留学

ヴァガボンドとして、スパイとして

日本野鳥の会の主宰者として知られる中西悟堂(1895-1984)は、松江に住んでいたことがある。普門院の住職として1922年から2年たらずの間であるが。その前には安来の長楽寺にもいた。 悟堂は金沢生まれであるが、生後すぐ東京に移り、そこで成長した。本名…

留学のいろいろ (11)

後記・郷土史の悲しみ 読めばわかるとおり、これは「島根の近代留学」とでも言うべきもので、わが家の本棚と近くの図書館にある本をもとに、島根県出身者とそれに関係のある人々の留学体験を書き並べているのだが、すぐに気がつくのは、この人たちの生まれた…

留学のいろいろ (10)

留学のような、留学でないような 明治初期には、実質的に東京の官立高等教育機関での修学は「留学」であった。つまり、そのころの高等教育は欧米人教師によって外国語(英・仏・独語)でなされていたからである。 柴五郎が通った陸軍幼年学校ではフランス語…

留学のいろいろ (9)

伊東忠太の「留学」辞令 建築家・建築史家の伊東忠太(1867−1954)は、築地本願寺や平安神宮、一橋大学兼松講堂などの設計をしたことで知られるが、明治35年(1902)3月から38年(1905)6月にかけて、奇妙な大「留学」をした。 「私は大学院を兎に角一と先づ…

留学のいろいろ (8)

留学先としての日本 逆に、日本が留学の対象となることにもなった。国をあげ官民をあげて西洋知識や技術を熱心に取り入れた日本は、明治27・28年の日清戦争(1894−95)の頃までには旧文明国中国をしのぎ、アジアに抜きん出る国になっていた。戦争の帰結がそ…

留学のいろいろ (7)

留学しなかった人びと 留学するのはエリートだけではない。選良留学のほかには、まず技術留学がある。文久年間西周らとオランダへ行った職人たちに始まるから、これも伝統ある留学だ。語学習得を目的とするものもここに入る。エリートと真逆の「落第留学」と…

留学のいろいろ (6)

幸福な留学土木工学の初代の日本人教授古市公威(1954−1934)は、明治8年(1875)から13年(1880)まで留学し、フランス中央工業学校、パリ大学理学部に学んだ。滞仏時、そのあまりの勉強ぶりを心配して、下宿の女主人が「公威、体をこわしますよ」と言うと…

留学のいろいろ (5)

客死 西周らのオランダ留学に同行した職人の大川喜太郎は、留学中に病死した。江戸小石川の名高い宮大工久保田伊三郎もこの留学に選ばれていたが、船中で病気になり、長崎で下船、江戸に帰って間もなく死んだという。士分の留学生は無事帰国したが、それでな…

留学のいろいろ (4)

私的に学ぶ さて、西周らに戻ると、オランダに到着した幕府留学生一行は、ハーグとライデンの二手に分かれた。「ハーグに居つた人々では内田・榎本・沢・田口は和蘭の海軍大尉ヂノウ(Dinoux)に就いて船具・砲術・運用の諸科を学び、榎本は傍ら海軍機関大監…

留学のいろいろ (3)

北京籠城 近代蒸気船の時代には、遣唐使の頃と違い中国渡航自体は難事でないが、渡った先での生活が平穏とは限らない。いや、混乱する清末期では戦乱に遭遇するのは普通にありうることのひとつである。西欧だとて、留学中戦争勃発(第一次・第二次大戦)に立…

留学のいろいろ (2)

珍談 明治ともなれば、難破遭難など、前時代の漂流記もどきの経験はさすがになくなるが(しかし1912年遭難沈没したタイタニック号にも日本人が乗っていた。細野正文[1870−1939]という人で、鉄道院の在外研究員だったから一応留学だ)、整わぬことは多かった。…

留学のいろいろ (1)

漂流者たち 天保12年(1841)正月5日、土佐中浜村の万次郎少年(1827−1898)ら5人の乗り組んだ船は漁に出た。万次郎は当時15歳、9歳のとき父親を亡くし、13、4歳の頃から船に雇われ、魚はずしとして働かなければならなかった。沖で不漁が2日続いたあと、7日…