FT通信/「ダ・ヴィンチ・コード」から考える

リャザン国立大学で働いている友人に、弁論大会の予選に出場した学生のスピーチ原稿を見せてもらいました。とてもおもしろかったので、紹介します。


リャザノワ・アンナ:ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」から
― キリストは神ですか、人間ですか?

皆さん、もうダン・ブラウンのこの小説を知っていますね。ブラウンはいろいろな資料を調べて、とても面白く、意味のある本を書きました。私はこの小説を読んで、びっくりしました。知らないことがたくさんわかって、神様のことがもっとよくわかるようになりました。これからそれを説明します。
キリストについて書かれた本はたくさんありますが、私たちが知っている本は少ないです。一番重要な問いは、「キリストは神か、人か」でした。教会は権力が欲しかったのです。キリストが神だったら、教会は大きな権力がえられます。ですから、彼の人生について書いてある本は少ないのです。そのために、キリストの人生についてのいろいろなことは忘れられてしまいました。
けれども、今はそれが書いてある本が見つかっていますから、キリストの人生について調べることもできます。それに、もしかしたら、それらのことは、有名な画家、ダ・ヴィンチの絵に見つかるかもしれません。ダ・ヴィンチの絵には、いろいろなコードやシンボルがありますから。
まず、奥さんがいたと考えられています。有名な女性です。マリア・マグダレーナです。キリストが亡くなるとき、マリアのおなかには赤ちゃんがいました。では、キリストとマリアの子孫は今も生きているのでしょうか。
この本を読む前に、私はそんなことを考えたことがありませんでした。信じられないと思いました。でも、今はじっくり考えてみたので、自分の意見があります。
キリストには奥さんがいましたか。多くの人はいなかったと思っています。神様ですからね。結婚した男の人はあまり祈らなくなって、神様について考えなくなります。他の宗教、たとえば、イスラム教では、結婚しない男の人は神様に奉仕することができません。人間は家族と暮らすときだけ、幸せになることができます。私もそう思います。それに、家族によって人は人生の目的をえます。
また、キリストは神様の息子だと書いてあります。どういう意味でしょうか。キリストは神様でしたが、人間の体があって、人間と同じ生活があったのでしょうか。このことは重要です。神様が人間になったのだから、私たちも神様と同じにならなければなりません。人は愛し合わなければならないという意味です。キリストは私たちにそのことを教えたかったのです。
それから、マリアについて話したいです。おおぜいの人は神様が男性だと思っています。どうしてでしょうか。神様は人間ではありませんね。世界には男と女がいて、神様は自分と同じ形におつくりになりました。ですから、神様は男でもあるし、女でもあると思います。人間の世界にいらっしゃるとき、神様は人間になりました。でも、どうして男だけになったのでしょう。男も女も役に立ちますね。同じじゃなくても、どちらもとても強いです。男の力と女のやさしさが一緒にならなければなりませんから、神様は男と女に生まれたと思います。それがキリストとマリアだったのでしょう。
この問題はとても面白くて、難しいので、いくらでも議論することができます。キリストの目的は人間と世界をもっとよくすることでした。いいことをたくさんしてくださいました。愛という新しい考えを教えてくださいました。それが一番大切なことです。ほかの事、たとえば、「人間だったか、奥さんがいたか、何を食べていたか」というのは大切じゃないと思います。
宗教の問題は難しくて、世界にはいろいろな意見があります。神様の問題については結論が出ていません。正しい答えは誰も知りませんから。「ダ・ヴィンチ・コード」を読めば、それらについて考えるようになるかもしれません。それまでのキリストについての考えと違うことになるかもしれないので、危ないかもしれませんね。信じるだけでは、真理は見つかりません。
私の意見では、キリストは神でも、人間でもあります。どちらであっても、偉大な存在で、キリストが生まれた後では、世界は以前のままではありえません。


海外で日本語普及の最前線にいる者は、往々にして日本語は「文明語」になりうるかという問題を意識させられます。すべての言語は「文化語」です。背景にそのことばを話す人々の文化があるのだから。だが、「文明語」になりうることばは限られている。「あなた」という二人称代名詞は実は使ってはならない(目下か親しい人にしか使えない)、イエス・ノーをはっきり言わず、断言をしないようにあらゆる努力を重ねる等々、暗黙のコード(それがまさに文化なのだが)の多い日本の独特の文化に支えられた日本語は、「文明」を担うことばになれるのだろうか? 簡単に言えば、よき道具になれるかということ。母語を異にする外国人同士が、その国以外の第三国で、そのことばを使って話し合うという光景です。日本語はそれに堪えるか。
日本語弁論大会というと、日本についてか自国についてのスピーチばかり並びます。それが自然でもある。そんな中で、外国人(第三国人)が書いた本によって触発されて考えをめぐらせ、そうして得た自分の意見を堂々と述べるこの作文は、新鮮でした。キリスト教について話す文中、イスラムのよいところにもさらりと触れている。自分の頭で考えたことを、こだわりなく述べる。思考とその表明の道具になっているそのことばが、この場合は、たまたま自分が日本語ができるから日本語だ、という一種のすがすがしさ。ここでの日本語は狭い「文化」のレベルにはない。また弁論大会では、原稿自体も教師が書いてやるというようなあってはならないことが、今もままあります。そんなことも思うと、実に立派なスピーチです。
「文化」に拘泥する他のスピーチを尻目に、ひとり「文明」に抜け出している、というのは買いかぶりすぎかもしれませんが、ときどきこのような好作文にぶつかるので、予選への注目はやめられません。正当にか不当にか本選に進めないスピーチに、いいものが隠れています。なぜ本大会に出られないか、入賞できないかの理由は問わないことにして、そういうものはぜひ顕彰したい。
フェルガナのある学生は「おどる」と「おどろく」を混同していて、「おどろいてください」なんて言われて実際驚くのだけど、雀と違って踊りは下手だが、驚くのは百まで忘れないでいたいものです。最近の驚きの一例まで。