WM雑感/対オリンピック・対野球

ワールドカップはオリンピックとよく比較される。
比べてみてすぐに気づくのは、オリンピックでメダル独占をたくらんでいるアメリカ・ロシア・中国の三大国が、ワールドカップでは弱い。オリンピックで思い出すのだが、シドニー五輪のとき、あるロシアの地方都市に住んでいた。日本人は1人だけ。女子マラソン高橋尚子がどうだったか知りたいのだけど、テレビでオリンピックの総集編を見ても、全然わからない。ロシア選手がメダルを取った競技をえんえんとやるのだ。日本のテレビももちろん日本人選手の活躍を伝えるが、幸か不幸かあんまりメダル取らないものだから、日本人の出る幕はないが人気のある競技に割ける時間がたっぷりある。でもロシアはやたら取ってるから、困った。それを全部見せたあとで(水球なんかも長々とやってたなあ)、残りをその他の種目に当てるものだから、男子100メートルとか男子マラソンぐらいは映したけれど、女子マラソンなんて無視された。年が明けて、その町にやってきた日本人旅行者から初めて、高橋が優勝したと聞いた。時差のある喜びだった。
サッカーはロシアでいちばんの人気スポーツなのだけども、ソ連当時でも強豪と中堅の間くらいだったし、ロシアになってからは、とりあえず出場権獲得が目標となる中堅国レベル。金メダル取りまくっていた東ドイツも、サッカーではまま弱小扱いをされかねないヨーロッパの中堅国だった。
中国はこのあいだようやく初出場を果たしたばかりだからともかく、アメリカ代表はけっこう悪くない成績を収めていて、ソ連・ロシアとも決して遜色ないのに、国内での人気はパッとしない。アメリカ人というのは、自分たちが一番になれないスポーツは好きじゃないんだ。イランに負けたり、中南米の小国に負けたりするのは許されないのだろう。公正な競争による敗北を認めることができる精神態度が、民主主義の基礎である。あの国は、国内にはそれがあるのに、国外に対しては欠けているみたいな気がするが。国内リーグの優勝決定戦を「ワールドシリーズ」と名づけて平気な感性って何だろうと思うよね。ここで問題です。1.このような態度を表すのにふさわしい熟語を次の4つから選べ。A:傲慢 B:短絡 C:滑稽 D:独善。あえてA−Cは正解としないが、最低Dでしょう。
オリンピックでは優勝者の国の国旗を掲げ、国歌を奏する。するとアメリカとロシアと中国の国歌しか聞けやしない。トリニダード・トバゴアンゴラの国歌を聞く機会なんて、ワールドカップででもなければなかなかない。準決勝や決勝に行くようなエリートは限られているのだけど、参加のレベルでは対等だというのが、ワールドカップのいいところだ。オリンピックは参加することに意義があるというが、それは選手個人の話。国民レベルで参加することに意義があるのは、ワールドカップだ。世界のほとんどすべての国と地域で行なわれる激しいが公平な予選を勝ち上がってくるのだから、すべての国が参加していると言っていい。競技場に詰めかけたりテレビで見たりして、大勢の国民が予選段階から応援している。その過程こそが、ワールドカップの楽しみだ。世界大で、単純明快。それが財産だ。
こういう性格の大会の楽しみ方は、実はわれわれはよくわきまえている。甲子園だ。このときばかりは郷土代表を応援する。優勝候補を擁する県の人たちの感覚はよくわからないけれど、身の程を知っている島根県人は、ひとつ勝っただけで大喜び、ふたつ勝ったらヒーロー扱い、ベスト8まで行けば語り継がれる。彼らがドイツやブラジルだとすると、われわれは日本を含む弱小国の歓喜と悲哀を心から理解できるはずなんだ。いいじゃないか、国際甲子園。


サッカーの特質は他のスポーツとの比較によってうかがえる。たとえば野球。このゲームを特徴づけるのは、スピードのなさだ。それは選手の体を見てもわかる。「目方で男が売れるなら、こんな苦労もかけまいに」と寅さんは歌うが、そしたらずいぶん高値で売れそうな選手が野球には何人もいる。サッカーでは、90分のゲームを終えたあと、選手の頬はこけている。それだけ走り回って消耗しているわけで、連戦はとてもできない。毎日やれる野球とは違う。ピッチャーが投げるまでは静止の状態で、つまり投球から捕手ないし野手の捕球で審判が宣告するまでの間しかゲームは動かない。ヨーイドンを100回以上、ことによると150回以上、飽きもせず繰り返すわけである。攻守の場面がはっきり分かれているのも特徴だ(これはアメフトにも共通し、同一ルーツのラグビーとのきわだった違いをなす)。用具がいろいろ必要なことも気に入らない(これもアメフトと同じ)。サッカーは最低ボールだけでできるのに。まあ、この点は強く言わないけども。こっちが竹槍で、あっちがB29だった時代のルサンチマンがあるかもしれないし。
ラグビーも非常におもしろいスポーツで、特に気に入っているのはボールの形だが、難点は、すぐにプレーが止まってしまうこと。動きの中断がやたらに多いのが興をそぐ。
体格が参加資格になるのもよろしくない。筋骨逞しい大男をそろえないと、まともに試合ができない。この点はバスケットやバレーも同じで、善良な国民の平均身長を無視した背丈の連中がやっている。体格で決まってしまうようなスポーツは、見ていてもおもしろくない。背の低い歴史的名選手が何人もいるサッカーの方に軍配はあがる。
ラグビーで気になるのはもう一つ、審判による判定の独占である。ボールを落としたり前へ投げたりするのは観衆にも見て取れるが、密集の中でファウルがあると、審判が宣告するまでわからないし、その判定を受け入れるしかない。サッカーでは、犯されたファウルは観客にも見える。取るべきファウルが取られなかったり、吹かれなくてよい笛が吹かれたりすれば、観衆は審判にブーイングで答える。
ペナルティエリア内でファウルをすれば、相手にペナルティキックが与えられるのが規定だが、ゲームの行方を左右する大きな笛だから、なかなか吹かれない。ささいなファウルは、エリア外なら取られても、エリア内では慎重に見過ごされる。でも、これはダメ、PK、というケースは、敵味方ともわかっているし、観客もわかっている。黙過できるラインのおおよそについて、スタジアム内のすべての人々に共通理解があるのだ。だから吹かれるべきでない笛が吹かれたり、その逆だったりすると、激しいブーイングが起こる(もちろんこれはワールドカップなどで自国チーム以外がしている試合の場合で、ホームチームにPKが与えられなかった場合やアウェーチームに与えられた場合は、判定の当否に関わらず大ブーイングが湧き起こるが)。また、フェアプレイにもとる行為、たとえば自軍の選手が負傷したので相手がボールを外に出した場合、そのボールを相手に返してゲームを再開するのだが、それを返さず攻撃しようとするなどの行為に対しても、容赦ないブーイングを浴びせる。ゲームには不文律があり、その違反を厳しく罰するのは観衆なのだ。観衆は、一方でひいきチームのひいきの引き倒しもするのだけども、他方ではゲームの正義を守っているのである。フーリガンのような行き過ぎがあっても、観客もまたサッカーの不可欠の構成要素である。サッカーは民衆とともにあり、逸脱も含めたこの民衆性こそ、サッカーの真髄だ。