ケーレシ・チョマ・シャーンドル

チベット学の開拓者ケーレシ・チョマ・シャーンドル(1784−1842)は、初めての蔵英辞典を作ったことで知られている。セーケイ地方のケーレシュ村に生まれ、ナジエニェド(アユド)の高等学校とゲッチンゲン大学で学んだ。ハンガリー人というのは、東方への憧れを持っている。自分たちが東からやっていたことが心に刻みこまれていて、「マジャールハンガリー)人の故郷」を探すロマンチックな旅を東洋へ向けて行なう人々を輩出する。ケーレシ・チョマもそのような一人であった。ラサへの旅の途上、ダージリンで病没した。その地の墓碑にはこう書かれている。


 アレクサンダー・チョマ・ケーレシ
 ハンガリーに生まる。/氏は言語学上の研究調査のため、/東洋に赴き、/幾星霜の艱難辛苦によく耐え、/学問に献身し、/氏の名を不朽に残す記念碑的著作/『チベット語辞典及び文法』を編纂す。
 さらに研究続行のため、/ラサに赴く途上、/一八四二年四月一一日、/この地に没す。/行年四四歳。
 氏の研究協力者、/ベンガル・アジア協会 建之。
 安らかに ねむれよかし。


彼の名と事績は故国の同胞の間でも記憶されていた。はるか遠くの知られざる国へ旅した、鳥の囀りのような不思議な言葉を深く解する男。セーケイ人の伝説は彼についてこう語る。


神さまはチョマ・シャーンドルに、どんな難しい言葉でも二十四時間でものにしてしまうすばらしい力をお与えになった。十二歳のときチョマは旅に出た。旅の途次、あるよい王さまの館に着いた。最初の日は、誰とも話ができなかった。王さまの館では誰もハンガリー語がわからなかったから。チョマはその夜召使にその国の言葉を習い、次の日には王さまとよどみなく話をし、王さまはたいへん喜んで、チョマに黄金の本を贈った。この黄金の本には世界中の言葉が書き上げてあるのだった。チョマにはこれより値打ちのある贈り物はなかった。安心して世界中を旅することができて、ただの二十四時間の間に言葉を習いおぼえることができるのだから。
千もの艱難辛苦を乗り越えたあと、チョマはエジプトにたどりついた。最初に目指したのはシナイ山だった。神さまがモーゼに話しかけた場所を見たいと思ったが、その山には登ることができなかった。神さまが人の足のそこへ踏み込むのを禁じていたから。窓から外を見ていたエジプトの王さまは、若い異国人の試みがうまくいかないのを見て取って、家来に言づてを持たせて遣わした。「無駄なことをするでない。モーゼよりのち、いかなる者もそこへは登れぬのだ。神が人の足の聖なる場所へ踏み込むのを禁じたもうたから。だが異国の旅人よ、王のもとへまいり、旅の疲れをいやすがよい」。チョマは家来のあとについて王さまのもとへ至り、王さまはチョマを黄金の卓子の前の黄金の椅子にすわらせた。卓子には黄金の皿にすばらしいご馳走が、黄金の杯にすばらしい飲み物が盛られていた。チョマは好きなだけ飲み食いし、その間にも賢い話しぶりで王さまの好意を得、王さまはドゥカーテン金貨四百枚の入った黄金の袋をチョマに与えた。チョマははじめはこの贈り物を辞退した。けれど王さまは言った。「この贈り物を拒むのは、わしの好意をも拒むのだ。異国人よ、わしの好意を受けぬ者は、わしの国では命が危ういと知れ」。そこでチョマは黄金のつまった袋を受け取ったが、必要がなかったので、それを国の両親縁者に送った。
ここからアジアへと進んでいった。最初のハンガリー人が生まれた土地を探すために。恐ろしい土地、犬や狼の頭をした者どもの国を運よく夜中に通り過ぎたあと、数え切れぬ毒のある蛇や蟇蛙や蜥蜴におおわれた這い回る生き物どもの国に至った。ここでは人は体全体をガラスの中に包みこんで旅せねばならない。チョマもガラスの中に身を包んで、毒のある虫どもにまとわられながら、この恐るべき国の果てまで、七週間の間旅をした。世界の果てで陸地は終わり、海が始まり、その上を先に進めば進むほど、闇はさらに深まった。四十の昼と四十の夜、この暗い海の上を旅した。生きながら天上へ登れるところへたどりつくために。チョマは行き、かなり進んだ。道はしかし恐ろしく、ひきかえさねばならなかった。海岸に降り立つと、灰色の霊に出会い、それはチョマを父親のように迎え入れ、こう言った。「哀れな旅人よ、ここをうろうろしてどこへ行くのだ、神が天と地をお創りなされてより、いかなる者も来たことのないところを。腹がへっているな、わかっておる。見よ、ここに魚がある。望むなら食べるがよい」。チョマは海岸に腰をおろし、魚を食べ、足を世界の果てにぶら下げて、虚無の中へ唾を吐いた。そして頭を灰色の霊の膝にのせて眠り込み、二度とふたたび目覚めなかった。そういう定めだったのだ。神さまは、世界の果てに至った者は、その生命の果てにも至るのだとお定めになったのだから。灰色の霊はチョマをきれいに埋めてやり、涙を流した。海の波は今日もなお彼のまわりで泣いている。


何と美しい伝説だろう。歴史を伝説に翻訳するとこうなる。ここに語られる民衆の心に映ったケーレシ・チョマ像は、憧れと畏怖と、驚異への親近とそれらをつつむ透き通った美の感覚で、彼がそうであったろう心情を濾過し、事実からはうんと離れつつ、何か真実に近いものへと昇華する。伝説は誰についても語られるものではない。伝説が語られるほどの人は、心ばえや行ないに常ならぬものがあり、それを語る人々の心を打ち、想像力の翼を開かせ、そしてふたつは互いに響き交わすのだ。
(2003/8)