柳田覚書/対比と相似の「柳田学」(1)

柳田の内的発展は赤坂憲雄によって丹念に追われている。ここでは「外的」発展を、事件と人物から眺めてみることにしたい。そこにはさまざまな対照や相似が現われてきて、そのうちに柳田の特質をとらえることができそうなのだ。


<日本近代史としての「柳田国男史」>
ミクロコスモスとマクロコスモスの照応ではないが、個人史には全体史が映し出される。すぐれた個人史は、すぐれた全体史に呼応するだろう。「柳田国男史」は、その意味でみごとに「日本近代史」である。「鳥居龍藏史」が「大日本帝国の海外進出史」であったように。鳥居龍藏(1870-1953)は、遼東半島・台湾・北千島・満洲・朝鮮・東部シベリア・北樺太と、千島樺太交換・日清戦争日露戦争日韓併合・シベリア出兵等の結果として新しく手に入ったり占領したりしていた地域を調査した。そのこと自体は別段非難されることではなく、むしろ新付の地に学術調査を行なわなかったらそのほうが問題であるが、こうもみごとに軍隊のあとに出かけて行っているのを見ると、おのずから感があるというものだ。乳飲み子を抱いた妻とともに蒙古調査旅行へ出立するにあたり、同郷の国学者小杉榲邨が贈った歌からも、まわりに「学問的国威発揚」の期待があったことがわかる。「翼あらば国の重さを載せて行け外つ国かける我が鳥居ぬし」。
柳田においても、日本の対外進出はその学問の展開に少なからぬ影響をおよぼしている。たとえば初期柳田が執拗に追いかけた深山に住む野生の人、先住民族の落魄した末裔と彼の考える「山人」には、台湾の高砂族がパラレルなものとして念頭にあっただろう。彼の山人論には「生蕃」だの「隘勇線」などという言葉がまま現われる。台湾領有後に調査刊行された「台湾蕃族調査報告書」を読破し、そこから知識や認識を汲んでいた(折口もそうである)。
法制局に勤務していた柳田は、日韓併合の法律制定にたずさわった。このことについて彼は沈黙しているが、日本の朝鮮統治の実態が、ジュネーヴ委任統治委員会報告中の原住民の教育や福祉をめぐる傾聴すべき意見に彼を導いたのであろう。
島というのも柳田の関心の大きな対象であったが、これには、弟松岡静雄が第一次大戦時に海軍軍人としてミクロネシアのポナペ島を占領したことや、退役後日蘭通交調査会を設立し、インドネシアの開発を企画したのを柳田も手伝っていて、その経験なども反響しているにちがいない。
宮内省にも出仕した高級官僚であったことも、彼の学問に足跡を残している。明治天皇の死は、政治史はともかく、日本文化史上の大事件であった。それは乃木将軍の殉死を呼び、その衝撃は鴎外や漱石に深甚な影響を与えた。もうひとつ、天皇の死は当然のこととして新しい天皇の即位につながり、すると大嘗祭が催される。近代初の大嘗会である。これに柳田は奉仕した。その体験は、「宮中のお祭は村のお祭とよく似ています。中間の神社のお祭は色々やかましい儀式があったりして違っているが、宮中のお祭と村々の小さなお宮のお祭とは似ている」(「民俗学の話」)という重要な発見を彼にもたらした。のちに「常民」の語をめぐり、「常民には畏れおおい話ですが皇室の方々も入っておいでになる」(座談「日本文化の伝統について」)という発言をしているのも、この認識をふまえてのことであろう。
柳田の出発点には「飢饉体験」があった。「恐らく日本における飢饉の最後のもの」が、明治18年(1885)に起こり、国男少年はそれを体験する。「その経験が、私を民俗学の研究に導いた一つの理由ともいえるのであって、飢饉を絶滅しなければならないという気持が、私をこの学問にかり立て、かつ農商務省に入る動機にもなったのであった」。「こうした悲惨事が度々来るのではたまらないと思ったのが学校を出るまで「三倉」―義倉、社倉、常平倉―の研究をやった動機である。…そうした子供心の印象から、私は「救荒要覧」などを読まずにおれなかった。確かまだ十三歳のそのころ、それを読んだのを記憶している」(「故郷七十年」)。
彼は「国難」に遭うたびに飛躍する。ジュネーヴからの帰国を決意したのは、関東大震災がきっかけであった。それから「民俗学」建設に本格的に乗り出すわけだが、ロンドンでその報を聞き、大使宅に邦人が集まったときに、「或る一人の年長議員」が、「これはまったく神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄に流れていたからだ」と言ったのに対し、「本所深川あたりの狭苦しい町裏に住んで、被服廠に遁げ込んで一命を助かろうとした者の大部分は、むしろ平生から放縦な生活をなしえなかった人々ではないか。彼らが他の碌でもない市民に代って、この惨酷なる制裁を受けなければならぬ理由はどこにあるかと詰問した」(「南島研究の現状」、1925)という(註28)。
それからの「民俗学時代」については多言する必要はないが、成城に新居を建てたこと(1927)には触れておきたい。場所の移動は変化の契機になる。柳田は旅の達人で、旅を重ねることでみずからの学問を形成していった。「民俗学」への邁進時代の画期は、ジュネーヴ滞在と砧への転居である。「ぐずぐずしていては勉強が出来ない。ぼくだけ独り先へ引越すよ」と夫人に言い(註29)、老養父母と夫人を旧宅に残して、息子とともに新居に移った。「新しい時代」への意気込みを知ることができる。
敗戦は大きな衝撃であったにちがいないが、そこからもさらに飛躍をはかっている。自宅書斎を開放しそこに「民俗学研究所」を設立(1947)して、調査研究、さらに社会科教科書の編纂にも乗り出した。
民俗学研究所設立には、書斎が中央暖房設備も備えた洋館であったため、占領軍に接収される恐れがあり、それを回避するためという事情もあったようだ。何にせよ、研究拠点ができるほうが、進駐軍のために無駄に接収されるより千倍もいいのはたしかである。
最後の著作「海上の道」(1961)の刊行は、所得倍増計画発表の翌年であった。高度経済成長の開始とともに、柳田は生を終えている。高度成長によって、日本は歴史上のある閾を越えた。飢えない時代に入ったのである。柳田の一生を一言で言えば、飢える時代と飢えない時代の過渡期に生きた人だということになる。それは沖縄旅行をもって前半生と後半生に分けられる。
高度成長は日本の社会の相貌を変えた。柳田らが常識的に知っていた技能や風習が消え去っていくのが高度成長の過程である。学問も一種の骨董屋だ。扱う対象に需要があるか、希少価値があるかで値打ちが決まる。「民俗学」というのは、まさにその研究対象である「民俗」が衰退していく時期、つまり対象に価値がでてくる時期に勃興する。少なくなればなるほど値が上がり、めでたく「死んだ」のちに高値安定するわけだ。「死んだ」対象を扱う歴史学はそれでいい。眼前にある生きた事実を資料とすべき「民俗学」は、どうしても行き詰らざるを得ない。「期間限定」的な学問。柳田は、「柳田」以後、高度経済成長以後の困難を知らずに死んだといえる。


(註28)「考現学」も大震災から生れている。震災後の焼け野原に現われたバラックの群れに触発され、仲間と「バラック装飾社」を結んでそれに関わった今が、町歩きの観察を進めるうちに「考現学」が成っていったのである。
(註29)飯島小平「柳田のおじさんの思い出」、筑摩書房「定本 柳田国男集」月報12、1969。