2016-06-01から1ヶ月間の記事一覧

留学のいろいろ (11)

後記・郷土史の悲しみ 読めばわかるとおり、これは「島根の近代留学」とでも言うべきもので、わが家の本棚と近くの図書館にある本をもとに、島根県出身者とそれに関係のある人々の留学体験を書き並べているのだが、すぐに気がつくのは、この人たちの生まれた…

留学のいろいろ (10)

留学のような、留学でないような 明治初期には、実質的に東京の官立高等教育機関での修学は「留学」であった。つまり、そのころの高等教育は欧米人教師によって外国語(英・仏・独語)でなされていたからである。 柴五郎が通った陸軍幼年学校ではフランス語…

留学のいろいろ (9)

伊東忠太の「留学」辞令 建築家・建築史家の伊東忠太(1867−1954)は、築地本願寺や平安神宮、一橋大学兼松講堂などの設計をしたことで知られるが、明治35年(1902)3月から38年(1905)6月にかけて、奇妙な大「留学」をした。 「私は大学院を兎に角一と先づ…

留学のいろいろ (8)

留学先としての日本 逆に、日本が留学の対象となることにもなった。国をあげ官民をあげて西洋知識や技術を熱心に取り入れた日本は、明治27・28年の日清戦争(1894−95)の頃までには旧文明国中国をしのぎ、アジアに抜きん出る国になっていた。戦争の帰結がそ…

留学のいろいろ (7)

留学しなかった人びと 留学するのはエリートだけではない。選良留学のほかには、まず技術留学がある。文久年間西周らとオランダへ行った職人たちに始まるから、これも伝統ある留学だ。語学習得を目的とするものもここに入る。エリートと真逆の「落第留学」と…

留学のいろいろ (6)

幸福な留学土木工学の初代の日本人教授古市公威(1954−1934)は、明治8年(1875)から13年(1880)まで留学し、フランス中央工業学校、パリ大学理学部に学んだ。滞仏時、そのあまりの勉強ぶりを心配して、下宿の女主人が「公威、体をこわしますよ」と言うと…