スピーチの採点なんてできるのか?

 この国のスピーチコンテストの季節が近づいてきた。一大イベントが迫るこの時期、実際のところスピーチの採点なんて本当にできるのかということは真剣に考えられていい。

 

 トーストマスターズでは、こんな項目に分けて審査採点するらしい(100点満点):

・内容 50点/スピーチの展開(構成、展開、支持材料)20・効果(目的達成度、聴衆の興 味と受容度)15・スピーチの価値(アイデア、論理、独自の考え方)15

・話し方 30点/身体表現(見た目、ボディランゲー ジ、スピーキングエリア) 10・声 (柔軟性、大きさ)10・態度(率直さ、自信、熱心さ)10

・言葉遣い 20点/適切さ(スピーチの目的と聴衆に合わせた適切な言葉)10・正確さ(文法、発音、言葉の選択)10

 

 国際交流基金では(30点満点):

1.言語力部門

 (1)発音(5点) ①母音・子音の発音 ②アクセント・イントネーション ③話す速さ・間の取り方
 (2)文法・語彙(5点) ①正しい文法や語彙の使用 ②スピーチに相応しい表現や語彙 ③さまざまな表現が使えているか(意図的に同じ語彙を繰り返す場合は除く)
2.内容

 (1)聞き手への意識(5点) ①聞き手の興味を引く内容か ②構成・展開的に分かりやすいか ③聞き手の背景知識を考慮しているか
 (2)内容の深さ・説得力(5点) ①主張がはっきりしているか ②主張の根拠が明確かつ十分か ③大学生らしい視野の広さや思考の深さが感じられるか
3.運用力・表現部門

 (1)プレゼンテーション力(5点) ①態度(姿勢・視線・顔の表情・声の大きさなど)は適切か ②視覚および聴覚的にアピール力があるか

(2)質疑応答(5点) ①正しく適切な日本語を用いているか ②質問に対する回答として十分かつ相応しい内容か ③積極的に理解してもらおうとしているか ④日本的な常識から外れることなく、友好的かつ自然な対話を成立させることに貢献しているか

 

 それぞれよく考えられていると思うし、「審査基準」そのものとして見る限り間然とするところないとも思う(餅の絵としてなら)。だが、問題は運用である。外国での日本語スピーチコンテストの審査員は多く「当て職」だ。日本人会会長とか日本の機関の所長とかが、その職務の一環として依頼され勤めることが多い。初めて外国人の日本語スピーチを聴くなんて人もいるだろう。何より、素人である。

 素人が悪いと言っているのではない。逆だ。日本語教育の素人こそ審査員であるべきだ。外の空気の導入、社会経験や一般常識こそが審査員の必須条件である。日本語教育ズレした面々がずらりと並んでいるなら、それはおぞましい風景だ。問題は、そんな素人がこういう細分化された審査項目を当日示され、審査するということである。ひとつのスピーチを聞いて、次のスピーチが始まるまでのわずかの時間に、訓練されたプロフェッショナルなどでは全然ない人がそんなに多くの項目を審査できるのか?

 体操やフィギュアスケートなどの採点競技の審判は、毎年研修を受けて訓練される。採点こそしないけれど、サッカーなどの競技の審判も同様だ。そうまでしても本当に公正な判定かいつも喧々諤々となるというのに、生まれて初めてスピーチ審査なんてものをする人にこんな細分評価を期待するのは、(こういう言い方をするなら)「ごっこ遊び」なんじゃないか、という疑いがある。

 ある大会で、審査員が協議して採点の合計で出た順位を入れ換えた、なんてことがあった。それでは何のための採点か、と思うが、しかし、1.採点尊重、それによるべきという妥当性のある思想に対し、2.審査員というものがいるのだから、その話し合いで決めてよい、採点合計は参考資料にすぎない、という考え方もありうる。審査員によって点が甘かったり辛かったりするし、重視するポイントが特異である審査員もいる。中には満点連発などという審査員もいるので、大多数の人がAよりBのほうがよかったと思っていても、集計してみるとその逆だった、などということは実際に起こる。そういう採点の不都合を防ぎたい、正したいと思うのは正当なことではある。ただし、話し合いということになると、声の大きい人、地位の高い人の意見が通りやすく、公正であるかについて疑問なしとはしえない。

 

 さらに言うと、「内容」なるものの審査は必要か。それにも大いに疑問を持っている。剽窃や盗作が横行しているこの時代に。今はインターネットというものがあって、そこからいろいろなアイデアのみならず、文章までも取ってくることができるのだ。大多数の学生は自分で考えたスピーチをしていると思うが、少なからぬ優秀な作文に盗用が疑われることはままある。

 NHKの弁論大会でのトルコ人学生のスピーチと同じ内容を島根県の地方都市のスピーチコンテストで聞いた。調べると、彼女のスピーチはネット上で見ることができるのだ。それを見て書いたに違いない。また、シベリア極東大会で優勝したイルクーツクの学生のスピーチと酷似したものをバンガロールの学生がして、全インド大会で入賞していた。

 また、「うそ」もよく見られる。友だちの経験を自分の経験として話して、モスクワCIS大会で優勝したリシタンの学生もいた。スピーチでも作文でも、ある程度の脚色は当然あるだろう。いわゆる「盛る」というやつで、それを一概に排斥はしない。どこまでが許容範囲かの問題だが、私はこれはアウトだと思う。正直に友だちの経験として紹介していてもいいスピーチだったと思うが、入賞はしても優勝まではしなかっただろう。「騙し取った」感が強い。

 もはや今の時代、教師が作文し学生に言わせるなんてことはないだろうと思うけれど、絶無とは断言できず、可能性として排除できない。自分自身の経験でも、アルメニアでスピーチ作文が書けず困っている学生に、ある教師が自分が学生のとき書いた作文を与えたことがあった。モスクワ大会のエントリーが終わってからそのことがわかったが、そこまでことが進んでいてはどうしようもなく、練習の過程で書き直し書き足しを指示して3分の1はオリジナルになっていたから、そのまま出場させ、入賞した。うれしくはあったが、そこにはかげりもあった。

 インターネットにとどまらず、このAIの発達した時代、ChatGPTなんてものも出てきた中で、「内容」の「オリジナリティ」を問うのはかなり虚しい。

 

 だから、こういう案を持っている。

1.内容については審査しない。それは順位点(6人入賞なら、1位に6点、2位に5点、6位に1点というぐあいに配分)でカバーすることとする。順位点では、1位にはさらに1点2点のボーナス加算をする。

 発音・話し方・発表態度はある程度客観的に審査できるから、それは採点する。質疑応答も採点。ただし、質問の難易度にはどうしてもばらつきがあるから、そこに過度に配点はしない。

2.採点はしない。全然しない。順位点のみで集計し、順位をつける。これならスピーチコンテストが初めての審査員も自信を持って評価することができる。審査員の真面目は、入賞に漏れたスピーチの中から特別賞を選ぶことに発揮される。これは得点を超越した「審査員特別賞」であり、まさに合議の話し合いで選ぶべきものであるから。点数が少ないので同点が出る可能性が高いが、そのときは1位をつけた人の多いほうを上位とする。それも同じなら2位の数で決め、それもまた同じなら、審査員の多数決で上位を決める。

 結局のところ、その年の出場者中のいちばんよかったスピーチを決める相対審査なわけである。審査基準を厳密にして採点するのは絶対審査であり、それならば去年と今年のスピーチを数字で比べることができるはずだが、そうはいかない。審査基準や配点が年によって微妙に変わるということもあるが、何より審査員が毎年変わるのだから、比較などできない。つまり、絶対審査を用いた相対審査を毎年しているのである。相対審査でしかないのなら、1案にせよ2案にせよ、これで十分であろう。相対的順位決めであるなら順位点だけで足りるのであって、個人的には第2案を推す。順位点は審査員それぞれが出場者全員につけた点の総計はまった同じであり、細分審査のように全出場者につけた点の総計が多い人と少ない人で大きく違う(3桁も違うということもある)ということはない。公平性はむしろ高いはずだ。

 そういう方式を採用しているコンテストもあるだろう。それが主流になってほしい。「ごっこ遊び」はやめていい。