WM雑感/サッカー地理学とサッカー日本語学

日本リーグ時代の試合を見に行ったこともあるし、入学して最初の早慶戦は、野球でなくサッカーのほうを見に行ったくらいのファンではあるが、観戦歴のほとんどはJリーグ開幕以降だ。そりゃそうだよね、それまではサッカーなんてテレビで見られないんだもの。天皇杯決勝とトヨタカップ、ワールドカップの数試合ぐらいでしょ、Jリーグ紀元前は。観戦するだけのファンだから、サッカー語彙を学習したのも、テレビ中継を見ながらの話。その過程は、日本に生まれた赤ん坊が日本語を習得したような自然の経過で、とりたてて意識することもなかったのだけれど、今回ワールドカップを見ながら観戦漬けの日々を送っているうちに、ふと、もし自分が初級程度の日本語しか知らない外国人だとしてみたら、どうだろう。ラジオ中継を聞くサッカー初心者だとしたら、どうだろう。カタカナの専門用語はがんばって勉強しなければならないが、純日本語の部分はすんなり理解できるだろうか、と考えてみた。これを通じて、日本語学的・サッカー地理学的考察ができるんじゃなかろうか。
サッカー用語にはまず、ふつうの日本語の意味から簡単にわかるものがある。「倒す」(ファウルで)、「かわす」(ディフェンダーを)、「うつ」(シュートを)などは、特に深い日本語知識を要しない。「体を張る」(ボールを体に当てて防ぐ)ぐらいもわかるだろうが、「せる」(相手と、飛び上がって頭に当てようと)、「すらす」(クロスボールを頭に当てて後ろに送り、味方がシュートできるようにする)、「ふかす」(シュートを上に打ち上げてしまう)になると、言葉自体が初級語彙でない上に、プレーの局面と特殊に結びついているので、学習が必要だ。「まく」とか、「こねる」「はたく」「さわる」「さばく」「振る」「よせる」「消す」(ゲームから)なども同様、辞書的意味に独自の意味内容を付け加えて、それを聞くと、行なわれているプレーのイメージが得られる。それもそのはずで、まずプレーがあり、それを言い表す言葉が必要とされたという「発生の現場」があるのだ。「ケズる」(足をねらって故意にファウルする)なんかは、中継ではあまり出てこない、選手たちの使う隠語的「専門用語」で、辞書からちょっと離れてしまうが、その離れ方と付き方がおもしろい。このプレーもまた競技遂行上必要なもので(残念ながら)、したがってそれを表す語彙も求められていたところへ、誰かがそういう言い方を発明し、それが選手たちに受け入れられて、定着していったのだろう。ほかの諸表現では考案者はあるいはコーチかもしれないが、こっちのほうはきっと選手だろう。厳しい練習でプレーのみならず道具としての言葉の感覚も磨かれた選手たちの極めて実践的な会話の場を想像してみるのも楽しい。柳田国男によれば、命名技術は口承文芸の一分野だそうだ。ならば、「口承文芸」誕生の原風景であるだろう。
フィールド上の選手の動きに関して、「上がる」「下がる」とよく言う。類義語「のぼる」「くだる」が線的、線上の動きであるのに対し、これらは面のイメージだ。到達すべき「約束の地」(敵ゴール)へ向かうのが「上がる」、その反対の方向(自陣ゴール)へ行くのが「下がる」。フィールド上には強い方向性が支配していることがわかる。ファウルがあったとき、ボールがタッチラインから出たとき、審判が手で示すのはそのボールの「進むべき」方向である。それと逆の方向へボールを送るのは、「もどす」。いちばん上は、同時にいちばん底でもある。底のギリギリの線まで行って、「えぐる」。そのラインに沿ってボールを往復させるのが「折り返す」。外と中という対立軸もある。「開く」(外へ)と「絞る」(中へ)。タッチラインの近くが「外」であり、「入れる」「はいってくる」「割ってはいる」「切れ込む」などと言う、その「はいっていく」「切れ込んでいく」先が「中」。その「中」は、第一義的にはペナルティエリアという特権的空間のことである。さらにその中の究極の目的地、ゴールを「決める」のが最終的な目標だ。「押し込んだ」って、何だっていい、ゴールを「割り」さえすれば。サッカーの語彙は、そういうフィールド地理学に基づいている。
「落とす」というのは全くの初級語彙で、「浮き球」(高いボール)のクロスを頭や胸に当てて落下させる場合は辞書の意味の通りだが、この語は足元の転がるボールを処理するときにも使われるから、ちょっと面倒だ。「前を向く」というのは言葉そのままの意味だが、ことさらにそう言われるのは、相手ゴールに近づき、シュートが打てる範囲まで来た選手は、なかなかそうさせてもらえず、ゴールに背を向けてプレーしなければならないからだ。ゴール前の生半可でない磁場の強さがうかがえる。「落とす」というのは結局、シュートができない態勢の選手が、味方が前を向いた態勢でボールが受けられるように、ボールの勢いをゆるめて渡すこと、ということになる。物理的上下に加え、サッカー地理的「上下」も含んだ表現である。
線こそ引いてないものの、上下中外はフィールド上でほぼ一定だが、人の動きによって現われるサッカー地理的「地域」もある。「裏をとる」「裏をねらう」というときの「裏」だ。守備の最終ラインをなしているディフェンダーの列の背後、アタッカーはそこへ「飛び出す」。「抜ける」「通す」のは、そうはさせじと並んでいるディフェンダーの間。最終ラインのディフェンダーは壁のメタファーで、「入れてきた」高いボールをヘディングで「跳ね返す」。それに対し、攻撃側は「くさびを打ち込んで」攻めていく。
ディフェンダーが攻撃側の選手に密着して有効なプレーをさせないのを「つぶす」と言い、攻撃側から見ればそれは「つぶされる」なのだが、「つぶれる」という言い方もする。「つぶれてくれる」などとも言う。「つぶす」は他動詞、「つぶれる」は自動詞。クロスが入り、ゴール前でディフェンダーが相手フォワードを「つぶす」とき、そのディフェンダー自身も相手といっしょに倒れていて、もうプレーできず、後ろにスペースもできる。そこに攻撃側の選手がシュートをうつチャンスが出てくる。そのときあのフォワードは「つぶれた」という。つまり、ボールが裏に抜けて味方がシュートがうてた場合の攻撃側の選手の動きを「つぶれる」というのだ。味方のチャンスにならなければ、それは単純な「つぶす」「つぶされる」の関係だ。「意志的行動」(それは他動詞で表す)ではないけれど、自動詞の典型的な意味である「自然にそうなる」というのも違う、その中間で、「結果として恩恵を与える行動」を言い表す自動詞。日本語の面目躍如である。
ボールを保持しているのが攻撃側、そうでないのが守備側で、これは試合中目まぐるしく交代し、したがって上下方向も始終変わり、徹底的に相対的だ。それを典型的に示すのが、ボールから見て近い側のポストを言う「ニアポスト」と遠い側の「ファーポスト」。日本語で「近い/遠い」「手前/向こう」とも言うが、「ニア/ファー」のほうがサッカーファンにはわかりやすい。「タテ/ヨコ」というのは一見攻守代わっても同じなように思えるが、実は中継アナウンサーは目標ゴールへ向かう動きやパスしか「タテ」と呼んでいない。方向性と相対性のこれも一例だ。
サッカーでは、攻撃を「組み立て」、守備陣形を「くずす」。ボールはパスでもって「つなぐ」。時につながらずに「こぼれる」。こぼれ球を「ひろう」。ボールがタッチラインゴールラインを「割る」。つまり「出る」ということだが、「割る」と言うと、「土俵を割る」のように、出したくないのに出てしまうという感じが現われる。出すまいと追いかけていき、及ばなかった選手の姿が見えるようだ。
こう考えると、腕のいいアナウンサーが中継してくれたら、ラジオ放送でもけっこう「観戦」が楽しめそうだぞ、という気になった。いや、でもやっぱり見なくちゃ始まらないけどね。美しいプレーで目を洗うのが、サッカーの喜びなんだから。