デジャ・ヴュ

アルメニアに来る人は、きっとドルマ(葡萄の葉で巻いた一口大のロールキャベツ)をすすめられる。土地の名物料理だというのだが、これはルーマニアで馴染みの料理で、あそこでも自分とこの名物だと言っていた。羊肉のつくねみたいなものもそう。アルメニアコーヒーというのはつまりトルココーヒーのことで、ルーマニアにいたときもよく飲んだ。
これに限らず、バルカンに暮らしたことのある人は、アルメニアで「既視感」におそわれることが多い。それはこの両地域が3つの文明のはざまにあるからである。その3つは、バルカンの場合はオスマン帝国・ロシア・西欧、コーカサスではオスマン帝国・ロシア・イラン。もっと大まかに言えばキリスト教イスラム接触線上ということであるが、同じくキリスト教国であっても西欧とロシアが異なるように、スンニ派トルコとシーア派イランも異なる。やはり3つである。
ロシアの影響は19世紀以降に限られ、基層部分ではトルコの影響が強いのだが、それは住民によって徹底的に否認されるという点もこれらの地域に共通している。トルコの「軛」からみずからを解放することが、彼らの民族的アイデンティティであるからだ。でも、トルコを知っている観察者から見れば、あらゆるところに「トルコ」がのぞいている。
似たような苦難の歴史をもつ両地域であるけれど、むろん違いはある。3つの主要プレイヤーのうち、オスマン・トルコとロシアは共通している。もうひとつが西欧であるかイランであるかで異なるのだが、この違いはやはり大きい。ロシアはひとつの国、西欧はいくつもの実力拮抗した国々で、たがいに牽制しあう。近代はキリスト教ヨーロッパが攻勢をかけていて、イスラムのふたつの帝国は受身である。コーカサスでは三帝国が国境を接しており、どれかが進出すればどれかが後退するという関係だ。バルカンでは、西欧列強の存在のためロシアが意のままに南下できず、かつ、ヨーロッパ諸国のうちトルコと国境を接するのはハプスブルク帝国のみで、主要プレイヤーの英仏はトルコから離れているため、緩衝国家が次々に現われるという経過をたどった。
トルコによるアルメニア人の「大虐殺」は、ほとんどアルメニア人の民族的信仰告白の第一条となっており、彼らのアイデンティティはトルコを憎むことから始まっているとおぼしいのだが(書店に入ると、まるまる一棚をジェノサイド本が占めているのを見ることになる)、しかし虐殺されたのはアルメニア人だけではない。バルカンでも殺されている。ただアルメニア人にとって不幸なのは、彼らにはバルカンの連中とちがい欧米の大衆的支持がないのである。ブルガリアでの1876年の虐殺は翌年露土戦争としてすみやかに欧米の側、この場合は同じスラブ人で正教徒のロシアの反応を呼ぶが、1894−96年のアルメニア人虐殺はそうではない。バルカンの火薬庫が火を吹いて始まった第一次世界大戦が1915年の大虐殺を招くが、大戦争のさなかという事情はあるにせよ、結局これは西アルメニア(東部アナトリア)における「アルメニア問題」の「最終解決」となってしまった。大戦後、カルス・アルダハン地方(ロシアが1878年[セルビアルーマニア独立、ブルガリア公国創設の年]にトルコ領西アルメニアから奪取していた)もトルコに返還することになり、民族の象徴たるアララト山もトルコ領になった。
今の小さなアルメニア共和国とそれよりはるかに大きい歴史的アルメニアの関係を考えるには、ハンガリーと対照すればいい。今のハンガリーは小さな国だが、中世のハンガリー王国オーストリアハンガリー二重帝国のハンガリー王国部はけっこう大きかった。現在の国境は第一次大戦後のトリアノン条約で決まったものであり、その結果、かつての大ハンガリーの一部を自国領土とした周辺諸国家の中で、その地のハンガリー人は少数民族として生きることになった。だが、ハンガリー人は今もそこに暮らしつづけている。アルメニア人はトルコ領の西アルメニアに暮らしていない。存在を停止している。コーカサスの苛酷さがよくわかる。
オスマン帝国というのはおもしろい国で、士農工商のうち、士・農はトルコ人(正確に言えば、士は「オスマン人」で農が「トルコ人」)で、工・商は他民族、特にキリスト教徒とユダヤ人にまかせていた。異教徒たちの活躍の場は大いにあった。ヨーロッパよりずっと寛容な国だったのだが、それが帝国末期には恐るべき不寛容を示す。その間に何があったのかは痛切に重要な問題である。
ソ連崩壊に前後してさまざまな衝突や事件が起きた。ボスニア内戦をはじめとする旧ユーゴスラヴィアの内戦、モルダヴィアのトランスニストリア紛争、ナゴルノ・カラバフ紛争、アブハジア紛争とグルジア内戦、そしてチェチェン戦争。よく見れば、タジキスタン内戦を除くと、これらすべての紛争地はバルカンとコーカサスに限られている。最近もグルジアで軍事衝突が起き、その結果グルジア自治南オセチアと同自治共和国アブハジアの「独立」がロシアによって「承認」されたが、これは、セルビア自治州だったコソヴォの欧米による独立承認への応答のようなものだ。バルカンとコーカサスは「呼応しあう地域」なのである。
北に偏ってものごとを眺める人たちは、アルメニアまで視線が届かないことが多い。しかし東欧研究はコーカサス研究によって実り豊かに補われるし、その逆もしかり。トルコやロシアの研究者ならこの両地域を視野に入れているが、そこに現われる像は東欧やコーカサスの研究者が見ているものとはいささか異なる。それとはちがう立場から両者を眺めるたしかな視点がほしい。


アルメニアを考えるということは、トルコを考えることであり、イラン(ペルシア)を考えることである。
ハンガリー人は、もとをたどれば東方から侵入した遊牧民で、フン族との結びつきを誇るマジャール族であるが、彼らの建てたハンガリーには金髪が少なくなく、彼らと言語的にはもっとも近縁であるハンティ族やマンシ族とはまったく異なる容貌だ。もともとその土地に住んでいた人々(多くはスラブ人)を言語では同化したものの、体質はむしろ基層の人々に同化されたためである。同様にトルコ人の場合も、テュルク族元来の居住地に近いところに住む日本人に近いカザフ人やキルギス人の容貌と、バタ臭いトルコ人を比べてみればいい。「トルコ(テュルク)」に必要以上にこだわってはならない。彼らについて、「トルコ語を話す中央アジアから来た遊牧民の子孫」という面ばかり見ていては誤る。それと同じくらいに、東地中海人・アナトリア人として見るべきだ。トルコ人の場合は言語だけでなく宗教(イスラム)も自分たちのものに変えてしまったので、基層民の変容の度合いはより深い。宗教は信仰にととまらず、世界観や法のあり方、生活風俗、人間関係等々の総体も規定するものだから。しかしそれでもなお、バルカン・アナトリアにまたがる支配者として、オスマン・トルコには東ローマ帝国の後継者の面が強くある。
ペルシアというのは、今の首都テヘラン、サファーヴィー朝の首都イスファハン、あるいは古代のペルセポリスなど、現代のわれわれの耳になじみのある町がザグロス山脈の東側にあるために、山脈から東のイラン高原の国と思ってしまう(たしかに「ペルシア」の名の起こりであるファールス地方はそこにある)が、実際にはザグロスをまたいで両側にある国であって(今でもそうである)、古い時代にはむしろ山脈の西側が中心であった。パルティアやササン朝の首都クテシフォンはメソポタミアの町でバグダッドの近く、アケメネス朝のスーサはメソポタミア平原の東端、エクバタナ(今のハマダーン)はザグロス山中である。イラク南部がシーア派地域であることも考え合わせるといい。イラクシーア派はアラブ人であって民族は異なるけれど、ザグロスをはさんで両側にひとつのまとまりが今もあるわけだ。
西アジア(それは古代には「文明世界」と同義であったが)にはエーゲ海世界とイラン高原という対立軸があった。ギリシアとアケメネス朝ペルシアが戦ったペルシア戦争から始まって、ローマ帝国・東ローマ(ビザンツ)帝国とパルティア・ササン朝ペルシアの間で争いが続き、イスラムの勃興によって一時中断するが、やがてオスマン帝国スンニ派)とサファーヴィー朝ペルシア(シーア派)というイスラム二大帝国の争いとして再生する。この二大勢力の間にあった上メソポタミアアルメニアが争奪の対象となった。アルメニアはそれによってまずローマとササン朝の間で分割され、イスラム帝国が両勢力の間に割ってはいった時代に一時独立したが、オスマン帝国とサファーヴィー朝の間でまたも分割された。
分割された弱小国は史上に数多い。ポーランドもそのひとつだ。分割したのはロシアとプロイセンオーストリア、後二者を西欧側とすれば、つまりバルカン問題の主要プレイヤーのふたつである。ポーランド分割は世界史の授業で習う。明治の軍歌で歌われもした。だが、トルコとペルシアで分割されたアルメニアのことなど誰も関知していない。
アルメニアにはペルシアの影響が強く、アケメネス朝帝国に服属していた。パルティア王家の分家が王朝を建てたこともある。宗教も、キリスト教に改宗する前はゾロアスター教であった。世界でもっとも早くキリスト教を国教とした国(301年)というのがアルメニア人の誇りだが、二大勢力に挟まれているという国情もその背後にあるにちがいない。彼らのキリスト教は単性論である。キリストに神性と人性があるとする両性論のカルケドン派ローマ・カトリックギリシア正教)に対し、東方のエジプトやシリアではキリストの人性は神性の中に融合しているという単性論をとっていた(前者からすれば異端ということになる)。アルメニアはつまり、キリスト教によってイランから、単性論によってビザンツから自らを切り離しているわけだ。
単性論地域は今はイスラムの領域となっている。キリスト教の分裂状態が、7世紀のアラブの大征服を容易にした要因のひとつだ。シリアやエジプトにはヤコブ派とかコプト教会、あるいはネストリウス派のような宗派が細々と残っているにすぎず、まとまった単性論教会はアルメニアエチオピアのような辺境で続いた(グルジア教会もそうだったが、のちに正教を受け入れた)。
「敵の敵は友」というのは政治の公理で、古代アルメニア王国のアルタシェス1世が首都アルタシャトを建設したとき、ローマに敗れ逃れてきていたカルタゴハンニバルが助言したというエピソードもある。


アルメニア人を知るためには、ユダヤ人・ギリシア人・クルド人と比べてみるといい。特徴的な共通点と特徴的な相違点がある。彼らと比較することで、アルメニア人がよく見えてくる。またそうすることで、比較された彼らのこともわかりやすくなる。アルメニアから世界を見れば、広さも深さも増してくるだろう。
ギリシア人とは、キリスト教徒であり、商業民族であり、オスマン・トルコの征服以前には地域の主(アルメニアは規模をかなり小さくした形だが)であったという点が共通している。誇るべき古典古代をもつ(ここでもアルメニアはかなり小さく、対外的にはほとんど知られていないけれど)印欧語族であるという点もそうだ。
近代における民族解放であるところのギリシア独立戦争とイラン領アルメニアのロシアへの割譲はほぼ同時期だった。独立戦争に身を投じたバイロンの例を見るまでもなく、ギリシアには欧米の肩入れが大きい。ヨーロッパの教養人というのはギリシア語とラテン語を教えられて育つのだ、愛読書の舞台であった土地の運命に無関心でいられるわけがない。アルメニアはそうではない。アルメニア人の命は石油より軽い。近代に再登場した独立ギリシアは小国であるが、同じ小国のアルメニアとはステータスがだいぶちがう。それは過去の歴史の光被にもよっているのだが、地政学的要因もかなりある。
ユダヤ人とは、ディアスポラ(離散)の民であり、商売にたくみであること、異教徒の間に暮らし、信仰を支えとすること、大虐殺を経験したことなどが大きな共通点であって、しばしば互いに比較される。「ヨーロッパ人が三人集まっても一人のユダヤ人にはかなわない。ユダヤ人が三人集まっても一人のアルメニア人にはかなわない」などと言われるそうだ。その当否は別としても、何かと比べられる人々ではあるわけだ。相違点の最大のものは、やはり宗教である。
商業民族としてアルメニア人がユダヤ人ほど知られていないのは、地域的な偏りによる。日本においてはどちらもプレゼンスがないが、ユダヤ人はヨーロッパにおいて大きな存在だった。アルメニア人もヨーロッパでそこそこ活動してはいたが、彼らの大きな舞台は何といってもトルコからイラン、インドにかけての東方だった(そこは日本人にとってなじみのない地域である)。イランのイスファハンには新ジュルファというアルメニア人地区がある。オスマン朝との戦いの中で、アッバス大帝によって首都イスファハン近郊に強制移住させられた人々が築き、貿易商人を輩出した。17世紀、イギリスの東インド会社は社員にアルメニア語やアルメニア人の商業作法を学ぶことを勧奨し、新ジュルファのアルメニア商人たちと協定を結んだほどだ。シンガポールに行く人は、そこの最古の教会はアルメニア教会であると聞いて奇異の念を持つが、それにはこういうわけがある。
チベット研究の先駆者であるセーケイ人ケーレシ・チョマ・シャーンドル(1784−1842)がインドに旅したとき、アルメニア人と称したのにもそういう背景がある。宗教は大きなアイデンティティのよりどころだから、同じキリスト教徒のアルメニア人ならそこを偽る必要がないという点も重要だが、そのほかにも、17・18世紀のアルメニア商人はインドを拠点にチベット貿易にも進出し、ラサに住む者もいたほどで、東方では存在感があったのである。
イェレヴァンにはイスラエル大使館がない。イスラエルはアラブが敵で、トルコ・アゼルバイジャンイスラム圏における数少ない友、そのトルコとアゼルバイジャンが敵で、ロシア・イランが友、アラブ諸国とも悪くないのがアルメニア。しかも印欧語族アルメニア人は、ユダヤ人を殺戮したナチスにとって「アーリア人」の資格があった。このディアスポラ二大民族の関係はもつれている。
クルド人アルメニア人は、居住地域が重なっている。東部アナトリアに重なりあう住地が大きくあり、そこからクルド人は南東に、アルメニア人は北にはみだした分布をする。カルドゥコイ人というのがクルド人のことなら、クセノフォンの「アナバシス」のころから隣りあって暮らしていた。トルコとイランの支配下にあったこと、山岳民であること、独立を失っている時が長い(クルド人の場合、自分たちの国をもったことがほとんどない)ことなどが共通する。
相違点はといえば、まず宗教が異なる上に、アルメニア人は近世にカトリックの権威を受け入れた少数を除き、宗派としてもひとつにまとまっているが、クルド人スンニ派、アレヴィー派、ヤズィーディー教徒などに分かれ、統一がない。さらに、クルド人は標準語をもたない。アルメニア人は古くから独自の文字をもつ文書の民であって、国を建てていた輝かしい歴史の記憶にひたることのできる民族である。
同じくキリスト教徒で、同じく独自の文字を有するグルジア人とも比べることができる。隣人だから共通点は多いし、相違点も目につく。だがその比較はあまりにもミクロなので、あえて踏み込むまい。


ハンガリーの作曲家バルトーク(1881−1945)が民謡を採集しに片田舎を旅していたことは知られている。アルメニアにもまた、大虐殺の「犠牲」となったコミタス(1869−1935)という作曲家がいて、同じ頃に民俗音楽の採集をしていた。最初の民謡集を出したのは1895年だから、バルトークより早い。ソゴモン・ソゴモニヤン(本名)は西アナトリアのキュタフヤに生まれ、幼くして父母を亡くし、エチミアジンの神学校に入った。コミタスは修道士としての名前である。1915年4月、イスタンブールで逮捕され、他のアルメニア知識人とともに処刑されるべく移送されたが、あわやのところで死をまぬがれ、送り返された。しかしその後精神に異常をきたし、生を終えるまでを心の薄明のうちに過ごした。バルトークナチスを嫌って亡命した人ではあるが、同じく大国の間で翻弄された小国のひしめく地域とはいえ、コーカサスのほうが東欧より一段キツいようである。