トランシルヴァニアの虹と銀河

大林太良教授の「銀河の道 虹の架け橋」はたいへん面白い。索引まで入れれば800ページを超すこの大部の書の中で、天に描かれる忘れがたく美しい二つの表象、虹と銀河をめぐる人々の観念を、世界五大陸三大洋の隅々まで、調べがつくかぎり多くの民族の伝承の中に探っている。東大名誉教授の民族学者の書いたものだから、「至高神信仰と虹蛇表象」「ニジェル=コルドファン語族の移動」等々、専門的な議論はあるわけで、学者たちはそれについて論証論駁があるのだろうけれど、そんな専門性の裏にある、壮大な無駄と紙一重かもしれない旺盛な好奇心の働きを忘れてはならない。これら学術用語もまた一種の詩語である。これは言ってみれば、「虹と銀河」周遊切符をもった民族学的時空の旅なのである。いや、旅というメタファーよりも、銀河のほとり、虹の上から人間の営みを眺めおろした俯瞰といったほうがよかろうか。


われわれもトランシルヴァニアとその周辺を、虹と銀河の上から眺めてみようと思う。そこにはどのような風景が見えるのだろうか。
この地のドイツ人(ザクセン人)の考えはこうだ。
「何千年も昔のこと、世界中が炎に包まれたことがあった。燃えるものが尽きるまで大火は続いた。そして主なる神が現われて、燠火を溝に掻き集めた。燠火はしだいしだいに消えていき、その上にはただ、今も目にしているような白い輝きが残るのみとなった。そこからなおあちこちにいくつか燃える石炭がきらめき、なおいくつかは天に撒き散らされているのである。ときどき隠れた燠火から火花(流れ星)が飛び出てくる。人々はそのように語っているが、我らの主なる神のみが、それがどうであったかご存知だ」(SS:2)。
こういう伝承は珍しいようだ。ザクセン人はその他に、「天の帯」、また「神の帯」とも言っているし(SS:2)、「穀粉の道」という名もあるらしい(大林:204)。
だがヨーロッパでは一般に、「乳の道」という言い方が多く、英語・ドイツ語・フランス語みなそうだ。ルーマニア人もハンガリー人も「乳の道」と考える。ルーマニアでは、悪魔に唆された男が、名親の乳を盗んで逃げたが、それを見ていた神が天使をつかわし、皮袋に穴をあけた。乳はこぼれて跡を残し、誰のしわざかわかってしまった。戒めとなるように、こぼれた乳は乾かず今も目に見える、という話がある(RS:21ff.)。ハンガリーでは、乞食や幼子イエスがこぼした乳だという話の他に、作男(大熊座)が粉を盗み、別の星と喧嘩になり、粉がこぼれて道が白くなった(ナジサロンタ。MNL5:230)というものもある。
ルーマニアではしかし、銀河を盗まれた藁だともしている。
「夜の天空の星々の間を霧の帯のように行く銀河は、ばらまかれた藁である。ある夜、母ウェヌスが聖ペテロの中庭の藁山から藁を盗み、急いで家に帰るときその多くを撒き散らしてしまったのだ」(バナト地方。RS:21)。
ハンガリーで「藁の道」「藁盗人の道」「ジプシーの道」「聖ペテロの道」などというのもこれであり、藁をばらまいた者はジプシー、あるいは大熊座とされることが多い。例外的に、たとえば怠け者のモカーニ(トランシルヴァニア西部山地に住むルーマニア人)がブラショフから藁を荷馬車で運んでいるとき、星にぶつかってこぼしたとか、眠り込んでしまい、その間に連れてきた小馬に荷台の藁を食べ散らかされたその跡だという話もある(レーリンツケヴェ。Mandoki:126)。 ジプシーが藁を盗み、それをこぼしていったというのが普通だが、「ジプシーが東方からトランシルヴァニアへ進んでいた。彼らの道は空を通っていた。藁布団からずっと藁がこぼれ落ちており、その跡が残っている。それが星々と乳の道だ」とも語られる(ニールバートル。Mandoki:127)。この名の起こりは、彦星(アルタイル)のことを「ツィガーニ( ジプシー)」と呼ぶ地方があるから、それに由来するのではないか。なお「ジプシーの道」の名はルーマニア人の間にもある(Mandoki:132)。
あるいは次のような聖ペテロが主人公の話。
「聖ペテロの荷馬車(大熊座)の長柄は曲っている。というのは、聖ペテロが藁を運んでいたとき、狼が雄牛の前に躍り出た。牛は驚いて長柄を急に左に引っ張った。車はひっくり返ったが、雄牛はかまわずどんどん走ったので、藁は道にばらまかれた。この長い灰色の道が銀河である」(ハンガリー、バラニャ県。Domotor:223)。
「藁の道」の伝承はバルカン各地にあり、セルビアでも(Schneeweis:32)ブルガリアで も(Vakarekski:213)、銀河を「名親の藁」と言っている。名付け親から盗んだ藁の散らばったものというわけだ。ルーマニアの「乳の道」話でも名親からの盗みのモチーフであった。「藁の道」「藁泥棒」の話はバルカンだけでなく、ヒンドゥースタン、中央アジアコーカサス地方から西アジア一帯、北アフリカはモロッコエチオピアまで広がっている(Mandoki:131-5)(註1)。そしてどうやらハンガリーがその分布の北限をなしているらしい。
そのほか、ルーマニアでは聖エリアの道、雷を投げる聖エリアが天に火の車を走らせる道だとも言っている(RS:20)。流れ星はその車から出る火花だとも。ロシアで聖エリアが虹を立てるとする伝承が思い合わされる(Haase:65)。
「奴隷の道」「捕虜の道」という言い方もある。あるルーマニアの伝説によると、窮状を訴えにトルコへ行ったモルドヴァの人々はそこで捕われ奴隷になった。彼らは逃亡し、昼は身を隠して夜道なき道を銀河の方向へ歩き、一年後故郷に帰り着いた。以来銀河を「奴隷の道」という(RS:149)。ハンガリーにもその名前がある(MNL5:231)。またセルビアには同様に逃げ出した奴隷たちがその上を通って故郷へ帰ったとして、虹を「奴隷の道」と呼ぶ地方がある(ネゴティン周辺。Schneeweis:32)。
ハンガリーには銀河の名称がたくさんある。いわく「街道」(「国道」)(ボヘミアチェコ人のところの「ローマへの道」参照。Grohmann:32)、キリストが生まれたとき天 使たちが通ったという「天使の道」、「酔っ払いの道」(大林:194参照)、「妖精の道」「美女の道」「霊魂の道」、ハリネズミが天に針で穴をあけたという話(MNL5:230f.)、また「白い溝」「白い筋」「夜の虹」等々(HDA6:368)。「霊魂の道」は、銀河の上または虹の上を通って善き人々の魂が天国に行くというロシアの伝えを想起させる(Haase:65,333)。その一方で注意すべきなのは、「鳥の道」という名前がないことだ。
「軍勢の道」とも呼ばれる。この天空の道をフン族の王アッティラの軍勢、カルパチアを越えて来たマジヤール族の父祖たち、異教徒との戦いに赴く聖ラースロー王、ソロモン王の軍隊、天使の軍団等が通ったとされているが(MNL5:230f.)、最も有名なのは、トランシルヴァニアの東部に住むマジャール族(ハンガリー人)の支族、セーケイ族の起源伝説で語られるものである。
アッティラの息子チャバは、最後の血なまぐさい戦闘のあとで、彼の軍の他の者と一緒に、東洋に退却した。そこに残っていた同種族の同族とともに、いつかはまた帰ってくるつもりだった。だからジーベンビュルゲンの境界に彼の軍隊の小部分、つまりセーケイ族を見張りにおいた。チャバの軍がまたやってきたとき、支援に使うためであった。さて彼らが互いに分かれる前に、彼らは聖なる誓いをたてた。危険に際しては、たとえ世界の他の端から急いで駆けつけなくてはならなくても、互いに助け合おう、というのである。
軍隊がアルプスの麓まで着くや否や、周囲の諸民族が居残ったセーケイ族に対して反乱を起こした。しかし木々の梢は動き、ざわめいて、危険の知らせを仲間に伝え、軍隊の一部は直ちにもどって来て敵を亡ぼした。一年後、セーケイ族は新たに攻撃を受けたが、このときは小川が叫びながら川に行き、川は海に走っていき、海が軍に知らせを伝えた。軍隊は急いでもどってきて、敵をやっつけた。三年たつと、また隣族がセーケイ族に対して反乱を起こした。もう仲間は遠くに行ってしまっていたので、風も届きかねていたが、海の嵐と一緒になって、やっと遠く遠くの東方の彼らのところに達した。彼らは急いでもどって来て、三度目に仲間をまた解放し、仲間を新しい故郷に定住させた。今やセーケイ族は安らかになった。
こうして多くの年月が流れた。植えた木の実は太い木になり、びっしりと葉が繁り、子供たちは老人になり、孫たちが武器を担う男になった。かつての見張り駐屯地から小さな民族が一つ出来た。するとまた周囲の諸民族はこの外来の侵入者をねたみ、そしてセーケイ族には以前は遠くから援軍が来たことをとっくに忘れていたので、再び彼らを攻撃した。セーケイ族は勇敢に闘ったが、優勢な敵には敗けざるを得ず、援軍来らず、かつての仲間はとっくに死んでしまっており、伝令も彼らに達しなかった。
ただセーケイ族の星だけがまだ見張っていて、この知らせを別の世界に伝えた。そのとき下界ではすでに最後の戦闘が進行中で、セーケイ族は完敗せんとしていた。聞け! そのとき突如として馬蹄の音と武器の響きが聞こえ、堂々たる軍勢が無言のうちに夜のしじまのうちに、輝く星の道に沿って天降った。三度その実を示した、あの勝利と忠実の仲間が、今や四度目に精霊として助けにやって来たのであった。どんな人間の力も精霊には対抗できず、セーケイ族はまた救われた。
こうして誓いは守られ、援軍は来たときと同様に、また黙々として星の道を辿って昇天して行った。これ以来、セーケイ族は彼らの故郷に確固たる地歩を占め、夜天を見上げると、精霊たちが助けに来てくれたとき残したあのきらめく道を見、これを軍隊の道と名づけた」(大林:205f. ハンガリー語に従い、「セクラー族」を「セーケイ族」に、「ツァバ」を「チャバ」に改めた。SS:276f.参照)。
ふるえる星辰のように美しい伝説だ。
ハンガリーは東と西のはざまにある、と言われる。かつてのフン族アヴァール族と同じく、マジャール族も東方からカルパチア山脈を越えてヨーロッパに侵入した遊牧民であった。その言語はフィン・ウゴル系で、まわりのゲルマン、スラヴ、ロマンス系統の印欧語族の中に孤島のように存在している。ハンガリーの知識人には、ヨーロッパに属したいという強い願望と、東方への根深い憧れが共存し、せめぎあっている。ただし彼らが「東」という場合、隣のスラヴ人たちの住地は目に入らず、スラヴを越えてウラルあたり、シャーマニズムの土地へ一気にとんでしまう。それを念頭に置きながら、銀河伝承の地図を作って眺めると、いささか感じるところが出てこよう。地理の決定的な重要性である。彼らに言語的には近いはずのフィン・ウゴル語の諸民族の間には「鳥の道」「雁の道」などという名前が広がっており(フィン、エストニア、ラップ、ヴォルガ・フィン諸族、オスチャク、ヴォグル、またヴォルガ・タタール、チュヴァシ、トルクメンキルギスなどのテュルク語系諸族、カシューブ、リトアニアなどのバルト海地域にも。ハルヴァ:184、大林:201)、そしてハンガリー人の間にはない。ウゴル語系で言語は最も親縁なオスチャク、 ヴォグル人のところにはそのほかに天の狩人のスキーの跡だとする話もあって、こちらのほうはエヴェンキ(ツクグース)、ナナイ、サハリンのウィルタ人のもとまで続く(ハルヴァ:185f.、大林:111-7)。このような北方ユーラシアの伝承からハンガリーは完全に切 れて、ヨーロッパないし中近東に連なる。地理の優越、あるいは生態学の優越。原郷の地の近くに住む親縁民族とは大いに異なり、彼らが良く思っているわけではない隣人たちと観念を共有しているのだ。「乳の道」がそうだし、ことに「藁盗人の道」は、彼らのあれほど嫌がるバルカンと共通の財産なのである。「軍勢の道」をとれば、その名はドイツにもあって、西方と通有しているのだが、見ての通りその伝説の中には東への強い思いが表明されているのである。


銀河と虹の間には共通点と相違点がある。夜空または昼の空にかかる、道のような帯のような、川のような蛇のような、ひとつの驚異。しかし夜と昼の違いばかりでなく、銀河は雲がなければいつでも見えるのに対して、虹のほうは雨上りに陽がさすという条件のもとで一時的に現われ、すぐに消えてしまう。出現の時期も時間も場所も不定で、銀河の白に対し、彩りも鮮やか、空といっても天空ではなく、天と地の間に浮かぶ。それでありながら、先に見たように、銀河と虹の名や伝説のいくつかはときに通用可能であるらしい。太陽でもなく月でもなく、雨でもなく雲でもなく、われわれの生存に重大な影響を及ぼす何物でもなく、それでいてひとたびそれを目にするならば、深い印象を刻み込む表象。世界の彩り、世界の豊かさの確かな一部としての虹と銀河には、根本的なところで共通する部分があることはまちがいない。
だがこれも相違点のひとつであろうか、銀河と虹を指す名称には性格の違いがあるようだ。日本とヨーロッパの例だけで言うのだけども、銀河を意味する言葉は、「天の川」にせよ「乳の道」にせよ、それがそのまま彼らが銀河をどう見ているかを表す、つまり名称が説明を直接に喚起している。虹の場合は少し違う。日本語の「ニジ」は、語源的には蛇の一種らしき霊物の名だったようだが(柳田:299)、それは言語学的な検討を経なければわからない。ルーマニア語の虹 curcubeu の語源は、arc(弧)・bea(飲む)などいろいろな説が提示されているが、判然とはしていない。ヨーロッパの言語では虹はふつう「雨の弓」「天の弓」などと呼ばれ、銀河と同じような命名法に見えるけれども、弓と直接結びつく話がそれについて語られることは少ない。記号として実体との乖離が一段ないし二段進んでいるわけだ。
 このほか虹の名前については、ボヘミアチェコ人は、虹をただ「duha(虹:弧、弓の意)」と呼んではならず、必ず「bozi duha(神の弧[=虹])」と呼ばねばならないと いう(Grohmann:40)。ロシア語の虹 raduga が「喜びの弓形」であるのにも通う感じ方で あろうか。ドイツで虹を意味する一般的な語「雨の弓」 Regenbogen は、そう言うと雨を招く、ないし聖母に嫌われるとして、虹の方言的な異名「天の輪」Himmelsring のほうを好む地方がある(HDA7:588)。虹の異名としては他に「太陽の弓」(ドイツ)、「神の帯」「聖母の帯」(クロアチア。Schneeweis:32)などがある。


トランシルヴァニアの東部カルパチア山中ジメシ地方に住むハンガリー人の一派のチャーンゴーは、虹を見ると、「善き神は人間を水で滅ぼされず、虹をばその印となされた」と言う(Salomon:209)そうだが、これはもちろん聖書のノアの方舟の故事、大洪水の後に現 われた虹にちなんでおり、キリスト教の公式の教条に由来する。
虹は雨の上がったあと、天から川や池などの水のあるところへ下りて、そこから水を吸い上げ、天にまた雨になる水を補給すると考えられた。そのことを端的に表しているがハンガリー語で虹を意味する szivarvany で、虹のほかに海綿(スポンジ状のもの)、ポンプ、吸水管などの意味もある。天の山羊や雄牛が虹から降りてきて水を飲むという話もある。ボスニアでは、虹は嵐を起こす竜が水を飲んでいるのだと考えた(Schneeweis:32)。 トランシルヴァニアザクセン人も、水を飲む虹について語っている。
「かつて山の斜面で羊の大きな群れに草をはませていた羊飼いの子供が、いたずらっぽい好奇心にかられて、虹が水を吸うさまを近くから見てみたいと思い、群れを谷間の川のそばへ追いおろした。すると子供は群れとともに吸い上げられてしまい、それから永遠に天上で羊を飼っている。よく晴れた春や夏の日には、ときどきその子供と羊たちを見ることができる。そのとき親たちは子供にそれを示して、その男の子の悲しい話を語ってやる」(SS:224)。
虹は橋ないし道であり、その上を通って天から地に、地から天に行くことができる。トランシルヴァニアの話では、ある掟を破り罰を受けたルーマニア人の羊飼いについて語られる。
「ある日曜日、羊飼いは群れを連れてまたしても川のほとりの禁じられた牧草地へ行った。ちょうど天から川まで虹が掛かっていた。好奇心の旺盛な羊たちは、水飲みに行くように虹の上を駆け登り、急いであとを追ってきた羊飼いの口笛も呼び声も空しく、引き返してこなかった。虹が消えると、羊飼いは群れともども、地上から切り離され、地上で犯した掟破りの罰として、犬とともに羊の群れを空の上で飼わねばならない。われわれ近視の地上の人間たちには、その羊たちが雲のように見えるのだ。羊飼いの女房もそののち虹を登って彼のもとに来た。地上にはただ、羊たちに川で水を飲ませるために虹の上を降ろすときだけ来られる。天には水は十分あるけれど、そんな高いところにとどめておけず、雫を落とさねばならないのだ。羊飼いの住居には月が、羊たちには星が当てられた。満月になると、月の暗い影の中に、そのルーマニア人が棒の上に掛けて乾かしている足に巻く布と大鎌の柄が見える。羊飼いの女房は罰としてバターをたくさん作らねばならない。一度それを売りに行くときに、太陽のそばを通った。太陽を覗いたために、女はすべって転び、バターをこぼしてしまった。そのバターのために天はあんなに滑らかになり、夕方太陽がここに来ると、すべって沈んで行くのである」(SS:3f.)。
虹の立つところには宝が埋まっている。しかし同じ村で、虹が上を通っている家には不幸が訪れるとも言っている。ある伝えでは、宝のある場所は三つの日曜日に続けて虹の立ったところとしている。虹の上に鉄や鉛などを投げると金になるともいう(ボヘミア。Grohmann:40f.)。すべて虹のように当てにならず、幻みたく、かつ不運と隣り合わせだ。
また虹の下をくぐると、男の子は女の子に、女の子は男の子になってしまうという奇妙な性転換の伝承がバルカンの各地にある。それに類した伝えはルーマニア人や(大林:545)、バルカン半島南部の山中に住むルーマニア語に近い言葉を話すアロムン人の間にもあるし(Papahagi:337)、ハンガリーでも(MNL5:55)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(Schneeweis: 32)、ブルガリアでも(Vakarelski:215)聞くところだ。
虹を指さしてはいけない。ルーマニア人も(Gerard:132)ハンガリー人も(MNL5:54)、ま たボヘミアでも(Grohmann:41)そう言っている。
虹の色などを見て、占うことができる。トランシルヴァニアルーマニア人やザクセン人は十二月の虹を不吉だとしている(Gerard:132; SS:95)。これはビザンツの虹占の書に 由来するらしい(HDA7:596)。


このように、天空へと向かう人間の思いの一端、天との交感の相を、虹と銀河をめぐる伝承はのぞかせてくれる。世界のあらゆる部分と同じく、ここトランシルヴァニアでも。


(註1)サルディニア島にも「藁の道」という言い方がある(Mandoki:132)。また、古くは七世紀のアルメニアの宇宙誌に、寒い冬、アルメニア人の祖先ヴァグンが、アッシリア人の祖先ヴァルサマから藁を盗んだので、銀河を「藁盗人の跡」と呼ぶのだとあるそうだ(Mandoki:138)。


参考文献:
大林太良「銀河の道 虹の架け橋」 小学館 1999.
ハルヴァ、ウノ「シャマニズム」 田中克彦三省堂 1989.
柳田国男「西は何方」 「定本柳田国男集」19所収 筑摩書房 1969.
DÖMÖTÖR, Tekla. Volksglaube und Aberglaube der Ungarn. Budapest. 1981.
GERERD, E. Transylvanian Superstitions. In: Nineteenth Century, 18. 1885 July.
GROHMANN, Joseph Vergil. Aberglaube und Gebräuche aus Böhmen und Mähren. Vol. 1.
Prag/Leipzig. 1864.
HAASE, Felix. Volksglaube und Brauchtum der Ostslaven. Breslau. 1939.
Handwörterbuch des deutschen Aberglaubens (HDA). Vol. 6. 1935. /Vol. 7. 1936.
Repr.: Berlin/New York. 1987.
KARLINGER, Felix /Emanuel TURCZYNSKI. Rumänische Sagen und Sagen aus Rumänien (RS).
Berlin. 1982.
Magyar Néprajzi Lexikon (MNL). Vol. 5. Budapest. 1982.
MÁNDOKI, László. Straw Path. In: Acta Ethnographica. 1965.
MÜLLER, Friedrich /Misch OREND. Siebenbürgische Sagen (SS). Göttingen. 1972.
PAPAHAGI, Tache. Dictionarul Dialectului Aromîn. Bucuresti. 1963.
SALAMON, Anikó. Gyimesi csángó mondák, ráolvasások, imák. Budapest. 1987.
SCHNEEWEIS, Edmund. Serbokroatische Volkskunde. Vol. 1. Berlin. 1961.
VAKARELSKI, Christo. Bulgarische Volkskunde. Berlin. 1969.

(2000.2.)