柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(5)

<柳田の学問と「民俗学」の名称>
柳田自身の使用例を見てみると、どうだろう。柳田は、自分の研究を「民俗学」と呼ぶことに長くためらいがあった。「「民俗学」という語を普通名詞として使用することは日本ではまだ少しばかり早い」。「民俗学というのは惜しい言葉であるが、我々は之を避けなければならない。少なくとも其内容が純化せられ、或程度の協同が得られる迄は、民俗学という語は日本語にならぬ方がよい。それに此学問は今日はまだ組織だった「学」ですらもないのである」(「民間伝承論」)。そのことは雑誌の題名にも見られる。彼が編集にあたった雑誌は、「郷土研究」「民族」などという名であった。「民俗学」の存在が自他ともに認められ、彼自身ためらいなく「民俗学」の語を使うようになったのは昭和10年代以降と言っていいが、その昭和10年(1935)、学会が組織され機関紙が出されたときも、それぞれ「民間伝承の会」「民間伝承」を称していた。「民俗」「民俗学」という雑誌は存在したが、その両者ともに彼はまったく関わろうとしなかったのも象徴的である。
明治・大正期の柳田は、「人類学」(これはanthropologyの訳語としてゆるぎなかった)や、時代に従って「土俗学」の語を使うほか、「民俗学」もときどき用いている(「石神問答」(1910)「隠れ里」(1918)「民俗学上に於ける塚の価値」(1918)など)。「石神問答」の用例はかなり早いが、しかしそれは単純に「土俗」を「民俗」に置き換えたものであって、のちの(「広辞苑」の意味の)「民俗学」ではなかったろう。「郷土研究」「地方(じかた)の学/研究」などというのも見える。その他、「比較民伝学」(「雑誌は採集者の栞」、1918)「国民生活誌」(「郷土研究ということ」、1925)などとも言っている。
南方との往復書簡集を見てもわかる通り、自分が志している方向が、英語で言うfolklore、フランス語で言うtradition populaireの研究に重なるという認識は早くからあった。後者の訳語が「民間伝承」で、これは彼にとって我が意を得た術語であったろう。自分の学問を言うには、「民間伝承論」「民間伝承学」「郷土研究」を用いる例が多い。Folkloreは、訳さず「フオクロア」とそのままに言う。「民間伝承の学、民俗学等と呼ばれて居るが、まだ日本では誤解も多く、適当な名とも思われない為に、私は当分フォークロアと呼ぶことにしている」(「文化運搬の問題」、1934)と書いているように。「フオクロアは直訳すれば、庶民生活誌とでも云うことになる」(「東北と郷土研究」、1930)とも言っている。それは学問ではないと考えていた。折口信夫は「民俗学学習の基礎」(1929)で、「補助学科」とか「道みたようなもの」と説明し、「フォークロアは学であるとも、ないとも言われているが、それはかまわない」「フォークロア的に研究して行く態度がフォークロアである」とする(註19)。当時の柳田のフォークロア理解も、これに近いものだったと思われる。
柳田自身、用語の選定には迷いがあるし、混乱もある。「東北と郷土研究」では、「私は感情上この土俗という文字を非常にいやに思って、力めてこれを避け」、その代わりにエスノグラフィー、エスノロジーに「民俗誌」「民俗学」という語を当てた、と書いている。エスノロジーを「民俗学と訳して見たいのであるが、困るのは「民族」という語が紛らわしいのみならず、別に民族学と謂う方がよいという者もある」(「Ethnologyとは何か」)。当時、今「民族学」と呼ばれているものこそが、彼にとって「民俗学」だった(!)のである。同じ「青年と学問」所収の「日本の民俗学」では、「民俗学」の語をフォークロアまたはエスノロジーの意味に解すのは差支えない、しかしフォークロアを「民俗学」、エスノロジーを「土俗学」と訳すのは「機械的な馬鹿げた無意味である」。昭和の初めごろには「私は民俗学民族学と、この二つの学問の接続はもっと容易なことの様に楽観して居た。…二つを文字まで同じ語(つまり「民俗学」)にして、一方を一国民俗学、他方を比較民俗学と、呼べばよかろう位にきめ込んでいたのである」(「国史民俗学」自序、1943)。そして、比較民俗学は「我々の大いなる彼岸」であり、「比較民俗学の末ついに世界に拡充すべきものなること」(「比較民俗学の問題」)と信じていた。
柳田が「民俗学」をエスノロジーと解していた時代は、のちの「民俗学」「民族学」は画然と分離していなかった。つまり「土俗学」の「土」を「民」に置き換えて、そこにフォークロアも盛り込もうとしていたのである。ジュネーヴから帰った柳田は、年若い民族学岡正雄、および岡の友人の少壮研究者たち(有賀喜左衛門・田辺寿利・奥平武彦・石田幹之助)と雑誌「民族」(1925-29)を発行する。柳田と岡たちの間の「偕調がこわれ」、この雑誌が休刊したのち、折口信夫らを中心に「民俗学会」が作られ、「民俗学」(1929-33)という雑誌が出されるが(これに柳田は一切関与していない)、この両誌とものちの「民俗学」「民族学」の双方が加わる構成だった。
岩波講座が「土俗学より観たる日本文学」という題目で執筆を依頼してきたとき、その題を断り、「口承文芸大意」とさせた(本に収められるときに「文芸とフオクロア」と改題)。その中で、「今日我邦で土俗学だの民俗学だのと謂って居るものは、丸で高度計を忘れて来た飛行機同然な乗物である」(1932)と難じる部分の「民俗学」は「土俗学」の同義語で、つまりエスノロジーである。「郷土研究の将来」を最初に発表したとき(1931)には、「民俗学」をエスノロジーの意味で使っていたが、のちにその文を「国史民俗学」に収録するときに、これを「民族学」と書き直した旨序文(1943)で断っている。この間に用語の転換があったのだ。終戦後の昭和22年(1947)に自宅を提供して「民俗学研究所」を設立するのだが、戦前、昭和9年から14年(1934−39)にかけて山村海村調査をやったときには「郷土生活研究所」を称していたことも参照される。
一方でフォークロアについては、「将来完成すべきフオクロアの学問を、是非とも民俗学と訳そうという説があるならば、それに私は反対しない。…ただ一つの条件は是と一面の類似をもち、しかも方法と本質の異なるエスノロジーを「民族学」と同音で訳しては困るということである」(「民間伝承論」)と述べていた。国語をきわめて大切にしていた彼が同音を忌避したいと考えていたのは当然だが、事態は残念ながら耳の悪い横文字学者たちのために、彼のいちばん望まぬ方向へ行ってしまった(註20)。
「土俗」という言葉については、それを好まぬと言明している一方で、必ずしも忌避していない。「民間伝承論」では、エスノロジーについては「土俗学という名も既に存していることであるから、それを使おうとしている」。その上で、「日本で土俗学と民俗学との用語の混用されていること」を考察し、「日本が自国人の土俗誌を承認したという一事は、此学問の歴史にとって、何物よりも重要なる一転期を画するものであった」「これがあってから土俗学は一段と民俗学に近くなった」と論じている。これは、「今から更に半世紀も経てから回顧して見たならば、日本が自国人の土俗誌を承認したという一事は、此学問の歴史にとって、何物よりも重要なる一転期を画するものであったことが知れるであろう。悔いる所は少しもないのである。この一つの事実があってから、土俗学は一段と民俗学に近くなった」「エスノグラフィーはもとより古くから存するのではあるが、それが今日の如く学術的探験と材料の総合比較を目的とするようになった其原因は、実はフオクロアの影響によるのである。如何に誤るまいとしても異民族の観察は到底自国民同種族の自己省察に及ぶべくもない。エスノグラフィーに之を明かに気付かしめたのは確かにフオクロアであった。それと同時に、フオクロアが珍奇を書き残すことのみを仕事として居るような道楽学問であったのを、其珍奇が学問上の大法則の一露頭を示すものであることを推測せしめ得たのは、又未開人調査の影響であったのである。フオクロアとエスノグラフィーとは最初から深い関係を持って居たのである。やがてはこの二つの学問が相提携し相合する迄に成長するであろう希望は存するのである」という認識によっている。そして、「私たちは実着の歩みを踏みしめて行く為に、特に先ず一国民俗学の確立を期し、是によって将来の世界民俗学の素地を用意し、是に働く人々の習練に資するを順序として居る」(「民間伝承論」)という構図を描いていた。
「人類研究の学問のすくなくとも半分、すなわちEthnologyと呼ばれる方面だけは、ゆくゆくしだいにNational国民的になるべきものと思っている」(「Ethnologyとは何か」)柳田は、「フォークローアの学問には日本人に限り特別の使命がある」(大正11年12月9日付佐々木喜善宛書簡)と信じていた。「他のいずれの科目について比べても、これほど未開の沃野のひろびろと残っている学問は一つもない。また我々が日本人に生れたことを仕合せとすべき学問は、そう幾らでもあるわけではない」と考え、日本の研究は「迷える外国の民俗学者を導かねばならぬ」(「日本の民俗学」)とまで言う。
そして、「我々は、記録文書の歴史をもたぬ天が下の諸蛮民の過去世が、すべてこの郷土研究の方法を以て探尋せられ、自他平等に一つの世界民俗学の対象となるべき日の、究竟は到来することを信じ且つ望むものである」(「郷土生活の研究法」)という「大いなる彼岸」への道程を幻視していたのである。


(註19)ここの引用中の「フォークロア」は原文「民俗学」であるが、「民俗学」はフォークロアの訳語であると言っているので、論旨の混乱を避けるためにわざと置き換えた。
折口の用法では、「民俗学」=「フォークロア」である。翻訳書を見ても、バーン「民俗学概論」(岡正雄訳、1927)、ベアリング・グウルド「民俗学の話」(今泉忠義訳、1930)、ジェネップ「民俗学入門」(後藤興善訳、1932)の「民俗学」は、すべてfolkloreの訳語である。他の人々は皆、「民俗学」は「フォークロア」であると考えていたのである。ただ柳田だけを除いて。
(註20)石田英一郎を司会とした折口信夫との戦後の二つの対談(「日本人の神と霊魂の観念そのほか」「民俗学から民族学へ」、1949)でも、「その時期がまだほど遠い」としても、「ずっと以前から民俗学民族学の二つの学問は、必ず融合するという夢をもっている」「ミンゾク学という、聴いて同じ言葉が二つあるのは非常に不便で、どっちかを除かねばならない」ということになると、「どうも私はこっちのほう、日本民俗学のほう、人偏の俗を使っているほうを、どうにかしなければならないじゃあないかということを実は考えている」と発言している。