タタール伝説

韃靼、ないしタタールという言葉には、聞く者のイメージを強く刺激する異様な力がある。美しくは、たとえば司馬遼太郎の、「私は、こどものころから、「韃靼」ということばがすきであった。・・・銀色にかがやきつつ、夏の白雲のように大きくふくらんでゆくイメージがあり、人はみな異風で、ときに怪奇にさえ見えたが、うごきは敏捷で、鳥の影のように片時もとどまらない。しかもかれらはいさぎよかった」(「韃靼疾風録」あとがき)という述懐。ネガティヴには、たとえばヨーロッパでタタールを言う「タルタル」の呼称、それは「地獄(タルタロス)」から来た者どもの意味である。
タタールというのは元来、モンゴル族の近隣にいた、モンゴル系かあるいはテュルク系の部族のことだったが、転じてチンギス・カンに率いられ、13世紀ユーラシアを席巻したモンゴル人をも意味し、さらに西ではキプチャク汗国とその後継国家のテュルク系の民を、また東では中国東北部沿海州ツングース系の民族を指すようにもなった。「てふてふが一匹渡つて行つた」韃靼海峡(タタール海峡)がそう名づけられた由縁でもある。そしてモンゴル高原を中心に、ヴォルガから韃靼海峡までの広大な地域が「韃靼国(タルタリア)」と考えられた。
タタールの地名を見ると、韃靼海峡が東の端、西限に近いところには、トランシルヴァニアにタタレシュティという村がある。印欧語族侵入以前、紀元前5000年頃の、いわゆる古ヨーロッパ文明の遺跡のある土地で、「世界最古の文字」が掘り出された場所として知られる。ここもそうかは詳らかにしないが、トランシルヴァニアハンガリーにいくつかあるタタールファルヴァ(タタールの村)は、襲来してきたタタール人の一部が残り、そこに住みついたことから名づけられたとされている。
タタールの襲来は各地にさまざまな伝説を残した。一例をあげると、ロシアのヴォルガ中流地方、スヴェルトヤール湖のあるところには、昔キーテジという町があった。信心深い公が治め、多くの教会が立っていた。そこへバトゥー率いるタタール軍が押し寄せたとき、神は悪逆無道なタタール人の手にゆだねるにしのびず、町を水の底へ沈めてしまわれた。その町にはまだ人々が生きていて、時おり水底から鐘の音が聞こえてくる。それを信じて、夏至の頃には巡礼がたくさんやってきたものだ、云々。一方同じ湖について、トゥールカという怪物が残した足跡に水がたまったとする言い伝えもある。
東欧は交わる空間だ。「ウィーンの東」はヨーロッパの西端にして草原ユーラシアの東端であり、どちらの側からも要求をされる。フン族アヴァール族ブルガリアを建てたブルガール族、マジャールハンガリー)族など、さまざまな遊牧民が東方より押し寄せて、この地に本拠を置き、あるものは歴史から消え去り、あるものは根をおろして住みついた。タタール(モンゴル)人もこの地域を荒らしまわり、ここより西には進まなかった。オスマン・トルコは西南から攻め寄せ、やはりウィーンの手前で止まった。東欧はそのような場所であり、数々の伝説や地名が、東欧と「タタール」の濃密な関係を証言している。
トランシルヴァニアを襲った「タタール」の記憶には、13世紀のモンゴル軍と、17・18世紀に繰り返し襲来したクリミア汗国のタタール軍のそれが重層している。伝説に現われるタタール人はしばしば、人の体に犬の頭をしていると考えられた。ハンガリー大平原の村が襲われたとき、村人は葦の茂みに身を隠した。しかしハンガリー語を覚えたタタール人が、「シャーリや、マーリや、出ておいで、犬の頭をしたタタール人どもは行ってしまったよ」と大声で触れまわり、それを聞いてのこのこ出てきた村人を捕まえて、殺したり連れ去ったりしてしまったと。
彼らに襲われたドイツ人村では、男は臍を切り取って木に結び、内臓が出てくるまで追い立てられ、女は乳房を切り取られた等々、誇張を割り引けば現実味なしとせぬ残虐が語られる。一方で、彼らに連れていかれた者は、身代金を払ってもらって放免され、土地では知られていない縫い方を囚われの間におぼえて村に伝えたとも言う。
山深いアルマーシュの洞窟にはいろいろな伝説がまつわっている。笛吹き男に連れ去られ、洞窟に入っていったハーメルンの子供たちが、ここからまた地上に現われたというのもそのひとつだし、そこには宝が隠されていて、ただ聖霊降臨祭の後の二番目の日曜日に、二時間だけそこへ通じる鉄の扉が開くのだとも言われる。そこには妖精が住んでおり、コレラを引き起こす。裸で寒いのだろうからとて、村の女たちはシャツとズボンを作って供えるという習わしもある。タタールの襲来についても話があり、村人たちはこの洞窟に逃げ込んだ。そのころは入り口は壁で塞がれていた。それを囲むタタール人も餓えていたが、洞窟の村人の食料も尽きかかっていた。そんなときある女が一計を案じ、灰とわずかな小麦粉で菓子を焼き、それを棒に刺して外へ見せびらかし、「犬の頭のタルタル人、草や木の皮を噛ってら、うちらはこんなにいい暮らしだよ」と嘲った。タタール人は包囲をあきらめて去った、というものだ。
これはルーマニアモルドヴァ地方の話だが、額に目が一つあるだけの恐ろしい姿をしたタタール人がこの地方へ押し寄せて、キリスト教徒をクリミアへひっさらって行った。奴らはそのうちのある女を食ってしまうことにして、狭い場所に閉じこめ、パンと木の実を与えて太らせた。十分脂がのったころ、母親の老婆に料理をまかせ、また掠奪へと出ていった。老婆は竃に火を入れ、女に竃入れの十能にしゃがんで載れと命じたが、女はどうやればいいのか見せてちょうだいと言い、老婆がやってみせたところ、それを竃の中に押し込んで蓋をして逃げた、という「ヘンゼルとグレーテル」風の人食いタタール譚が伝わる。同じ話がバナート地方ではトルコ人のこととして語られる。


一つ目もそうだが、犬の頭の怪物もずいぶんと人気があって、古代中世以来さまざまに語られてきた。それらはふつうはるか遠くに、世界の果てに、世界の知られた部分と知られざる部分の間にいる。想像力は遠方に憧れる。距離はそれを増幅する。マルコ・ポーロによれば、アンダマン島民が犬頭人だ。だが彼はそれを見たわけではない。驚異は旅をする。既知の場所から離れてゆく。逃げ水のように。犬面呼ばわりをされるタタール人、けれどタタール人のもとへ赴いたプラノ・カルピニは、彼らよりずっと北、サモエード人のさらに先の大洋の岸に住む人々が犬頭だと報告する。
ヨーロッパ人にとって東方は驚異に満ちている。タタールの地には「タタールの小羊」、ないし「スキタイの小羊」という不思議な植物が生えている。オデリゴの「東方紀行」によると、「カディリと呼ばれる大王国には、カスピ山脈と呼ばれる山々があり、この地には、非常に巨大なメロンが生ずるそうだ。メロンは熟すると二つに割れて、そのなかに一頭の仔羊ほどの大きさの小動物が見られるという。だから、このメロンは果実と、果実のなかの肉とを持っていることになる」(澁澤龍彦「幻想博物誌」)。中国の文献では、それは西方にある。「「旧唐書」に、払菻国(シリア)に羊羔ありて土中に生ず、その国人、その萌芽を伺い、垣を環らして外獣に食われぬ防ぎとす。しかるにその臍地に連なり、これを割けば死す。ただ人馬を走らせこれを駭かせば、羊驚き鳴いて臍地と絶ちて、水草を追い一、二百疋の群をなす、と出づ」(南方熊楠「十二支考」)。この伝説は、糸様の物を吐き出し、それから織物の作られるピンナという貝の話の伝播から起こったらしいが、われわれの関心は起源考とは異なる。奇怪なのはタルタリアばかりでない。この国もそうだ。西アジアの伝説にワクワク樹というものがあり、たとえばある中世の地理書によると、「シナ海に浮かぶワクワク島にはえているという。葉は無花果のそれに似ている。三月初旬には、結実が始まり、乙女の足が現われるところが見られる。胴体は四月、頭は五月に現われる。娘たちは素晴らしく、かわいらしい。六月初旬には地面に落ち始め、中旬には全部なくなる。落ちながらそれは「ワクワク」と叫ぶ」(バルトルシャイティス「幻想の中世」)。このワクワクの島は「倭国」の訛りだという。あれあれ、何の断りもなく妙なものを生やされた。中国では、この人の成る木が逆に大食国(アラビア)にあるものとされている。不思議は呼び交わす。「タタール」の国は隔たりの交錯するところにある。


井筒俊彦もまた韃靼に惹かれる一人である。司馬遼太郎との対談(「九つの問答」所収)で、彼の「韃靼疾風録」をめぐって、「あの題を拝見しただけで、感激してしまいました。「韃靼」という言葉が、なんともいえない興奮を呼ぶんです」と洩らしている。彼は来日したタタール人の学者にアラビア語を教わったという。樺太から海を渡り、大陸東辺を探査した間宮林蔵の「東韃地方紀行」。ロシア革命後、満州を経て日本に亡命してきたヴォルガやシベリア地方のタタール人と、彼らによって建てられた東京モスク。東大寺二月堂はお水取りの「達陀(だったん)の行法」。ジプシー。流浪する彼らは、先々でいろいろな呼ばれ方をした。英ジプシー、西ヒターノ(「エジプト人」)、仏ボエーム(「ボヘミア人」)、そしてドイツの一部やスウェーデンでは「タタール人」の異名で呼ばれる。「タタールのある風景」はこのように広がる。タタールは異風、タタールは広漠、タタールは遥かな旅だ。司馬遼太郎ならずとも、魅されずにはいられない。
(2001/9)