柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(3)

<明治大正期の柳田と「民俗学」>
柳田個人においてはどうだったのだろうか。
のちに「民俗学」を志した動機について問われたとき、即座に「それは南方の感化です」と答えたという(註9)。柳田が「日本人の可能性の極限かとも思い、又時としては更にそれよりもなお一つ向こうかと思うことさえある」「どこの隅を尋ねて見ても、これだけが世間並みというものが、ちょっと探し出せそうにも無い」(「ささやかなる昔」)と評する博覧強記の大学者南方熊楠(1867-191941)は、明治33年(1900)、13年にわたる英米滞在を切り上げてロンドンより帰国し、37年(1904)から「東洋学芸雑誌」などに日本語で寄稿を始め、「人類学雑誌」にも41年(1908)から論考を発表している。柳田は、坪井に勧められて、自著「石神問答」を南方に贈呈し、それから文通が始まる。フレイザーの「金枝篇」を明治45年(1912)から読みはじめているのも、南方の導きによるものである。「フオクロアの研究法とでもいうべきものを御書き下さるまじくや」と彼に頼んでもいる(大正3年4月10日付書簡)。両者の交信は、「遠野物語」刊行後、「郷土研究」編集の時代、まさに柳田がのちの「民俗学」への歩みを始めた時期であり、南方はその大先達であった。のちに破局に至るこの両巨人の往復書簡集は、読みごたえのあるドキュメントだ。
高木敏雄(1876-1922)も、彼の「民俗学」への道のりで大きな役割を果たしている。柳田は雑誌「郷土研究」と「民族」を編集したが、共同編集者に意外な人物を選ぶ癖があった。後者では、はるかに年少で、まだ何者でもなかった少壮学徒の岡正雄有賀喜左衛門らと組んでいるし、郷土の研究を標榜する雑誌に、独文の出で神話学者の高木を相棒にするというのにも一驚する。しかしよく見れば、才能あり、一緒に仕事をすることで自分が刺激を受け向上できる者を、正しく選んでいるのである。高木は「郷土研究」から離れてのち何も書かなかったので忘れられているが、柳田がまだ弱かったこの分野での西欧の業績を吸収するのに助けとなっただろうと思われるほかにも、この頃の彼の論考をまとめた「日本神話伝説の研究」などを読めば、すぐれた学者であったことがわかる。「郷土研究」創刊号の巻頭を飾った「郷土研究の本領」は、恐ろしく正しい堂々たる論述だ。伝記に不明なところ多く、なぜこの時期以後研究から離脱したのかわからない。しかし、ドイツ留学の辞令を受けた直後の早すぎる死は、いかにも惜しまれる(註10)。
「郷土研究」の刊行は、「郷土会」に参加していた時代のことだった。この会は、地方の研究に興味を持つ者が新渡戸稲造(1862-1933)のまわりに集まって、明治43年(1910)ごろ始まり、第一次大戦後の新渡戸の渡欧をもって終わった。参加者は、小田内通敏・石黒忠篤など、主に地理学者と農政官僚で、「人生地理学」の著者でのちに創価学会を始める牧口常三郎も常連だった。新渡戸の人徳で、この会にはいろいろな人が顔を見せた。山中笑、会津八一、尾佐竹猛、高木やネフスキーなども出席していた。農学者で国際連盟事務局次長だった新渡戸は、疑いもなく柳田の先達である(註11)。
南方との文通で、柳田は、「郷土研究」が「民俗学の雑誌のようたびたび仰せられ候には迷惑仕り候」(註12)、「小生専門はルーラル・エコノミーにして、民俗学は余分の道楽に候」(大正3年5月12日付書簡)とはっきり言明している。この「ルーラル・エコノミー」を地方制度経済と取って批判する南方に対して、「農村生活誌」(註13)とでも訳すべきものだとさらに自己の立場を明らかにしている(「南方氏の書簡について」。「郷土研究」2巻7号、大正3年9月)。つまり、「地方の研究」(1907)で新渡戸稲造の唱えた「地方学」(ここで「地方」は「じかた」と訓む。江戸時代の町方に対する語で、農村部を意味する)、「田舎に関係ある農業なり、制度なり、その他百般の事につきて言えるものを学術的に研究」する「いわば田舎学」と重なるものである。それは、自己認識としてそうであるばかりでなく、客観的にもそう認められる。しかし一方で、「郷土研究」を「民俗学」の雑誌と見なす南方のような読者・執筆者が多数いたわけだし、それもまた客観的な事実であった。周囲はすでに「民俗学」(南方はこの言葉を使っている)があるものと見ていたが、柳田の中では、「民俗学」は生まれるべく敷居際にあったものの、一歩がまだ越えられていなかった、ということだ(註14)。
柳田は言う。「「平民はいかに生活するか」または「いかに生活し来たったか」を記述して世論の前提を確実にするものがこれまではなかった。それを「郷土研究」が遣るのです。たとい何々学の定義には合わずとも、たぶん後代これを定義に新しい学問がこの日本に起こることになりましょう」(「郷土研究」2巻3号、1914)。その学問はのちにたしかに彼によって興されるが、当面まだ名前がなかったのである。彼は最終的にそれを「日本民俗学」と呼ぶことになるのだが。


(註9)宇野脩平「南方さんのこと」。笠井清「南方熊楠」附録、1967。
(註10)雑誌の題名も高木がつけた。「我邦で最初にフォクロアの学問を唱えた故高木敏雄君が、我々少数の有志者を説いて、一の月刊雑誌を創立せしめたときに、この郷土研究という名称は始めて用いられたのである。…何とかして世間に新しい印象を与えるような題号をということで、我々が提案した沢山の候補者の中から、高木君は殊に此文字を選挙しようとした」(「郷土研究ということ」)。裏表紙には「Zeitschrift für Japanische Volks- und Heimatkunde」とドイツ語の誌名も書かれ、高木の手になると思われる「謹告」も掲げられていた。
「一、郷土研究は日本民族生活の凡ての方面の現象を根本的に研究して日本の郷土に発生したる民族文化の源流と要素と発展とを文献科学的に説明しこれによりて日本文献学に貢献する所あらんことを期す
一、本紙は毎号原著の外に日本郷土研究の凡ての方面に渉りて重要なる資料報告随筆書志等を掲げ、且つ問答欄を設けて読者相互の意見の交換を計らんことを期す
一、本紙の目的及び事業の賛助者たる愛読者の為に全紙面を開放し、各種の研究論文随感随筆、特に資料及び報告の寄稿を歓迎し同趣味者共同研究の機関たらんことを期す」
 一読「日本民俗学会設立趣旨」と似た言葉遣いで、これに倣ったか、あるいはこちらの方も「主唱者」高木の筆なのかもしれない。
(註11)ゴンムの本は新渡戸から借りて読んでいる(大正8年10月4日佐々木喜善宛書簡)。
(註12)上に見たように、「フォルクロアの学会」に関係する雑誌であったはずだから、南方の言い分の方が当たっているのだが。
(註13)しかし大正2年6月22日付の書簡では、自分の専門を「田園経済」だと言っている。「ルーラル・エコノミー」の意味も、雑誌編集の過程で微妙に変化してきているのだ。
(註14)南方との文通中、柳田が「民俗学」の語を使うのは、上記のように南方の使用に対する呼応としてであり、自分では「フオクロア」「日本古俗学」などを言っている。