7年(1918)健康芳しからず大佐で予備役に退いた。そののち日蘭通交調査会を作り、オランダ領インドネシアの関係構築・開発を企て、国男も積極的に協力した(註31)。そのとき蘭和辞書を編纂しているが、これにも国男は力を添えている。この両者は言葉に対する関心が深く、静雄はのちに独力で大部の「日本古語大辞典」語誌篇・訓詁篇を編纂する。それは病気のため鵠沼に隠棲してからのことだが、病床に親しむようになってからは、兄たちと同様学問を事とする。「記紀論究」などを著した。
この兄弟二人を配して眺めれば、柳田の特質がよくわかる。まず、国学への傾斜。これは神職でもあった父の薫陶もあろう。末弟輝夫(松岡映丘)も大和絵の画家であった。そして、貧窮から身を起こさねばならぬ境遇でありかつ有能だったため、3人ともに表の顔となる立派な職業についたが、活計が立ったのちは世間的尊敬を集めるその仕事に執着なく、中途で断然放擲し、学問の道に入ったこと。学究として在野を貫いたこと。家塾を開き、門人を育てたことなどが共通する。
通泰は「播磨国風土記新考」を著したが(1931)、これを書くのを勧めたのは国男であった。ほぼ同時期に、静雄も「播磨風土記物語」を出している(1927)。明治大正期の柳田が「山人」への関心を抱いていたことはよく知られている。そういう興味を持つに至った背景には、山への憧憬、彼自身の神隠しに逢いやすい性質などがあったろう。それとともに、「播磨風土記」の記述も何がしかの影響を与えていないだろうか。彼の郷里辻川の近在大川内・湯川に「異俗人三十口ばかりあり」と風土記にあるのだ。柳田は「天狗の話」(1909)「山人考」(1917)でこの記述に言及している。この「異俗人」は、景行天皇紀五十一年に蝦夷の俘を播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波に置いたとあるのに相当するのだろうが、「山人考」ではそのことにも触れているけれど、「天狗の話」では、「隘勇線より以内にも後世まで生蛮が居った」例として列挙しているうちの一例で、「日本紀」「新撰姓氏録」を参照する以前の、退去したり同化したりせずに先住異民族が山中に残ったものという素朴な認識を示している。「山人外伝資料」(1913)冒頭の、「拙者の信ずる所では、山人は此島国に昔繁栄して居た先住民の子孫である。…斯言う拙者とても十余代前の先祖は不定である。彼等と全然血縁が無いとは断言することが出来ぬ。無暗に山の中が好であったり、同じ日本人の中にも見ただけで慄へる程嫌な人があったりするのを考えると、唯神のみぞ知しめす、どの筋からか山人の血を遺伝して居るのかも知れぬ」という異様な言はロマンチックな空想であるにしても、まるまる根拠のないロマンチシズムではなさそうだ。静雄も、「播磨人の脈管中に先住民、帰化人の血を多く混じて居ると断じても決して播磨人を侮辱するものではない――私自身も佐伯部の末裔かと思はれる多駞里の人である」(「播磨風土記物語」)と書いている。「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」(「遠野物語」序文)というのは、彼自身が感じた戦慄の反響なのだろう。
通泰も静雄も「国学者」であり、古代を探求する。一方は伝統的なスタイル、他方は西洋体験・従軍体験を持ち変則的であるが、古典を読み解釈するという点で、それまでの国学から出てはいない。「新しい国学者柳田国男にとっては、現在が特権的であった。まさに出発点の「遠野物語」序文に「これはこれ目前の出来事なり」「この書は現在の事実なり」としているように、柳田は現在に執着した。赤坂憲雄の重要な指摘であるが、「柳田の知は徹底して現在の事実に根ざし、現在という場所からのみ出発することを択んだ」(「山の精神史」)。「民俗学は現代の科学でなければならぬ。実際生活から出発して、必ず其答えを求めるのが窮極の目的だ」(「現代科学といふこと」)。「我々の疑問は国に属し、又現代に属する」(「実験の史学」)。兄弟を横におくと、旧来の国学にとどまらぬ柳田の「新しい国学」のあり方が見えてくる。


東京美術学校図案科に学び、早稲田の建築学科に勤めていた今は、民家研究者として柳田らの「白茅会」に加わった(1917)。「考現学」を始めた人物として知られる。いまでは「考現学」は、一般には名前は聞いたことがある程度の認知で、「民俗学」とは全然ステータスが違うが、この「考現学」を柳田は異様に意識し、対抗心を持っていたようで、「民間伝承論」や「女性生活史」でそのような言及がある。近自身の述懐では、「こと考現学になると柳田先生はけんか腰でおれにぶつかってこられた」「これは民俗学じゃないか、というんだ」(註32)ということであった。
現代の、目の前を歩いている人々の風俗や行動を観察し記録するのが「考現学」である。「人類学者が未開発民族の研究に使っている方法を文明人の研究にも適用して」みたもので、学問というより方法だが、絶対に古びない「現在学」である。その先駆となる坪井正五郎考案の「風俗測定」以来、生活学会・現代風俗研究会路上観察学会と、何度もリバイバルを重ねている。
たぶん鋭敏な柳田は感じていたのだ。「現在の疑問」から始まった彼の「民俗学」は、いつかその「現在」に追い越されることを。


喜田貞吉歴史学者であるが、考古学や「民俗学」の領域とも関わりが深い。日本民族の形成史・古代日本の民族史を考究し、特殊部落など特殊民の研究の先駆者でもあった。柳田と並べると、両者の間に共通点が多いことに気づく。ともに西日本の村の出身、旅行好きで、全国くまなく旅している。地名の研究も好んだ。自分の雑誌を刊行した。彼の雑誌「民族と歴史」(のち「社会史研究」と改題、1919-24)は、資料報告欄を設けるなど、明らかに「郷土研究」の体裁にならっており(註33)、「郷土研究」(1913-17)・折口らの「土俗と伝説」(1918-19)の休刊から、柳田の「民族」(1925-29)が創刊されるまでの間をつなぐかっこうになっている(執筆者も重なるが、柳田自身を始め、柳田にごく近い人々はなぜか書いていない)。この雑誌の特色は特殊民の研究に力を入れていることで、それは当時の柳田の関心とも重なるはずのものであるのだが。「郷土研究」時代に柳田がせっせと書いていたのは、「巫女考」「毛坊主考」であったのだから。両者の出会いは、明治41年(1908)の報徳会で喜田が「特種部落の改善」について講演したときである。このとき柳田は幹事であり、喜田が部落民は「今日にては人種相異ならず」としたのに対し、「自分は全く異なれるものと認むる」と発言したという(註34)。柳田には「先住民時代」とでもいうべき時期があり、山人を追いかけたのもそうだし、アイヌやサンカにも強い関心をもっており、それらを同化途上の「異民族」としていた。被差別民に関して、大正2年(1913)の「所謂特殊部落ノ種類」で「直ニ特殊部落ノ異人種ナルコトヲ断定シ難ク」と意見を変えているのは、喜田とのこの意見交換によるものか(註35)。喜田は大正6年(1917)の歴史地理学会大会に柳田を招き、「山人考」を講演させている。喜田の「俗法師考序論」は柳田の「毛坊主考」に触発されたもので、喜田はそれについて日記に、「似たような種類の雑誌に、似たような題目をかかげて、似たような研究を繰り返す」と記している。そのように両者の関心は交差していた。しかし柳田は「民族と歴史」には書かず、のちに喜田が、アイヌの宅神との同一起源や雛人形との関係を述べた「オシラ神に関する二三の臆説」(1928)を発表するや(たしかに勇猛にすぎる臆説である)、柳田は「少しの比較も顧慮もなく、無闇の臆断を下されることは、それが若干の指導力を持つ人である場合に、ことにわれわれには堪えがたき苦痛である」「いかなる奇風異俗であっても、それを上代から手つかずに保留せられたものとして、由来を推定することは錯誤である」「臆説にしてもあまりに無謀」(「人形とオシラ神」、1929)とかなり激しく批判し、喜田は日記に「悲憤」を漏らす(註36)。「石神問答」の文通相手の一人であり、互いに自分の幹事する講演会に招き招かれて始まっている両者の関係は、このようにして終わる。
中山太郎(1876-1947)は早くから柳田に師事していたが、のちには遠ざけられた。「史癖」が強く、文献を読破、帝国図書館にあるだけの地誌は残らず読んでしまおうとしていたほどで、3万枚ものカードを作成し、それに基づいて研究していた。みずから「歴史的民俗学」と言っているが、喜田と似た学風と見てよい。こういう「文献派民俗学」に対して、いつごろからか柳田は非常に厳しく臨むようになった。自分が乗り越えたものをまだやっているさまが疎ましく見えたのではないだろうか。彼は「郷土研究」時代の「巫女考」「毛坊主考」を勧められてもついに本にしなかった。当時は採集資料が少なかったので、これらは文献資料によって書かれている。それが好ましくなかったのだろうと思われる。
山へと同様、柳田には島への関心もあった。それも山におとらず古い。椰子の実を拾った明治31年(1898)の伊良湖岬への旅(註37)にまで遡ることができる。上述のように、静雄のミクロネシア体験やインドネシア事業もそれに何がしかの影響を与えているだろう。いつごろか、柳田の中で「山島交代」が起きている。島への関心が古くからあったように、山への関心もずっと続くが、山への関心が前面に出ていた時代と島へのそれが前面に出た時代(「島」という雑誌(1933-34)まで出していた)の交代は起こった。それはやはり大正10年(1921)の沖縄旅行が画期であろう。
柳田の学問は、沖縄「発見」以前・以後に分けられる。「日本人の他界観、来世観の研究(…)を可能にしたのは、南島民の世界観をよりどころにした柳田国男折口信夫であった。それによって古代日本人の他界観の秘密が私たちの前に開かれるにいたった。そのことはいくら強調しても強調しすぎることはない」という谷川健一の重要な指摘がある(註38)。「柳田学」・「折口学」の特質が、この「沖縄体験」によって説明できそうだ。さらに進んで、この体験を共有しえぬ者は切り捨てられた、と言ってもいいのではないか。
「我々の学問にとって、沖縄の発見ということは画期的の大事件であった。…我々が新たにこの方面の観察から、受け得たる暗示は無限なものであった」(「郷土生活の研究法」)。「琉球の郷土研究によって我々の舞台は確かに拡大され、信仰の問題にしても、社会組織の問題にしても、方言研究にしても、全く面目を改めた。内地では極めて古いものが琉球では眼前に厳存して居るのである」(「民間伝承論」)(註39)。
谷川健一は、「日本の学問の中で民俗学だけが沖縄を大切にした」とも指摘している。柳田の沖縄への思い入れは、遺言にも現われている。それは、「蔵書一切を成城大学に寄贈する。ただし同大学ではこの図書を活用し、沖縄の研究に万全を期すことを条件とする」という簡潔なものであった(註40)。
「沖縄」以前の柳田の研究は、喜田のそれと重なるところが多かった。以後の彼は、「柳田学」への道を歩んでいくのである。


(註30)「折口学」の柱のひとつが芸能研究である。柳田は、明治期に「踊りの今と昔」(1911)などを書いてはいるが、その後は民謡を除いて芸能はあまり扱っていないし、門下からも芸能研究者は出なかった。芸能を折口に受け持ち分として譲ったらしい。「分家の取り分」であろうか。池田彌三郎・谷川健一柳田国男折口信夫」、岩波同時代ライブラリー、1994。
(註31)柳田は「水上大学」なる構想をもっていた。研究者が乗り込んだ船をしたて、島々を旅し、調査してまわる。調査研究の一方、島民のために講演会や展示会を開く。柳田自身のためには実現しなかったが、彼も関わった日蘭通交調査会がインドネシアの島々を調査すべく船をしたてて赴いたことや、渋沢敬三らの薩南十島巡航や瀬戸内海島嶼巡航に、その発想は生かされている。
(註32)川添登今和次郎」、ちくま学芸文庫、2004。
(註33)「郷土研究」の影響は大きなものがあったろう。喜田のこの雑誌のほか、鳥居らが大正5年(1916)に作った「武蔵野会」(山中共古も参加した)も、「郷土研究」熱のひとつの現われと見られる。
(註34)藤井隆至編「柳田国男農政論集」解説、法政大学出版局、1975。
(註35)上田正昭喜田貞吉」、講談社、1978。
(註36)上田前掲書。
(註37)ちなみに、兄通泰も椰子の実の漂着にインスピレーションを受けている。「二十歳の頃日向国の海岸に椰子の実が漂着する事ある事実から我等の祖先が此瑞穂の国に渡来せし経路を推測して一小篇を草して東京日々新聞に寄せた事がある」(「南天荘雑筆」緒言、1930)。「井上通泰文集」編集後記に引用、島津書房、1995。
(註38)谷川健一柳田国男民俗学」、岩波新書、2001。
(註39)宗教・社会・言語等々にも発見があったろうが、沖縄本島が周囲の小島を、先島諸島を、そして先島では先島で、宮古・石垣が周囲の島々を見下すという構図、「標準沖縄語」が存在しえず、それぞれの島ごとに言葉があることなどや、日本は「いわばやや大規模なる世界の沖縄島であった」(「南島研究の現状」)ことの認識上の発見もまた、それに劣らず大きかっただろうと思う。
(註40)沖縄が彼の学問に占める重要な位置を考えると、その地を踏んだのが生涯ただ一度であったというのがにわかには信じられない。深く交わるのなら、ただ一度の体験でいいのだ。旅が気軽になった現代のわれわれに、そんなことも教えてくれる。