タタールの民話(1)

バーリント・ガーボル

 司馬遼太郎言うところの「巨眼の学者」大林太良教授が監修し解説を書いたG・クライトナー「東洋紀行」(全3巻、小谷裕幸・森田明訳、平凡社東洋文庫]、1992−3)は、1877−80年という比較的早い時期に行なわれたハンガリー貴族セーチェーニ・ベーラ伯爵の東洋大旅行の記録である。こんなものまで翻訳する日本はすごい。敦煌まで行ったり、雲南からビルマへ抜けたり、北海道のアイヌ集落を訪ねたりしている。この一行に、トランシルヴァニア生まれの言語学者セントカトルナイ・バーリント・ガーボルが加わっており、名前が見える。残念ながら病気のため上海から中途帰国しているが。
 バーリントはこの国がときどき出す語学の天才の一人で、1844年にセーケイ地方の村に生まれた。高校卒業時にすでに12の言語を解し、その数は最終的に30にまで達した。1871年から3年間、ハンガリーのアカデミーによってロシア・モンゴルの調査に派遣され、タタール語・モンゴル語満州語を研究した。その結実のひとつが3巻の「カザン・タタール語研究」(ブダペスト、1975−77)である。その後ブダペスト大学の講師となり、1877年からは上述の東洋旅行に同行、途中で帰国し、日本へはやってきていないものの、インド滞在中にタミル語を習得し、タミル語ハンガリー語・日本語の類縁関係を指摘している。けれど当時ハンガリーの学界を二分したハンガリー語フィン・ウゴル語族かテュルク語派かの争いで敗れた側に属していたため(モンゴル語派であるとのさらに「過激な」見解を持っていた)、1879年大学を去り故国を離れ、オスマン・トルコ帝国領の各地をさまざまな仕事をしながら転々とした。しかしクルージュに大学が設立されると、1893年招かれてそのウラル・アルタイ言語学講座の講師になった。1895−96年にはジチ・イェネー男爵のコーカサス探査に同行する。コーカサス諸語を習得したのは言うまでもない。クルージュ大学では日本語をも講じた。19世紀末のことだから、大学レベルの日本語講義としては世界的に見てもかなり早い時期に属する。エスペラント運動の初期の共鳴者でもあった。1913年没。学問的には忘れ去られるべくして忘れ去られた人物だが、学問の周辺的には興味深い、さまよえる魂の一人である。


「熊 その1」(1)
 昔ある女が子供を連れて刈り入れに出かけた。刈り取りを始めたところへ、熊があらわれた。この熊は、足にトゲがささっていたんだ。熊はやってきて女に足を見せた。女は足からトゲをぬいてやった。熊はお礼に、蜜たっぷりの蜂の巣をやったんだとさ。


「熊 その2」(2)
 昔ある百姓が熊と仲良くなって、いっしょに森へ行ったとさ。森の中で、百姓は眠くなっちまった。寝こんでしまうと、熊が見張りをした。そこへ蝿が熊めがけて飛んできたんで、熊は手でもって追い払った。でも払われても逃げないもんだから、熊は岩を持ち上げて、投げつけたら百姓に当たった。百姓はその場で潰されて死んじまったとさ。


バーリント・ガーボル「カザン・タタール言語資料集」(1875)より