対比と相似の「柳田学」(3)

坪井正五郎白鳥庫吉
 「後狩詞記」(1909)「遠野物語」(1910)は、言ってみれば聞書きにすぎない。往復書簡という妙な形式ではあるが、農政学以外で自分の論(仮説であっても)を立てた著書は「石神問答」(1910)が初めてである。これら三つの書物のうち、研究史的に、また伝記的に最も重要なのは、「遠野物語」ではなく「石神問答」だ。農政学ではすでに地歩を築いていた彼が、知識も方法も不十分であった「民俗学」の分野で、山中笑(1850-1928)・白鳥庫吉(1865-1942)・伊能嘉矩(1867-1925)などの尊敬する先輩たちに自分の考えをぶつけ、胸を借りて努力していたさまを示している。シャクジという正体不明の小さな神への疑問から始まり、道祖神オシラ神・唱門師等々、のちに手がけるさまざまなテーマを萌芽的に含んでいる「暗中模索の記録」であり、「大きな題目の片端を捉へ」た「エチュドめきたる作品」、みずから言う「結論は到底書けそうにも無きとぼけた書物」である。規模はずっと小さいが、南方との「往復書簡集」と並ぶ「成長期」のドキュメントである。そしてこの書の刊行が、南方との文通のきっかけになる。これを南方に贈るよう勧めたのが、坪井であった。
東京帝大の人類学教授であった坪井正五郎(1863-1913)と柳田国男の関係は、よくわからない。柳田の学問上の歩みにおいて、南方や新渡戸のような役割を果たしていないのは明らかだが。しかし、坪井の方法や性向には柳田と共通するものが数多くあった。まず、整理検索のためのカードの使用。社交的で、さまざまな会に加わり、呼びかけたこと(坪井らが始めた集古会や三越の流行会には柳田も参加していた)。さらに、講演好き(坪井はいつも「講演すれば心気がサッパリする」といっていたという。鳥居龍藏「江戸人としての恩師坪井正五郎先生」)、外国人の研究に対する態度(「私をモールス(モース)の弟子で日本の人類学は同氏から起ったとするのは心外である」とつねづね言っており[それは事実で、彼はモースの弟子ではない]、今ではこれ以上のものがあるからとて、モースが集めた大森貝塚採集の土器石器などの展示標本をはぎとったというエピソード。鳥居「日本人類学の発達」)、日本語を平明にしたいと考えていたこと(坪井は「かなのくわい」の賛同者であり、柳田はエスペランティスト)等々。
ともに日本にそれまでなかった学問の創設者、組織者であり、次々と各地に同好者の集まりを設けていくようす(徳島人類学材料取調仲間・奥羽人類学会・中国人類学会・北陸人類学会・台湾人類学会・沖縄人類学会・札幌人類学会等)、夏期講習会を開くことなど、明治の人類学会の発展のさまには既視感がある。その学問についてのスタンスもそうだ。坪井は言う。「私が人類学研究に志したのは人類学と云ふものゝ存在を知って居て夫れを修めようとて為出したので有りません。自分の心掛けて居る様な事柄は人類学と云ふもので有るとの事を後に至って知ったのです」(「名士の学生時代実話」)。あるいは自分が中心になって作った東京人類学会について、「新たに学会を興こさうとて、理論上関係有るべき人達、義理として無関係とも云ひ兼ねると云ふ人達を強ゐて寄せ集め、若しくは誘ひ合はせて、人為的に作り立てたのでは有りません。同志者が集まり、意気投合者が加はり、内心からの賛成者が助けて自然に此会が出来、且つ進んで来たので有ります」(「東京人類学会満二十年紀念演説」)。どこかで聞いたようなパロールではないか。
坪井はまた発想豊かな人であった。「風俗測定」という題目で、のちの考現学のさきがけとなる調査を行なっている。「重ね写真」の研究への応用にも興味を示しているが、柳田が自分の方法について、「我々の重出立証法は即ち重ね撮り写真の方法にも等しいものである」(「民間伝承論」)と言うとき、坪井の着想がその下敷きになっているだろう。
異なっていたのは資質である。趣味的で、道楽を是とし、つねに遊びのほうへ傾く坪井と(註41)、「革命党」的な柳田。東京帝国大学教授と、官界では出世したものの学界では在野を通した人間という立場の違いもあろう。
坪井正五郎は、大正2年(1913)万国学士院連合大会に出席した直後、サンクトペテルブルクで客死してしまう。ようやく五十にさしかかったばかり、いくら明治でも若すぎた突然の死である。もし彼が長命していたら、日本の「民俗学」の姿は異なっていたのではないかと思う。


山中笑(共古)・伊能嘉矩・喜田貞吉らとともに「石神問答」に登場する白鳥庫吉も、柳田の尊敬する学者であった。東京帝国大学教授であるから、大学や東洋史で弟子が大勢いるのは当然だが、それ以外の傍系にもすぐれた「弟子」をもっている。柳田のほか、津田左右吉や鳥居龍藏がそうだし、皇太子時代の昭和天皇に歴史を講じていたから、これも「弟子」だ。民族学会の会長も務めた。その規模雄大な考証は往々「天馬空を駆ける」と評されるが、まさにそのフィールドである広大な北方アジアの如きスケールの大きな学者であった。こういう学風にこそ反発しそうなものだが、どうも柳田は、南方熊楠といい、白鳥といい、小さいものに目を注ぐ自分とは対極的な人物に魅かれるらしい。


(註41)坪井について知っておかねばならぬことの第一は、彼が幕臣の出であったことだ。人類学は「幕臣の学問」で、人類学教室に集まった人やその周囲には幕府方の出身者が多かった(山中笑・林若樹など)。ちなみに、伯父が静岡に住んでいる迷亭幕臣の出であり、江戸の町人漱石の「吾輩は猫である」は「幕臣小説」とも言えよう(寒月は土佐藩だが)。坪井が主宰する人類学教室の雰囲気には、ああいう気分と重なるところがあったのではないだろうか。