WM雑感/ああ、日本代表

日本代表は今回のワールドカップに参加していなかった。闘っていなかったのだ。ブラジル戦が終わった瞬間から、世界は日本がこの場にいたことをさっぱりと忘れてしまうだろう。記憶に残る何物も残さなかったから。いろいろ忙しいんだろうから、負担をかけてはいけないね、日本人以外の人類に。われわれはしようがない、憶えているけどさ。私だって、忘れられるものなら忘れたい。
決して弱いチームではなかったはずだ。トリニダード・トバゴとか、サウジ、アンゴラあたりが参加国中最弱だったと思うが、至近距離からの強烈なシュートを跳ねかえし続け、時に鋭いカウンターを繰り出して、強豪スウェーデンと引き分けたトリニダードや、アウトサイダー同士のチュニジア戦で、逆転し、ギリギリで追いつかれ、という好ゲームを展開、敗れたスペイン戦でも見事な後半の攻撃を見せてくれたサウジアラビアのように、観衆に訴えるものが何もなかった。クロアチアとの0−0の引き分けは、見ているだけで頭の芯が疲れきってしまう今大会最悪のゲームだった。出場32カ国中、間違いなく32番目だ。「史上最強」の代表と言われていたが、実際には初出場のフランス大会の代表にも劣った。よかったのは中田と川口、つまり、やっぱりフランス組だ。
テクニックはそこそこあったはずだが、厳しく当たられたら発揮できないようなテクニックはテクニックなんかじゃない、ということも思い知らされた。体格差の問題でもない。背はどうしたって伸ばすことはできない。筋力はもっとつけたほうがいいだろうが、今の代表にそれがないからといって、今さらそれを非難したり言い訳にしたりしても始まらない。知性がなかった。強い意志がなかった。それが問題なのだ。勝負は時の運だ。勝つこともあれば、負けることもあるさ。相手だって勝つつもりで来ているんだ。勝ち負けの表層的レベルとは異なる、何か美しいもの、何か気高いものを、つらい日常を一瞬照らす生の輝きを、われわれはゲームに求めているのだ。それがまるっきりなかったから、みじめでぶざまなのだ。チームも、われわれも。
あ、それから監督もね。ジーコは結局、「監督」ではなく、「偉大な選手」だった。彼がしたことは、自分が選手だったらしてほしいことだけだ。うまいのから順に11人選び、送り出す。そしてゲーム中交代させない。ジーコがチームにいれば、それでもいい。だがジーコはピッチの外にしかいない。彼は日本代表を「ブラジル」にしようと思っていたのだろう。だが現実には、「ひよわで下手くそなブラジル」でしかなかった。州レベルのユース代表のようなブラジルだ。監督経験のない彼に任せた以上、結果は受け入れるよりほかにない。彼によって学んだものもあっただろうし。
長年にわたる客観的な観察に基づいて推論すれば、日本のフォワードは二つの決意を胸に秘めているらしい。まず、シュートは打たないことに決めている。そして、打つときは枠の外へと決めている。他のすべての原則と同じく、この原則にも幸いにして例外がある。日本代表のサポーターというのは、1回の成功で100回の失敗を忘れてしまえる幸福な人種だ。クロアチア戦の、外しようがない、外すほうがかえって難しいあのシュート。あの場面でも、上へ外したり、ポストに当ててしまったりするのは時折見るが、アウトサイドでキーパーの前を通っていく球なんて、ゴールだけでなく常識も外れている。ブラジル戦の、玉田のあの先制点。今回の日本のワールドカップは、あのゴールだけだった。これだけを心の支えに、長い4年間を過ごさねばならない。過ごすけどね。


ポルトガル対オランダ戦を見た日本選手は、深く恥じ入ったことだろう。ポルトガルが1点を先制したが、退場者を出してしまった。すると、フォワードを下げて守備の選手を入れた。この1点を守り抜くという意志標示だ。選手はそのタスクをやりとげた。その後両軍合わせて3人の退場者が出るという激戦を戦い抜いた。強い意志統一のある、すばらしい試合だった。オランダ人は、今後ポルトガルを畏敬するだろう。
予選のプレーオフだから見た人は少なかっただろうが、しかし見たら決して忘れられない激闘が、トルコ対スイス戦だった。点差をつけて勝たねばならないトルコは、守りをおろそかにするばかりか、馬鹿げた無用のファウルを犯して得点を奪われ、我と我が身を進んで窮地に追いやる真似をしながら、しゃにむに突進し、ひたすらに攻め立てた。スイスにうまくゲームを運ばれて、1点足らずに敗れ去ったトルコを、世界が尊敬するかどうかはわからないが、畏怖するのは確かだ。勇猛果敢、オスマン・トルコ最盛期の進撃はかくのごときかと思わせた。彼らに知性はかけらもなかった。だが、それを補ってあまりあるものがあった。ワールドカップに出場できなくて、トルコ人たちは嘆いたに違いない。だがそれはポジティブな嘆きだし、祖国のサッカーの決してネガティブではない歴史である。
胸を打つ熱いものがあるかどうかだ。これらの試合にはあり、日本の3試合には、まるでなかった。韓国にも、サウジにもあったのに。


だが、ワールドカップは本選だけではない。予選で、われわれはすばらしいものをいくつか見た。生涯忘れられない、美しい光景を見た。あのバンコクでの北朝鮮戦。無観客試合となったあの試合で、スタジアムの外から応援を行なっていた日本のサポーターたち。試合は見られない。無観客試合なのだから、試合を見るにはテレビ中継しかない。テレビなら日本で見られる。試合を見ないために、往復航空券を買ってタイまで行く。馬鹿げたことだ。利口な人は、クーラーのきいた部屋でテレビで観戦しているよ。試合が見られなくとも、選手たちのできるだけそばにいて、応援がしたい。これは愚行だが、美しい愚行だ。そこには自発的選択があり、決意がある。風にのって聞こえてくるその声援を聞いて奮い立たない選手は、代表選手ではない。その行為は算盤に合わない。しかし算盤に合わないことは、だいたいにおいて美しいものだ。愚かさは、人間性の華だ。
日本のサポーターは、撒いた紙吹雪をあとで掃除する、なんてこともやって、「世界を驚かせて」いたしね。日本人選手のほうはともかく、日本人サポーターは現在進行形で伝説を作っている。それに目の前にしていられるのがうれしい。
日本人選手は、決してひたむきさに欠けることはない。年俸が下がるにもかかわらず、出番が減るとわかっているにもかかわらず、海外へ行きたがる。日本人は、「追いつけ、追い越せ」と努力しているとき、いちばん力を出すし、いちばん美しい。


日本のサッカーは、全体として速いのに、決定的な場面で決定的に遅い。それに対して、中南米など特にそうだが、大半はチンタラやってるくせに、ここぞという時には恐ろしく速い。ああゴン中山、フランス大会、ヨーロッパや南米の選手なら絶対に決めているゴール前の決定的シーンで絶望的に遅いのを見て、何度歯ぎしりしたことか。だが、彼らのそういうところを含めて、彼らはわれわれの代表、われわれの似姿だ。彼らがゴールを決められないのなら、それはわれわれが決められないのだ。彼らが鮮やかなプレーをするなら、それはわれわれがしているのだ。彼らの長所はわれらの長所、彼らの弱点はわれらの弱点。応援せずにはいられない。
代表に知性や意志が欠けているのは、われわれにそれが欠けているからだと悟ろう。一方で、サポーターが示した愚かしいまでの無償の善意に価するだけの見どころは、このチームにあるはずだ。日本代表には強くなってもらいたいが、こすく、あざとくなければ強くなれないのなら、多少弱くったっていいさ、とも思うのである。われわれが求めているのは、決して勝利ではない。勝利が結果としてついてくればうれしいが、それは求めるものの半分にしか過ぎない。誇りをもって胸を満たしてくれるもの、それを待っているのだよ。