WM雑感/命題集

命題その1。サッカー競技の主役は、ゴールポストとバーである。
ほとんどの試合に1度や2度はある、強烈なシュートがバーやポストを叩くシーン。客席からあがる、うなりとも叫びともつかぬ大きなどよめき。シュートが決まったときの歓声や悲鳴がa音を基調にしているのに対して、こちらはo音が基本だ。
試合のあと、人々は言う。あれが入っていたら、あのとき点が取れていれば。「たら」「れば」話は無駄なことと嘲う人がいたら、それは間違っている。ゲームはたかだか90分だ。90分の娯しみのためだけに、誰が試合を見るものか。終わった後も語るとも。凡戦愚戦なら、終了とともに忘れてよし。すばらしい試合なら、語り継がずにはいられない。そのとき愛惜の念をこめて発せられるのは、「たら」であり「れば」である。
サッカーというゲームは、恐ろしく点が入らない。1−0はごくふつうのスコアだし、延長含めて120分やって0−0も珍しいことじゃない。インフレに慣れた人には我慢できないスポーツだろう。アメリカで人気がないのはよくわかる。そばで見るとゴールは実に大きいんだが。ハンドボールのゴールと比べてみるといい。いや、それよりもバスケットか。あんな小さな輪っかが空中にあって、そこを50回ぐらいくぐっちゃうのだからね。手でやる競技と足でやる競技の違いであるわけで、人間の手足の器用さの比率を目に見える形にしたら、このくらいなんだろう。
サッカーは本質的にミスをするスポーツだ。足でやる以上それは宿命的だが、それでも果敢に挑み、試み、たいていは失敗する姿は、客席の大部分を占める、人生において決して恵まれていない多くの人々の姿に重なる。それゆえに、ゴールはひとつの「奇跡」なのだ。美しいパスがつながった末のゴールは、人々を有頂天にさせる。馬鹿げた間抜けなゴールも、泥臭いゴールもあるが、にもかかわらず、「奇跡」であることを失わない。ゴールの歓喜を保証するのが、ついに目的地に達しえない数多くの勇敢な試みだ。それらの失敗した試みの頂点が、バーやポストに当たって跳ね返るシュートだ。それがサッカーの真髄のひとつでなくて何であろう。
あらゆる人間的努力の彼岸に、何ものも超越して聳え立つ白いゴールポスト。すべてと無を分かつ境界線。内でもなく外でもない、フィールド上に降り立った運命の似姿。それの内と外をめぐって繰り広げられる狂騒と冷静の試行錯誤。審判の笛や旗もゲームを左右するが、主観や誤認に彩られたそれとは違う、超越的にして絶対的なもの。それにぶつかり、跳ね返されるシュートを見たとき、スタジアム全体がどよめく。失ったもの、守られたもののことを思ってではない。それを思うのは数秒後だ。そのときはただ、努力は報われる/努力は報われない、その両者の考えをはじき返す絶対的な否定の姿に、実存的な叫びをあげるばかりである。それを見ること多くなればなるほど、サッカー観戦の底なしの沼にはまっていくような気がする。


命題その2。サッカーは手を使って行なうスポーツである。
ルールブックに書いてある。ゴールキーパー以外は手を使ってはいけないと。でも、使ってるよね。手を縛ってやりはすまいし、走るとき、蹴るときにバランスを取るために手を振るのとは別に、しっかり手で相手を押さえたり、ユニフォームを引っ張ったり、突いたり、払ったり、いや、いろいろしてます。それらはもちろんファウルなんだけど、いちいち笛を吹いていたらゲームが進まない。目に余るものには笛を吹くけど、多少のことなら見逃す。審判の見えないところでやっていたら、どのみち吹けないし。だから手の「上手な」使い方は、たしかに勝敗をも左右してくる。ひじ打ち食らわせて相手を血まみれにしちゃあ、もちろん退場、加えて数試合出場停止だけども。手が使えないはずのサッカーを見ていると、ホモ・サピエンスは手を使う動物だというのがよくわかる。