「吸血鬼伝承」拾遺(2)

僵屍―漢族>
上で「吸血鬼」との類似が指摘されるインドの起屍鬼やハイチのゾンビなどを見てきたが、いささかの類似点がある一方で、大きな相違点があることがわかった。ところが中国に目を転じると、バルカンの「吸血鬼」に酷似した「生ける死体」伝承があることに気づかされる。「僵屍」(キョンシー)である。中国民間伝承の大知識澤田瑞穂氏の「鬼趣談義」とデ・ホロートの「中国宗教体系」によりながらその伝承を追ってみることにしよう。
「死後に硬直したまま皮肉ともに腐爛しない屍体、または久しい歳月を経ても朽ちず枯骨にならない屍体、これを僵屍という」。まず腐敗せずミイラ化して長い年月その姿をとどめ、驚嘆の対象となるだけの僵屍伝承が文献に見られる。「驚異としての僵屍」である。
「宋・劉敬叔『異苑』によれば、漢の京房が殺されて棄市されたが、晋の義煕年間に至ってもなおそのままで、僵屍の肉が薬用になるというので、軍士がこれを分割したとある。/『水経注』巻十五洛水の条に、温泉水とよばれる河流の傍に僵人穴あり、穴の中に僵屍があるとて戴延之の『従劉武王西征記』を引いている。また巻十七渭水の条に、瓦亭水また西南に流れて僵人峡を経る。路側の巌上に死人の僵屍があるのでこの名がついた。山の石路を登ってゆくと、僵屍が巌窟に倚り、枯骨なお全し、ただ膚髪なきのみ。その附近の住民に問うに、郷中の父老が童子であったころより有名であったというから、かなり長く伝わるもので、おそらく数百年の遺骸であろうと」[澤田1990:262]、等々。


・怪異としての僵屍
このような「驚異」から発したものであろうが、中国には「怪異としての僵屍」譚が、文献記録中にも口承伝説中にも数多く記されている。清の袁随園は幽鬼妖怪譚の愛好家で、「子不語」「続子不語」にそのような話を集成した。澤田氏の要約によって、両書中に見える僵屍譚の特徴をあげよう。


「随園先生によれば、秦中(陜西)は地下四、五丈も掘っても水脈に達しない。鳳翔以西の俗では、人が死んでもすぐには葬らず、多くこれを野ざらしにしておき、血肉が化しつきるを俟ってはじめて埋葬する。そうでないと発凶する(凶悪な力を発揮する)という説がある。屍体が消化しきれないで葬られ、一たび地気を得ると、全身に毛を生ずる。白いのを白凶、黒いのを黒凶とよび、人家に入って禍をなすという。
僵屍が夜出て人に掴みかかるものは、その相貌は多く豊満に肥えて生人と異ならないが、その棺をあけてみると、痩せ枯れてミイラのようだ。これを焚くと啾々として声を立てるのもあると。また僵屍は面色深黒で、両眼が窪み、中に閃々たる緑の睛あり、すこぶる獰悪で、鬼嘯一声する。また青面獠牙(長い牙をもつ青面の悪鬼)の状をなすこともある。ひどく痩せて頭は蓬髪、顔の広さ三寸ばかり、眼は閉じ血が流れているのもある。あるいは全身が白毛に覆われ、あたかも銀鼠の毛皮を着たようなのもある。あるいは両肩に銀錠を掛けて歩き、ガサガサと音を立てるのもある(これは死者に供養する紙銭を帯びているもの)。
屍体が奔走するのは、陰陽の気が合してこれをなす。けだし人が死すれば、陽気は悉く絶えて純陰となる。陽気さかんな生人がこれに触れると、陰気たちまち開き、陽気を吸収して奔り出す。ゆえに死者の通夜をするものは、足を向い合せて臥することを忌む。人が寝ると、その陽気は多く足の裏の湧泉穴から放射される。それが死者の足に注入されると、屍体は起立する。俗にこれを走屍とよぶ。また新死の屍が陽気に触れて奔るのを走影ともよぶ。屍が蹶然として立ち、生人を追ってこれを襲う。口から息を吹き、その臭気耐えがたいものがある。あるいは生人にしっかりと抱きつく。抱きつかれたら両手が折れ裂けても、屍の爪が人の皮膚に喰い入って抜けない。あるいは人の頭に喰いつき、その血を吸い取る。中には髪を振り乱し、跣足であらわれた僵屍の頬を手で叩くと、その頭は打つに随って転り、しばらくするとまた元にもどる。あたかも木偶人を糸で操るがごとし。叩いた手は翌日見ると墨のように真黒だったという話もある。
僵屍は昼は棺の中に横たわり、深夜に出歩く。しかし棺の上蓋が失われると、屍はもはや祟りをなすことができなくなる。ある豪胆な男が、屍が外へ出たのを窺って棺の蓋を取って隠した。夜更けに潜んで見ていると、屍は蓋が失われているのを見て、慌てて捜し廻っていたが、鶏が鳴くと、バッタリと路傍に倒れたという。
走屍に襲われ抱きつかれたときは、棗の核七個をその背に打ち込むと緩む。走屍はまた〔草かんむりに「召」〕帚を畏れるから、これで払えばよい。また赤豆・鉄・米粒を畏れるから、これを撒いて払う。また鈴の音を畏れる。『易経』などの経書を畏れる。これを見ると近づけないで後ずさりをする(経書を畏れるのは、すべての幽鬼妖怪に共通することである)。
僵屍が変ずると旱魃とよばれる獣の一種になる。再変すると〔ケモノへんに「孔」〕というものになる。これは仏菩薩の騎乗する獅子のような獣で、神通力をもち、口から烟火を吐き、よく龍と闘う。ゆえに仏がこれに騎して鎮圧するのだと。
すべて僵屍が久しくすれば、よく飛び、もはや棺の中にはいなくなる。全身に一尺余の長い毛を垂らす。出入には光がある。また久しくすれば飛天夜叉となり、雷撃にあらざれば死せず。ただ鉄砲ならば斃すことができる。福建の山中の民、こやつに出遇うと猟師なかまを呼び集め、樹の上に踞してこれを撃つ。こやつは熊ほどの大きさで、夜間に出て人家の作物を荒らすという。直隷安州の某山中で、一僵屍がよく空中を飛行し、小児を取って食う。村人は恐れて小児を家に匿したが、それでも往々にしてさらわれる。村人がその穴を探るに、深くて測りようがなかった。某道士の法術で鈴を振ってこれを仕止めたという」[澤田1990:272ff]。


 〔ケモノへんに「孔」〕だの仏菩薩だのが出てくる件りはいかにも文字者臭芬々で、民間信仰の立場からはいささか割引を願うとして、一覧して東欧の「吸血鬼」の諸特徴と重なり合うところ多いのに気づく。そのほか次のようなことも言われている。
白衣の僵屍に襲われた男が「梯子を登って楼上に逃げる。僵屍は高処には登れないので、夜が明けると梯子の下で動けなくなっていた(『右台仙館筆記』巻六)。僵屍を焚くには魚網を被せて焚くと燃えつきるという(同書巻五)。また僵屍を制するには大工の使う墨壷の糸で棺の四周を弾けばよいともいう(同書巻六)」[同:279]。
鄭辜生『中国民間伝説集』によれば、僵屍伝説は長江流域にも流布しており、「人が死んだとき、猫が屍体の傍を通ると復活して、人を見ると抱きつき、人の口から息を吸う。吸われた人はすぐに倒れて死ぬ。ただし脚は硬直しているので、押し倒せば起き上れないという。また、僵屍が復活して遠方に出かけると常人と異ならないが、家人に遇うと一変して狂暴になるともいう」[同:284]。
デ・ホロートは十九世紀の末に福建省厦門民間信仰や習俗を見聞し、それを大著「中国宗教体系」に取り入れている。「塵埃と湿気から護るために、概して棺は油紙で包まれるが、棺衣はその上に掛けられる。日光か月光が棺に達して、死屍を所謂「殭尸」に変へる恐れあり、と家人が考へる時は必ず然する。殭尸とは腐敗しない死屍で、通行人を捕へて殺す事を好む恐るべき幽霊であり、肉体を有している為めに、肉体のない幽霊より強力である故に、他の幽霊よりも恐ろしい」。「通常は体から血を吸つて餌食を殺すが、これが二三秒で済んでしまふ(註1)。その体は長い白い毛で蔽はれてゐると言はれ、その爪は非常に長い。髪と爪は死後にも伸びる、と中国でも欧州でも言はれてゐるが、この話はその説を想起せしめる。・・・殭尸を無害にするには、棺諸共何も彼も火で焼いて了ふか、死屍を取り出して、大きな鍋で揚げる他はない、と言はれてゐるが、かかる方法が現実に行はれるとも聞かない」[デ・ホロート1946:99]。「最後の息を引き取るや否や、飼猫全部を隣家に移すこと、少くとも、猫を縛つておいて、納棺が済むまでは家の中に放たないことに、家人は大いに気をつける。事実は、猫を動けなくしておかないと、猫は死者の床上を跳ね越したり、歩いたりするであらうし、その時は直ちに死体が起き上ると云ふのである。此の時死体を旧位置に押さへ附けるには長い棒が必要であり、又投げ附ける物として家具の一つが用ひられるのだが、箒が一番目的に適つてゐる。即ち、箒の柄は両手で掴むのに甚だ好都合であるので、激怒興奮した死体も、箒を直ちに掴んで己が胸に押し附けて、それで激怒を冷まし、この劇しい動作で旧の無力な状態に戻ると云ふのである。箒の代りに掴まへられる危険に身を置かないやうにする事の望ましいのは、言ふまでもない、強く抱き締められて恐ろしい死に方をするのが、必然の結果であらうからである」[同:41]。猫と死体の復活の関係はすでに東欧や日本でなじみの深いものである。
僵屍に追われて木に登り難を避ける、ないし木のまわりを回って逃げる、翌朝見ると木にかじりついて動かなくなっていた、というのが僵屍譚中よく現われるモチーフである。
「胡の語るところによれば、若いころ、僵尸に出会ったことがあった。拳をふりあげてなぐったが、木か石にあたったようだった。つかまりそうになったが、うまく高い木の上に飛びあがった。すると僵尸は木をめぐりながら跳ね廻り、夜明けになって、ようやく木に抱きついたまま動かなくなった。そこへ鈴を鳴らしながら駄馬の行列が通りかかったので、はじめて木から下り、よく見れば全身に白い毛が生えて、目は丹砂のように赤く、指は曲がった鉤のよう、歯は唇の外までつき出して鋭い刃のようであった」(『閲微草堂筆記』前野直彬訳、平凡社中国古典文学大系42)、等々。


ほかに清代以前の文献中の話をいくつかあげてみる。
「唐の開元年間に流言が広がった。それによると、僵人が地中にあること一千年、墓が崩れたので復活し、五穀を食せず、水を飲み風を吸うのみ、時人よんで地仙といった。妄説だというものもあれば、地下に金玉が積っているのだというものもあった。呉楚斉魯の間をゆく二賊あり、僵人の流言に乗じて兇徒十人と結び、安徽附近で墓を発いたという(『太平広記』巻三八九引『博異記』)」[澤田1990:267]。
「陜西洛川県の某が死し、親族が寄って通夜をする。それぞれ仮睡していると、屍体が急に起き上り、諸人の口を吸うて廻る。その中の一人は驚き逃げて死ぬ。屍体が追って出て格闘する。翌朝、人々が集まり、犬の血を注ぐと、屍体はやっと倒れた。一月ならずして、口を吸われたものも相継いで死んだと。また浙江海寧の祝俊卿というもの、父死し、親戚が供養をしていると、たちまち屍体が躍り上がり、諸人は日を越えてみな死んだと (明・談遷『棗林雑俎』和集「屍蹶」)」[同:271]。


僵屍の話は、北から南まで、東から西まで漢族の住む土地に広く語られているが、次に見る僵屍をめぐる民俗は華北に限られている。それは旱魃の原因とされる僵屍の話である。


旱魃僵屍
旱魃は農耕民族にとって死活に関わる問題でありながら、人力のおよばぬ事柄であるため、その原因や対策をめぐって想像裡においても心がはたらかされた。「山海経」に魃を黄帝の娘とし、この居るところ雨が降らぬとしているのが知られているが、そのほかにも旱を引き起こす魃というものを、さまざまな姿の異形の怪物と考えている。異常出産による奇形児を魃とすることもあった。一方で屍骸を魃とし、これを暴いて打ったり日に晒したりする習俗もあった。
澤田氏によってまとめると、「古今の諸説を按ずるに、旱魃にも獣魃と鬼魃との二種がある。獣魃は猿のような怪物で、髪はざんばら、一本足。この一本足の化物という伝承は、例の山魈などとよばれる山の怪物との混同もあるらしく、また古説にいう身長二、三尺で頭のてっぺんに目が一つある旱鬼と同系統の妖怪である。
一方の鬼魃は男女ともに屍体が変じて成るものであるが、特に女の場合は縊死した若い女だとも、嫁女にかぎられるとも伝えるのは、怨を呑んで死んだ変死者の祟りをいうものであろう。あるいは身には白毛が生じているともいう。いわゆる僵屍の変化である」。
「さてこの旱魃鬼は、獣魃の場合は人間の墓に身を潜める。土饅頭が湿っているので見分けがつくという。これを掘り起して化物を叩き出し、殴り殺せば雨が降る。鬼魃の場合は屍体そのものが人間に害をなす悪霊であるから、他家の墓でもおかまいなしに発掘し、屍体を暴露して打擲を加えあるいは焼却する。これが単に口頭の伝承だけでなく、実際の雨乞行事であったことは諸書に載せるとおりで、地域は山東・河北・河南・山西などの北方に多く、時代も遅くとも明代中葉から見られた風習であった。どうやら乾燥地帯特有のものだったようである」[澤田1990:324ff]。
例を澤田氏の書から引く。「山東登州の海に近い地方にもこの風習があった。旱の歳になると新しい墓をしらべ、土がすこしでも湿っているのを見つけると、これを魃であるとし、夜陰に乗じて数百人を集め、墓を掘り棺を開き、その屍体を磔し頭蓋骨を打ち砕く。雨が降れば遺族も文句は言えないが、雨が降らないと示談にして事を収める。これ真に悪俗である云々(光緒七年重修『登州府志』巻六十九)」[同:316]。このほか暴かれる墓に居るのが僵屍であるとする話も多い。
いわゆる関外の地、満州にもこの俗があったことに注目しておきたい。「清・納蘭常安『宦遊筆記』(巻十、盛京二、乾隆十一年自序)・・・瀋陽奉天)では旱に遇うと、新死者の所為となし、その墳を掘って雨を求める。これを打孤〔木へんに舂〕という。明の成化年間、医巫閭先生賀欽が、しばしば当事者に上書してその説を止めさせたところ、随って雨が降った。よって惑衆の人を杖刑に処して懲らしめ、その書を焼いてよりこの俗が絶えたと。/また清・西清『黒龍江外記』巻六にいう、内地では僵屍を掘ってこれを焼くことを旱魃とよぶが、黒龍江では旱孤〔木へんに舂〕とよび、明末にはすでにこの名称があった。近年、斉斉哈爾が旱の時、ラマ僧が雨乞をするとて十余人の男を率いて墓をあけたが発見できず、これから龍と戦うのだと詐り地方の人に多額の金銭をつかわせたが、結局雨は降らなかった云々」[同:316f]。
暴かれた死体に対して加えられる行動は、打つというのが普通だが、磔にして陽に曝す、焼くというのも多い。黄強氏の祈雨儀礼の研究には、死骸をめぐるこれらの習俗については触れられていないが、「曝晒」が雨乞いの根本にあることを示している。民国以後の農村の求雨儀礼には、村人が帽子をかぶらず裸足で、神像を担いで炎天下を練り歩くことがよく行なわれる。このような「曝晒」の系譜をたどれば、古代には旱魃時巫者を焚いたり(「焚巫」)、のちには陽に晒したり(「晒巫」)していたものが、神像を廟から出し、照りつける陽のもとに晒す「晒神像」の儀礼へと変遷してきたと考えられる。魃であるとされた死骸を打ち、あるいは晒し、あるいは焼く上記の習俗も、この基本理念の上にあることは明らかだ。
旱魃や天災の原因を尋常ならざる死体(腐敗しない死体、「生ける死体」)に求め、それを掘り出して罰するというのがロシア人の間で一般的であることは、すでに第Ⅱ部で見た。ただしそこでは怪しい死体は、水を掛けられたり川や沼に沈められるのが普通である[なおセルビアでも日照りのとき自殺者の墓に水を掛けることが行なわれており、自殺者や溺死者の霊魂は嵐の霊になると信じられている。ボスニアの村で近死者の墓を掘り返し、腕を切り取って川に流したことがあった]。この死体と旱魃をめぐるロシア人と漢人の共通する観念は、地理的にも連続しているのだろうか。カザン・タタール人の間で、ウブルが旱魃を引き起こすと信じられていること、満州ラマ教徒も死体と旱魃を関係づけていたことを思い出しておこう[それともミイラと旱魃の関係はもっと普遍的なものかもしてない。シチリア島パレルモのカプチン派修道院にあるミイラについて、1646年の大旱魃のとき、ペストで死にミイラ化した40人の死体を郊外の山の上へ担ぎ出し、雨乞いの大祈祷をしたところ雨が降ったという話がある]。
「吸血鬼」を追って、脇目もふりつつユーラシアをざっと横断してみた。それにしても東欧・ロシアと中国の「生ける死体」をめぐる怪異・俗信の類似には驚かされる。資料が足りず、その間をつなぐ環があるのかどうか確認できなかったけれど、ユーラシア大陸の西と東のこの一致はたいへん面白い。この連続の意味するものは何なのか、興味深い問題を残している。


(註1)西洋から東洋を眺めるデ・ホロートは、当然僵屍と「吸血鬼」の類似に注目する。それによると、血を吸う僵屍が文献に現れるのは十八世紀以降で、「子不語」が最初だという。そして、十七世紀末のポーランドセルビアブルガリアから広まった「吸血鬼パニック」との同時代性に注意をうながす。はたしてこれは有意なのだろうか?

(2000)