「吸血鬼伝承」拾遺(1)

B.東欧以外の「生ける死体」伝承

屍鬼―インド、チベット、モンゴル>
インドには、ヴェーターラvetalaという死体に憑いて活動させる鬼神の一種がある。漢訳仏典で起尸鬼、起屍鬼、起死尸、起死屍鬼、起屍、屍鬼などと訳され、また毘陀羅、毘多荼、鞴陀路婆、迷怛羅などと音写されている。「ヴェーターラ呪法については、ヴァラーハミヒラ(Varahamihira,五−六世紀)か、その百科全書的な占星術書『ブリハット・サンヒター』の中で触れている。そこには、「ヴェーターラ」とは、「呪文(mantra)の助けによって死体を再び起き上がらせる」呪法であると説明されている。また、もしヴェーターラ呪法(vetaliya)が誤って行われた場合には、その呪法を行っている行者自身が滅びると信じられていた」(上村勝彦)[ソーマデーヴァ1978:290]。
ヴェーターラ信仰を中核とする物語がソーマデーヴァの「屍鬼二十五話」で、作者は11世紀カシミールの人である。話の成立そのものはさらに先行するようだ。この物語は、トリヴィクラマセーナという王が、ある修業僧の願いをいれて、彼の呪法のためにヴェーターラの憑いた死骸を運んでくる間、ヴェーターラが道中の慰みにと語る二十四の話と問答の繰り返しから成るといういささか奇妙な構成である。
これはまた仏教国のチベット(「通力をもつ死屍の物語」)、モンゴル(「シッディ・クール」〔魔法の死体〕にも流伝していて、モンゴル族では、ヴォルガ川下流の西岸地方に住むカルムィク人の間にも伝えられている。彼らは1630年中国のジュンガリアから移ってきたもので、ここをもヨーロッパの範囲内とするならば、ヨーロッパ唯一の仏教(ラマ教)地帯を成している。しかしこれら書物に由来する伝承が民衆の俗信の中にどれだけ根づいているのかは不明である。
インドの屍鬼は、「屍鬼二十五話」のバートンによる英訳の題名”Vikram and the Vampire”(1870)に端的に見られるように、一見「吸血鬼」とよく似ている。要するにこれも生きているかのように活動する死体の話なのだから。ただし、死体とそれに働きかけるもの(この場合は屍鬼および呪術師)のどちらを主体とし客体とするかにおいては、全く異なる。東欧・バルカンでは死体に入りこむ悪霊のことはあまり念頭にのぼらず、死者自身の自動的自律的な活動であることが多いが、ここでは死体に入りこんでそれを動かすものと、それをあやつろうとする呪法が興味の主たる対象である。これは決定的と言っていい違いだと思う。


<ゾンビ―ハイチ>
同じことが、よく知られた西インド諸島ハイチのゾンビについても言える。ゾンビとはヴードゥー教の呪術によって墓から生き返らされた死者である。現地に渡ってゾンビを研究したウェイド・デイヴィスによれば、ゾンビには二種類ある。「一つは霊、つまりヴードゥー教における魂の一部が、ボコール(邪術師)に売られたか、捕らえられたかしたもので、解放されれば、「神の許へ戻るべく定められた時が来るまで地上をさまよう運命」にある。だがこうした霊のゾンビは、いったん捕らえられると、たいてい注意深く壷にしまわれて、後日、ボコールが特別な仕事を遂行させるために、それらを魔術によって虫や動物、あるいは人間に変えるまで、大切に保存される。
もう一つの種類のゾンビが、お馴染みの生ける死者だ。つまり、悪意に満ちた邪術師によって、意識のない状態で墓から起き上がらされ、夜陰に乗じてこっそり遠くの農場や村に連れて行かれて、そこで奴隷として永久に働かされる罪のない犠牲者である。これらはゾンビ・ジャルダン(農場のゾンビ)、あるいはゾンビ・コー・カダーヴル(死体のゾンビ)と呼ばれる。言い伝えによれば、これらの哀れな人々は、その従順さや、どんよりしてうつろな目、鼻にかかった声(死者の霊ゲェデの声に似ていなくもない)、そして明らかに意志も、記憶も、感情も持たないことなどによって見分けられるという。彼らは永遠の現在に留まっているのだと言われる。・・・
しかしながら、ゾンビは、悪意に満ちた邪術師に売り渡されたか、盗まれたか、何かの理由で捕らえられたその魂の一部を、何らかの方法で取り戻すことによって、生者の世界に帰ってくることも可能なのだ。これは多くの場合、主人の死によって起こる。数々の物語で活き活きと描かれているもっと劇的な変貌は、不注意からゾンビが塩を与えられた場合に起こる。塩を与えられると、ゾンビの無関心は突如激しい怒りに変わると言われる。その卑屈さは狂暴さに取って代わられ、最初の犠牲者は例外なく主人である」[デイヴィス1998:77f]。
「人々は、死者が柩から呼び起こされる恐れがあると固く信じているため、農村地帯ではしばしば、親類縁者たちの手で、死者が間違いなく死んで、ボコールにとって利用価値がないことを確実にする処置がなされる。つまり、死体の手足や首を切り落としたり、心臓に刃物を突き立てたり、こめかみに弾丸を撃ち込んだりするのである。
また魔術信仰によれば、死体がボコールの呼びかけに答えると、生き返らされてしまうというので、死者の唇を真鍮の針金で縫い合わせることもある。さもなければ、死体の傍らに一つかみの胡麻の実や、めどのない針を置く。すると、狙われた犠牲者は、胡麻粒を数えたり、針に糸を通そうと熱中するあまり、ボコールの呼びかけが耳に入らないというわけだ」[同:84]。
ハイチのゾンビ伝承の最大の特性は、それが今も生きて行われている信仰であるという点だ。だから語られる話も世間話や噂話の範疇にはいる。そして、インドの屍鬼と同じく、呪術的な外からの働きかけによって死体が起き上がり活動するというものであって、だから「ハイチの人々はゾンビに襲われることよりも、自分がゾンビになることを恐れている」[同:280]。この方向性は東欧の「吸血鬼」とは異なる。ゾンビにならないための予防措置というのも、すべてわれわれには馴染みの、これまで何度となく見てきたものなのだが、その説明もまた逆だ。呪術師の働きかけを無効にするためと考えるのである。


火車―日本>
「生ける死体」とは全く無縁のように見えるわが日本にも、それと接点のある伝承は見られる。たとえば、前にもあげたように、「死んだ人の上を猫がとびこえると、猫の魂が入って死者が生きかえるという類の俗信は、知らない土地がないほどに広くおこなわれているが、宮城県のある村では、猫の魂が入って歩きだしたときには、歩きだした死人が水を飲まないうちに、鎌と箒ではたくとよいと伝えている」[井之口1977:35]。 「死者の枕もとや胸の上には、刃物を横たえて防ぎ、びょうぶを立てまわして死体をまもり、たえず猫の行動に注意して近づけないようにする。死者の胸の上を猫がとびこえると、猫魂が入って死人がたちあがるとか、テンマルと称する妖怪が死体を食うとか、火車が死体を取りにくるとかいう」[同:41]。「遠野物語」には、狐が死体を動かしたという話が出ている(第101話)。
火車というのは仏教の語で、生前悪事を犯した罪人を乗せて地獄へ運ぶという火の燃えさかる車であるが、葬送のとき死体を攫っていく妖怪とも考えられた。「茅窓漫録」によれば、「西国、雲州、薩州のあたり、または東国にも間々あることで、葬送のとき、にわかに大風雨がきて往来の人を吹きたおすほどのはげしいとき、葬棺を吹きあげ吹きとばすことあり。そのとき守護の僧が数珠を投げかけると異事がない。そうしなければ葬棺を吹きとばし死体のなくなることがある。これを火車につかまれたといって、大いにおそれ恥とも考えている」[同:46]。この火車を猫が年とって化す妖怪とする地域もあった。昔話の「猫檀家」は、猫によって棺桶が宙に吹き上げられることを中心事件とするものである。
つまり、死体に対する恐怖を動因とする俗信や習俗は日本にもあった。しかしそれは 「生ける死体」コンプレックスのほうへは発展しなかった。外部の力の死体への働きかけが恐れられるという点ではインドやハイチと同じだが、それが呪術であるか妖怪であるかによって大きく異なるし、死体奪取そのものに興味があるか、それ以後が問題なのかによっても違う。呪術というモーメントがない、つまり自律的であるという点では、東欧「吸血鬼」とむしろ似ている。
猫がまたぐことで死体が動き出すというおなじみのモチーフがここにも見られるのにも注目される。タイでもそのように言われることが、プラヤー・アヌマーンラーチャトンの「タイ民衆生活誌(2)」(森幹男編訳、井村文化事業社、1984)に見える。
なお、沖縄では「非業の死を遂げた亡霊の祟りを恐れるので、そういう者の屍はやはり逆さにして、人々の往来の頻繁な四つ辻などに埋葬する」[伊波1973:44]ことがあったことも付言しておく。