柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(6)

<「日本民俗学」の確立>
柳田の還暦の祝いに「日本民俗学講習会」が催され、「民間伝承の会」設立、機関紙「民間伝承」が発刊された昭和10年(1935)に、「日本民俗学」は確立したと言える(しかしなお「民俗学」の名称は会の名からも雑誌の名からも慎重に避けられていた。「民間伝承の会」が「日本民俗学会」に改称するのは昭和24年(1949)のことである)。
実は、日本の「民族学」の確立も昭和10年なのである。この年に「日本民族学会」が設立された。人類学会が、生誕時の自然・文化両人類学、考古学を含んでいた曖昧な混沌から、自然人類学の学会に純化していく過程で、まず考古学が分かれ、それから大正末・昭和初期を通じて文化人類学の部門が自立をした、という大きな流れがそこにある。そして、ふたつの学名もそのときにほぼ確定したと見ていい。
結果から見れば、柳田による「民俗学」の独占が行なわれた、とも言えるだろう。「民俗学徒」は柳田門下ばかりとなってしまった。彼とは異なるアプローチをしていた折口や渋沢敬三も、柳田に師事し、柳田をあくまで立てていたのだから(註21)。「異端の民俗学者赤松啓介が「柳田派民俗学」ときめつけ、鳥居龍藏が「人類学の姉妹学科たるフォルクロア(Folklore)の一派」という言い方をして、「これは今や柳田国男氏を中心として極盛を極めて居る」(「日本人類学の発達」、1927)と所見を述べているのを参照すると、「柳田民俗学」が組織(「オルグ」?)されていくさまは、外から見れば一種異様な風景であったかもしれない。
(註21)折口は冷静にこの様子を批評していた。「近頃は、採訪するよりも先に組織化しようとする人が多くなった。その方が偉いと思うのであろうが、学問化しようとする人、必ずしも偉いとは言えない。既に柳田先生等が方針を与えておられるのであるから、その類型を踏襲するだけでも学問になるわけだ」。「つまり、日本の民俗学は、柳田先生の様な優れた方が出られた為に、あまりに柳田先生風になり過ぎた。柳田先生が民俗学へ進出されたのは、他の学問が相当進んでからであった。而も非常な勢いで、ちょうど、嵐がものを捲き込む様に捲き込んで行かれたので、此方へ進もうとした者は、誰もが先生風になり、先生の態度から出られなくなったのである。先覚者が態度をきめて行くのは、すべての学問に於てそうなのだから、此学問においても、柳田先生風に進んで行くのは決して間違いではない。しかし、此風も、段々に革って行く時が来るだろう」(「民俗研究の意義」、1935)
日銀総裁や大蔵大臣の職を務める大財界人の顔の一方、アチック・ミュージアム(これはそもそも趣味の玩具の収集から始まった)、のちの日本常民文化研究所を主宰した偉大なパトロン渋沢敬三は、民具など物質文化や水産関係の調査を行なった。おそらく意図して柳田の漏らしたことをやろうとしたのではないか。その生い立ちからしてバランス感覚にすぐれていた。「民族学」の庇護者でもある。