柳田学

対比と相似の「柳田学」(7)

<「考古学者」柳田国男> 明治期に存在した学会で、のちの「民俗学者」たるべき柳田の関心にもっとも近いはずのものは人類学会だが、入会したのは非常に遅く、明治43年(1910)である(註43)。明治38年(1905)「人類学雑誌」には7篇を寄稿しているが…

対比と相似の「柳田学」(6)

<対抗史学発言録> 柳田国男の一生を考えると、「戦う人」という感想をもってしまう。貴族院議長徳川家達と衝突して官界を去ったなどというエピソードにとどまらず、彼はやたらに戦っている。 「民俗学」確立期には、在来史学に激しく切り込んだ。従来の歴…

対比と相似の「柳田学」(5)

<悪口雑言集> 私は柳田の「悪口雑言」をこよなく愛する者である。 柳田という人は、折口信夫よりも詩人、南方熊楠よりも野人だと思う。詩を書かない詩人は、書く詩人よりさらに「詩人」である。彼の著作すべてが「詩」である、と言いたい気持ちに駆られる…

対比と相似の「柳田学」(4)

<著作権の彼岸> ある学問がまさに形成されようとしているところに、ぜひ立ち会ってみたいものだと思う(もちろん学問でなくてもいいけれど)。公式の組織形態から離れた同志的な結びつきで、刺激や発想の交換を行なう瞳の輝く人たち。シャンパンの泡がはじ…

対比と相似の「柳田学」(3)

<坪井正五郎と白鳥庫吉> 「後狩詞記」(1909)「遠野物語」(1910)は、言ってみれば聞書きにすぎない。往復書簡という妙な形式ではあるが、農政学以外で自分の論(仮説であっても)を立てた著書は「石神問答」(1910)が初めてである。これら三つの書物の…

対比と相似の「柳田学」(2)

<柳田の「道の友」たち> 柳田国男という人は社交的で、さまざまな会を組織したり会に参加したりして交友も広かった一面、自分の学問領域の周辺では、やたらに人と衝突する人でもあった。それも、優れた人物を選んだかのように角逐している。逆説的に、彼と…

柳田覚書/対比と相似の「柳田学」(1)

柳田の内的発展は赤坂憲雄によって丹念に追われている。ここでは「外的」発展を、事件と人物から眺めてみることにしたい。そこにはさまざまな対照や相似が現われてきて、そのうちに柳田の特質をとらえることができそうなのだ。 <日本近代史としての「柳田国…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(10)

<「民俗学」時代を悔やむ柳田> 女婿の堀一郎によると、終戦後のある日、柳田はこう語った。「私はね、消えていくものには消えていくだけの理由があり、それを元へ返せなどと考えたことも云ったこともない。しかし今度は違う。滅んではならないもの、滅ぼさ…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(9)

<柳田国男とマージナルなヨーロッパ> ここではたと気づく。この手紙を含め、上に引いた手紙の中に出てくるのは、ほとんど東欧・ロシアの人ばかりである。彼のジュネーヴ滞在時の日記を見ると、東欧の影がそこここに差している。「セイケイ」というハンガリ…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(8)

<ジュネーヴ体験> おそらく、大正8年(1919)末に官を辞し、最初の3年は内外を旅行をさせるという条件で朝日新聞に入社して、沖縄旅行(ここからの帰途に、国際連盟委任統治委員になれとの話が電報で飛び込んできた)に出たときに、「前史」が終わり、後…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(7)

<「柳田民俗学」の特徴> 彼の学問はよく「柳田学」と言われる。そのように、または少なくとも「柳田民俗学」と呼ぶのが正しい。彼の人格や興味が色濃く投影されているのだから。あるいは、みずからも言っているように、「新しい国学」と呼ぶのもいい。それ…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(6)

<「日本民俗学」の確立> 柳田の還暦の祝いに「日本民俗学講習会」が催され、「民間伝承の会」設立、機関紙「民間伝承」が発刊された昭和10年(1935)に、「日本民俗学」は確立したと言える(しかしなお「民俗学」の名称は会の名からも雑誌の名からも慎重…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(5)

<柳田の学問と「民俗学」の名称> 柳田自身の使用例を見てみると、どうだろう。柳田は、自分の研究を「民俗学」と呼ぶことに長くためらいがあった。「「民俗学」という語を普通名詞として使用することは日本ではまだ少しばかり早い」。「民俗学というのは惜…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(4)

<「民俗学」とは何か> ここで、「民俗学」という言葉が問題になってくる。 日本には二つの「ミンゾクガク」が存在している。「民俗学」と「民族学」である。そのほかにも「文化人類学」「社会人類学」という名称もある。漢字二三文字の同音異義語が多いの…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(3)

<明治大正期の柳田と「民俗学」> 柳田個人においてはどうだったのだろうか。 のちに「民俗学」を志した動機について問われたとき、即座に「それは南方の感化です」と答えたという(註9)。柳田が「日本人の可能性の極限かとも思い、又時としては更にそれ…

柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(2)

<明治大正期に「民俗学」はあったのか> では、明治から大正初期には「民俗学」は存在していなかったのか? いなかったとも言えるし、いたとも言える。 あらかじめ用語の混乱を避けるために、生物としての人間をあつかう分野を自然人類学、人間の文化をあつ…

柳田覚書/柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(1)

<柳田像には歪みがあること> 柳田国男(1875-1962)は、言うまでもなく「日本民俗学」を打ち立て組織した大学者である。しかし、その業績があまりに巨大であるために、後の世からこれを眺める人は、少なからぬ誤解や大きなパースペクティヴの歪みを持って…