柳田覚書/柳田国男と「民俗学」の奇妙な関係(1)

<柳田像には歪みがあること>
柳田国男(1875-1962)は、言うまでもなく「日本民俗学」を打ち立て組織した大学者である。しかし、その業績があまりに巨大であるために、後の世からこれを眺める人は、少なからぬ誤解や大きなパースペクティヴの歪みを持ってしまう。あれだけの巨人が前景にいたら、どうしても多少の狂いは出てしまうものだけれども(註1)。
彼のもっとも名の知れた著作は、明治43年(1910)、36歳のときに出された「遠野物語」である。そのため、彼の伝記に詳しくない人にはその頃からずっと民俗学者であったように、農政学者や高級官僚としての経歴を知る人にもその頃から民俗学への道を歩みはじめていたように、漠然と考えられている。
また、彼は西洋の理論を無批判に日本に当てはめる態度を「取次学問」と呼んで、極度に嫌っていた(柳田国男は実にポレミックである。この点、尊敬していた森鴎外を思わせる。ほとんど罵倒である内実をくるむレトリックに感心する)。だが、その彼自身は英仏独語を解す「西洋通」であり(40歳ごろまで旅にはいつも洋書を携えていた)、西洋の学問を咀嚼し消化しきったのち、自らの学問に取り入れていた。横のものを縦にするだけの学者がやるように、横文字の術語や人名書名を並べ立てないので、わかりにくいだけである(しかし仔細に見ると、それもけっこうのぞいている)。洋館に住んでもいたのだ。
彼が「民俗学者」になったのも、ふつうに考えられているより遅い。あの伝説の雑誌「郷土研究」(1913-17)を出していたときにおおよその方向転換が行なわれ、道がつけられはじめているが、はっきりと「民俗学」へ決定的に踏み出したのは、国際連盟委任統治委員としてのジュネーヴ滞在(1921-23)が契機である。「民俗学者柳田国男の誕生を画すのは、「遠野物語」ではなく、委員を辞任し帰国してのち精力的に行なった講演をまとめた「青年と学問」(1928)である。「郷土研究といふこと」(1925)「Ethnologyとは何か」(1926)「日本の民俗学」(1926)などを含むそれは、「日本民俗学」の樹立に向けた宣言と言える。
「結果からの遡及」の罠には、陥りがちである。「遠野物語」および前後して著された「後狩詞記」(1909)「石神問答」(1910)を「三部作」などと称して、そこから「民俗学」が始まったように述べたてては、事実を誤る。「民俗学」の前史に挙げるのはいいが、前史には他の多くの事柄も含まれているのだから、それのみ過大に扱ってはならない。のちに柳田が果たした役割から見て、特権的な意味が付されるのはしかたがないにしても(註2)。柳田個人の内的発展は、柳田伝の領域である。客観的な学史叙述は、発表されたテクストや外に現われた事実から構成されねばならない(註3)。本稿は「柳田伝」も考察するのだが、二つを混同せず、パースペクティヴを確かに持ちたいと願っている。柳田が大きな業績をあげるのは昭和に入ってからである。生前すでに十分大きかったが、最晩年から長逝後にかけての「定本 柳田国男集」(31巻・別巻5巻)の刊行によって、今日の「知の巨人」のイメージが築かれたのだ。
ジュネーヴへ立つ前、1920年(大正9年、46歳)の時点で、彼はどういう人物であったか。世間的には、前年末に辞任したばかりの貴族院書記官長で、農商務省内閣法制局で腕を振るった高級官僚である。その年には朝日新聞社客員に就いていた。学問のほうから見れば、農政学者である。「元来が農民史を専攻してみようと思って、学問を始めた人間」(「郷土生活の研究法」)であり、官吏の仕事のかたわら、早稲田・専修・中央・法政で農政学を講じ、「時代ト農政」(1910)を始め、それまでに「農政学」「農業政策学」「産業組合」などを著していた。ジュネーヴから帰国後の1925・26年にも早稲田大学で農民史を講義し、「日本農民史」(1926)を出してもいる。文学者や文学愛好家にとっては、新体詩人松岡国男であり、早くに詩を廃したのちも、文学者の集まり龍土会・イブセン会の中心メンバーの一人として、仲間であった。「遠野物語」も、文学的香気の漂う「作品」であったこと、ここにまとめられる話を柳田に語った佐々木喜善も文学志望の青年だったことを想起してもいい。


(註1)たとえば、山口昌男の「内田魯庵山脈」(2001)では柳田が影の主人公で、「仮想敵」としてしばしばあげつらわれる。「江戸前の都市民俗学つまり遊興の具としての学問的感性はとっくに柳田が滅ぼしている」というのは、驚くべき買いかぶりである。「ヤナギタ・アズ・スーパーマン」だ。市井の人々の趣味のネットワークを顕彰するのはいいが、柳田が集古会に属していた、流行会で話をした、「同人」の有力メンバーだった、魯庵の葬儀で弔辞読んだ等々の事実が素直に語るところを捻じ曲げてはならない。
(註2)柳田自身が「民俗学の三十年」(1941)で、「私は齢四十に近くなってから、発心入道した所謂晩出家でありまして」と語っているところ、またその表題からも、「郷土会」発足(1910、36歳)から「郷土研究」創刊(1913、39歳)あたりを自分の「民俗学」の始まりと認識していたことがわかる。本人の申し立てだから敬意が払われねばならないが、しかしやはり「ゴールから振り返って見た図」でしかない。
(註3)「柳田国男の発生」を副題とする赤坂憲雄の「山の精神史」(1991)「漂泊の精神史」(1994)「海の精神史」(2000)三部作は、柳田のテクストを丹念に読み込む作業に基づいており、柳田理解を大きく進めた労作である。ただ、柳田のテクストを追うことに専念するあまり、周囲・同時代の状況がよく見えていないのが欠点だ。