チョマが国境を越えたとき

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、古のシルクロード、東西トルキスタンアフガニスタンチベットを含む中央アジアは、英露間の勢力拡張の争い、いわゆる「グレートゲーム」の舞台であり、特務将校が潜行をはかり、往々落命する地域、また、特にその後半には、近代地理学における空白の土地として、心躍らせる学問的な冒険調査が行なわれる地域であった。19世紀を通じて、学問的情熱(わかりやすく言えば好奇心)と、冒険心、および19世紀の先進国(「列強」と呼ばれる)国民に特徴的に現われたその変異体、「帝国主義的情熱」は、探検の名のもとに結合し、「テラ・インコグニタ(未知の土地)」を栄養源として、肥大化を極めていた。20世紀の初めにおいても、世界大戦の破局に、また当該地域の自立に至るまで、このような「インディ・ジョーンズ的状況」は続いた。


ケーレシ・チョマ・シャーンドル(アレクサンダー・チョマ・ド・ケーレス、1784-1842)は、1819年の晩秋のある日、恩師ヘゲデューシュ教授を訪ねた。教授の回想によると、「翌月曜日、彼は再び私の部屋にやって来ましたが、ちょっと散歩でもするかのような軽装でした。彼は腰を下ろすこともせず、「もう一度お会いしたかったのです」と言いました。/私どもはナジセベンへ通じているセントキラーイ通りを通って出発いたしました。そして田舎、まさに田野の真ん中で我々は永久に別れたのです」(「生涯」p.27)。
この旅の終わりには近代チベット学の祖として学史に名をとどめることになるチョマの旅立ちの様子は、こんなものだった。
トランシルヴァニアの東の端の小さな村で生まれたチョマは、ハンガリーマジャール)人の支族であるセーケイ人であり、ナジエニェド(アユド)のベトレン・コレーギウムに学び、奨学金を得てドイツのゲッティンゲン大学に留学し、1818年に帰国したばかりだった。帰ってきたチョマに就職口はあったのだが、彼はそれを断り、東方への旅に出ることを決意する。最初の計画では、オデッサを経由してモスクワへ行き、イルクーツク行きの隊商に加わるつもりだったらしい。それに備え、スラブ語を勉強するためにザグレブへ行っている(「生涯」p.25)。しかし結局その道はとらずに、ブカレストからギリシア、海路アレキサンドリアアレッポバグダッドからテヘランアルメニア人に扮してブハラ、カーブル、ラホール、そしてラダックのレーへと進んだ。レーからヤルカンドへ行くのを断念し、またラホールに戻る途中でムーアクロフトに会い、チベット語の研究を勧められ、貴重な書籍も与えられる。しばらく考えたのち、チベット語を学ぶことに決め、ラマの助けを借りて僧院に住みこみ、チベットの言葉と文化を修得するべく静かな格闘を始めた。
ラダック地方奥地の僧院での勉学ぶりについて、1829年にそこを訪ねたジェラードの報告がある。「寒気は非常に厳しく、昨年の冬中彼は頭から足まで毛織物で身を包んで朝から晩まで机に向かって坐っておりました。娯楽とか暖をとる休みもなく、休みといえばつましい食事だけでした。その地方では一般的になっている脂ぎった茶の食事だけでした。/しかしカナムでの冬の苦労は、チョーマ氏が過ごしたヤンカラの寺院での冬に比べれば何事もないような穏やかなものでした。そこで彼と助手のラマは四カ月間九フィート四方という狭い部屋をあてがわれ、二人はそこに閉じこもり、敢えて動こうとしませんでした。と言いますのも、地上は雪に覆われて気温は零下を下まわっておりました。そこで彼は羊の毛皮の外套を着て両腕を組んだまま坐っておりました。そしてその姿勢で朝から晩まで終日火も明かりもなく読書に耽っておりました。夕闇が逼れば土間で寝るだけであり、酷寒の気候から身を守るのは建物の壁だけでした。/寒さが余りにも強烈なので、自分の手を温もっている着物の中から出してページをめくるのにも骨を折るほどでした。夏至の日に雪が降ったという事実から、ザンスカルの気候について容易に想像できましょう」(「生涯」p.156f.)。「チョーマ自身は古の聖人のように見え、倹約した生活を送り、彼を取り巻く対象に何の興味も示さず、ただその国々の諸宗教を包む文献学の仕事に専念しております。彼は心から満ち足りた熱意で研究の成果について教えてくれました。/彼はチベット蔵経の四十四巻を通読してその内容について飽くことのない興味を抱いております。彼はたいへん喜んでこれらの膨大な文献の宝庫を開くつもりのようです」(同p.158)。
その労苦が『蔵英辞典』に結実し、1834年にカルカッタで刊行されたとき、今までに何度も復刻されてきたこの名著の序文で、チョマは、放浪していたころに世話をしてくれた市井の人々、ボヘミア生まれのアレッポの商人やチロル出身のアレキサンドリアの鍛冶屋の親方といった人たちに対しても謝辞を忘れない。同じ年に『蔵語文法』も出版された。カルカッタではアジア協会図書館に住みこんで司書として働き、禁欲的な生活を貫いて「聖人」と呼ばれていた。のち1842年にラサへの旅に出て、その途上で熱病を病み、同年4月11日ダージリンで没した。
これだけ見れば、美しくも尊いチベット研究に捧げた一生」である。しかしながら、彼がチベット学の祖となったのは旅の途上でのムーアクロフトとの出会いによる偶然の賜物であって、町はずれでヘゲデューシュ教授と別れたときに彼が心に描いていた行き先は、ハンガリー人の父祖の故郷、「大および小ボハリア」(トルキスタン)であった(Short biography, p.12)。ムーアクロフトと会ったときも、彼はラダックからトルキスタンへ抜ける道を求めていたのである。最後の旅も、ラサが目的地ではなかった。それはやはり、チベットの北方、シナの西方にある「ユグル族」の土地だったのである(「生涯」p.267f.)。
マジャール族は東方のステップからやってきた遊牧民であって、その点でフン族アヴァール族など、同様にカルパチア山脈を越えパンノニア平原(ハンガリー平原)に本拠を構えた遊牧民の系列に連なるもので、先行諸民族が打ち破られて東方に去ったり周辺民族の中に解消したりしたのと違い、農耕文化やキリスト教を受け入れて定住し、その言語と民族性を保った。しかし遊牧時代の伝承を残し、周囲の民族とまったく異なる系統の言葉を話していたため、民族の「自意識」が目覚める近代にあっては、孤独感やいびつな自負心を感じることが多かった。蛮族呼ばわりされるフン族は、ヨーロッパの暗い過去の悪役だが、ハンガリー人にとってはそうではない。彼らはフン族とのつながりをむしろ誇る。フノールとモゴールの兄弟は、牝鹿を追って沼地を渡り、そこで出会った娘たちを娶り、子孫をもうけた。それがフン族マジャール族(ハンガリー人)となった、という有名な族祖神話に見られるように。チョマがその一員であるセーケイ人には、自分たちはフン族の子孫だという言い伝えがある。アッティラ王の死後、息子チャバは東方に退却したが、同族たるセーケイ人をあとに残し、彼らに危難が迫るとき、銀河の道を通って救援に駆けつけるというのだ。
今ではハンガリー語フィン・ウゴル語派であるとされ、ヴォルガ川中流のステップでテュルク系の遊牧民と部族連合を形成し、9世紀に今のハンガリーの国土であるカルパチア盆地へやってきたと学問的に結論づけられているが、それが確定するまでには、自分たちのアイデンティティ、自分たちの故郷や親戚を求めるあれやこれやの探索が続いた。「東方への憧れ」はハンガリー人のロマン主義を特徴づける要素である。それは、古くは13世紀前半のドミニコ会士ユリアヌスの旅としても現われた。彼はヴォルガとウラルの間にハンガリー語を話す人たちの住む「マグナ・フンガリア」を発見したのである。しかしその後に再度訪れたときには、モンゴルの進攻のあとで、その人たちはいなくなってしまっていた。
チョマは人知れず旅に出るが、先行きの見通しがついてきたテヘランから故国に手紙を書いた。それは反響を呼び、寄付金がハンガリー国中から集まった。けれど彼の消息は以後不明となる。1826年に消息が知れたとき、新聞は「われらがチョマは生きている!」と書いた。その後1830年にジェラード博士の報告がハンガリーで発表され、同胞は誇りをもってその記事を読んだが、彼との接触は依然できず、ようやく1832年にカルカッタのチョマに手紙と寄付金を送ることができた。これらすべては辞書や文法書が刊行される前のことだ。同胞たちが感激したのは、つまり彼が艱難をおして試みている「故郷への旅」に対してなのである(Short biography, p28)。
チョマの大いなる旅の企てを聞いたハンガリー人の受けた印象は、たとえて言えば、日本人が乃木将軍の殉死の報を聞いたときの反応のような、「理非善悪を超越して、ただ電気のように人々の脳底にあッと言う感動を与える」(島村抱月)ものであったろうか。意識下にはありながら、意識の上にのぼることなく眠っていた事柄が、突然目の前に突きつけられる。日々の仕事に齷齪して、高きにあるものを忘れがちになっている人々が、さてこそかくあるべきと一挙に悟る。敗戦の陸相が腹を切ったように、以後ハンガリー人にとってチョマは倣うべき範型となるのである。
 彼の墓碑銘は、
「アレクサンダー・チョマ・ケーレシ
 ハンガリーに生まる。/氏は言語学上の研究調査のため、/東洋に赴き、/幾星霜の艱難辛苦によく耐え、/学問に献身し、/氏の名を不朽に残す記念碑的著作/『チベット語辞典及び文法』を編纂す。
 さらに研究続行のため、/ラサに赴く途上、/一八四二年四月一一日、/この地に没  す。/行年四四歳。/氏の研究協力者、/ベンガル・アジア協会 建之。
 安らかに ねむれよかし。」(「東洋紀行」1、p.94)
ダージリンに滞在していたとき、スタインもよくこの墓を訪ねていた。「夕方には墓地へ散歩に行きます。そこにはあの気の毒な生涯を送ったチョーマ・デ・ケレスの墓があります。良く手入れが行きとどき、美しく保たれています。墓地は山の斜面にあり、ヘティが気に入りそうな素晴らしい所です」(兄への手紙、「スタイン伝」上、p.132)。ダージリンの墓地は、インドを旅するハンガリー人が必ず訪れる「巡礼地」となった。


ロマン主義の時代の真っ只中、チョマが「散歩に出るような軽装で」町の境界を踏み越えたとき、彼は同時に、ある扉を開いたのだ。以後、ハンガリーから東方へ向かうその道を、一群の「故郷をめざす旅人たち」が次々に越えてゆくのをわれわれは見るだろう。
たとえばヴァーンベーリ(1832-1913)の中央アジア冒険行。東テュルク語とハンガリー語との類似に心ひかれ、1862−64年にチョマ流の単身貧乏旅行を敢行した。イスラムの托鉢僧に身をやつし、東トルキスタンから来た巡礼の一行に加わって、ヒワ、ブハラ、サマルカンド、ヘラートなどを経巡った。何人ものイギリス人将校を処刑したブハラの暴君ナスルッラーの治世(1827-60)からまだ時のたたぬ頃にこの町に入り、のちに『ボハラ史』を著した。帰国後はブダペスト大学教授となる。
ヴァーンベーリはロシア嫌いで、英露間の「グレートゲーム」では断然イギリスの側に立ち、したがって日本もひいきで、日露戦争前には駐オーストリア公使牧野伸顕の働きかけを受けて、黄禍論を駁す冊子を執筆した。また、訪英中にブラム・ストーカーと会い、残虐なふるまいで名高いワラキアの君主ヴラド串刺し公のことを教え、ストーカーはそれを踏まえて『ドラキュラ』を書いた、というエピソードも残している。
たとえばセーチェーニ・ベーラ伯爵(1837-1918)の1877年から80年にかけての大旅行。地理学者クライトナー(1848-93)、地質学者ローツィ(1849-1920)、言語学者バーリント(1844-1913)が同行し、同時代の西欧列強のどこにも引けを取らぬ調査隊であった。終了後大部の報告書を出してもいる。
日本ではアイヌの村まで訪れ、中国では敦煌・青海から四川の巴塘まで行き、そこからビルマへ抜けた。プルジェワルスキーと並んで、近代においてもっとも早く敦煌を調査したヨーロッパ人である。1879年に彼らが到達したとき、「マルコ・ポーロ以後、この場所に足を踏み入れたヨーロッパ人はまだ誰もいなかった」(同2、p.345)。
「東洋紀行」の巻頭、「旅行の主眼は、東アジア、および中央アジアの地理学的、地質学的調査に置かれていたのであり、たびたび取沙汰された話のようなハンガリー人発祥の地の探索にあったのではない」(同1、p.17)とオーストリア人の地理学者ブライトナーは断言するが、総理衙門に通行証の交付を求めた請願書で、セーチェーニ伯爵は「わたくしが熱望いたしておりますことは、わたくしたちハンガリー人の推測によりますところの、わたくしたちの因って来たる始原の地への経路を旅行し、昔日のわたくしたちの先祖の暮らした土地を見、先祖の墓前に敬慕と尊敬の供物を捧げ、あわせて、九世紀にヨーロッパの中央部に礎を置きましたところの新しいわたくしたちの祖国のために、繁栄と永続を祈願することであります」(同2、p.42)と書いて、旅行の目的をみずから明らかにしている。モンゴルやチベットに行くことも希望していたが、それは叶わなかった。巴塘から追い返されたところなど、20年後の能海寛と同じである。
この旅行に同行しながら、病気のため日本と中国への旅が始まる直前に上海から帰国しなければならなかったバーリント・ガーボルは、チョマが生まれた村からわずか20キロほどの近隣の村の出身である。セーケイ地方が生んだもう一人の語学の天才で、1871年から74年にかけて、ハンガリーのアカデミーに派遣され、タタール人やカルムィク人の調査を行ない、そしてモンゴルのウルガウランバートル)まで調査研究に赴いた。チョマが最初に計画していたルートである。セーチェーニ調査団から離れて帰国するときは、立ち寄った南インドタミル語に接し、タミル語はウラル・アルタイ語であるとの論を立て、日本語とも比較を行なっている。
学問世界にはネットワークが張りめぐらされている。シュラーギントヴァイト(アドルフは探検中に殺されたので、残る兄弟のヘルマンかロベルトであろう。彼らはフンボルトの弟子で、1854年から58年にかけて西チベットや新彊などを調査した。「チベットの仏教」を著したエミールではなさそうだ)の講演を、クライトナーは1872年に任地のトランシルヴァニアで聞いている(「東洋紀行」1、p.88)。オーレル・スタイン(1862-1943)はドレスデンでのギムナジウム(高等中学校)時代、ローツィの敦煌報告書に親しんでいた(「スタイン伝」上、p.37)。
オックスフォードに学んだのち、1887年にインドへ渡ったスタインは、そこで同郷人ドゥカ・ティヴァダル(セオドア・デュカ、1825-1908)と知り合い、親交を結ぶ。ドゥカは、1848年の革命に投じて若い将校として戦い、敗れたのち祖国を去ってイギリスに亡命し、そこで軍医になり、インドに赴任した人であった。インドに住むハンガリー人として、大いなる先人チョマの事跡を調べ、彼の伝記を書いた。
スタインはまた同じハンガリーユダヤ人であるヴァーンベーリと交際があり、ヴァーンベーリは彼のためにブダペストで教授職を探してやっていたほどだ(「スタイン伝」上p.26; 97; 141)。その就職斡旋は失敗したが、それでよかった。ヨーロッパに職を求めるのをあきらめ、インドで働きつづけることに決意したスタインは、1900年から彼の名を不朽にしたタリム盆地での考古学的探検に乗り出すのである。
スタインのころには原郷さがしは終わっていた。「原郷ロマン主義」以後の人だが、チョマは彼にとっても導きになっていたようだ。「どんなにしばしば、カシミールのお気に入りの山岳野営地から、眼下5000フィートの緑のシンド渓谷を眺めおろしながら、1822年とその翌年、西部チベットの中心地レーへの道をたどっていた哀れなハンガリー人の放浪者のことを考えたであろうか」(Duka,p.27)。スタインは生涯独身で、夏にはお気に入りのモハンド・マルグという「夏営地」のテントで過ごすような「ノマド」であった。探検が終わり、報告書をまとめるとまた次の探検へ出発し、ついには探検行途上のカーブルで病没して、そこに埋葬された。この生涯には既視感がないだろうか? はからずも「チョマ原型」をなぞっているようではないか(*1)。


日本人でチョマの仕事に最初に触れたのは、おそらく英国に留学しわが国における近代梵語学の祖となった南条文雄であろう。師マックス・ミュラーはチョマの業績を賞賛していた。彼も、漢訳大蔵経の書誌学的目録を編んだとき(「大明三蔵聖教目録」、1883)、チベット訳経典を調べるのにチョマの論文を参考にしているし、「仏涅槃年代考」(1884-85)でも参照している(*2)。南条に師事した能海寛(1868-1901?)は、チョマの「蔵語文典」でチベット語を独習し、それの付録から「西蔵国歴史年表」(1896-97)「西蔵国所伝釈尊入滅考異説」(1897)を訳したのち、チベット探検の途にのぼった。
しかし、チョマの業績を知らしめる上でより大きかったのは、「明教新誌」に載ったサミュエル・ビールの「吾人の北方仏書を知得したる由来」であろうと思われる。この中で、ホジソンのネパールでの梵語経典収集と並んで、チョマの略歴とチベット訳経典の解題作業が紹介されている。
日本人で初めてラサに入った河口慧海(1866-1945)は、「入蔵の思ひ出」の中で、「西蔵語研究の世界的先駆者たるチョーマ氏の事業は、余に入蔵必要のヒントを与へ、又その字典は西蔵進入通路開門の鍵を与へて呉れた」(「慧海」p.114)と回想するが、そのうち「入蔵必要のヒントを与へ」たというのは、上記「吾人の北方仏書を知得したる由来」で紹介されたチョマの事跡をいい、これを読んだことがチベットに経典をさぐる冒険行に出るきっかけとなった。後段は、1898(明治31)年12月、ダージリン滞在中にラサ駐在ネパール公使ジッバードルに会ったときのことを指す。そのとき「同氏は余の卓上にあったチョーマの蔵英字典に非常に垂涎してそれを同氏に譲与せんことを強要せられた。それで当時既に絶版となってゐた同書であつたけれども、余は同氏のためにそれを割愛したので同氏は大に喜んでゐた。それが強い縁となつて、ネパール国に入る旅行券を得る関守に宛てた紹介状を余は同氏から得ることが出来たのである」(同p.145f.)。
チョマの刻苦勉励は、英国からこだまして明治日本の青年僧たちの心に響き、彼らの間に「入蔵熱」を引きおこしたのである。
ヘディンやスタインが中央アジアで探検を行ない、その華々しい成果が伝えられていたころ、大谷光瑞(1876-1948)はロンドンに遊学していた。青年の若々しい情熱がこんな刺激を受けて、興奮を覚えないことがあろうか。まして光瑞には気宇の壮大と、西本願寺の将来の法主という地位およびそれに伴う財力があった。かくして、スタインの第1次探検に遅れることわずかに2年、ドイツの第1次中央アジア探検隊派遣と同じ年に、3次にわたるいわゆる「大谷探検隊」(1902-15)の冒険行が始まった。
日本人の探検には、「帰宅探検」というジャンルがある。ユーラシア大陸の東端にある日本から西端のヨーロッパに渡り、職務についたり遊学したりしていた者が、帰国時に人の行かぬ地域を通れば、それでもう立派な探検になってしまう。ベルリンの公使館付き武官だった福島安正中佐が、帰国時1892/93年に敢行したシベリア単騎横断は有名だが、そのほか、サンクトペテルブルクからの帰路中央アジアを踏査した外交官西徳二郎の『中亜細亜紀事』の旅(1880/81)や、ヨーロッパ視察から帰る際の北畠道竜のインド仏蹟探訪(1883)などもその例である(このとき道竜は同行するよう南条文雄を誘ったが、南条は辞退している)。
第1次(1902-04)の大谷探検隊もそれであった。1902年、ロンドンからの帰国の道を中央アジアに取り、サマルカンド、コーカンドからカシュガル、タシュクルガンを経てカシミールに入り、インドの仏蹟を歴訪して日本にもどった(別隊はコータン、クチャ、トルファンなどを経て西安に出た)。福島中佐のシベリア横断と並んで、帰国者の探検の双璧であろう。
この探検の目的として、光瑞は五つを挙げている。仏教東漸の経路の解明、仏教遺跡の巡歴、イスラム教徒による仏教弾圧状況の研究、経典・仏像・仏具の蒐集とそれによる仏教学・考古学的研究、地理学的研究である。ヨーロッパ人の探検とその目的を異にしているのが明らかだ。それは鳩摩羅什三蔵法師玄奬のたどった道であり、彼らの訳した経典をわれわれは今も聖典として読経している。単なる好奇心冒険心ではかたづかない身体感覚的な近さがある。仏教者がみずからのアイデンティティに関わる問題として行なう探検、「仏教の来た道」「仏教の運命」をさぐる仕事であるわけだ。チベットに関しても、光瑞は青木文教・多田等観の2人をラサに送りこんで勉強させた。求法の念願がこれらすべての行ないに共通しており、さればこそ松岡譲の文化史小説『敦煌物語』は、スタイン、ペリオの敦煌文書「収奪」を文化侵略と難じながら、日本人青年僧「立花」の同文書買い上げは「仏弟子の聖業」と見なす。一面得手勝手だが(*3)、他の一面ではたしかに真実の一部を衝いている。


探検花盛りの中央アジア。学問的情熱と「帝国主義的情熱」に駆られた人々が、千里を遠しとせず、困難を困難とせずに引きも切らずやってくるその中に、他とは少しばかり変わった人たちがいるのに目のさとい人は気づくだろう。そう、ハンガリーからの「故郷捜索者たち」と、日本からの「西方取経」をめざす「今西遊記」の坊さんたちである(*4)。
西からと東から、「帝国主義列強の息子たち」とはやや毛色の違う不思議な熱情に憑かれた男たちがやってくる、その流れの源流を遡ると、そこにはあの孤独な旅人ケーレシ・チョマ・シャーンドルが立っている。算用にはまったく無縁な彼の行ないが、人々を動かす。思えば奇妙なことである。それが本国から「故郷捜索者たち」をここへ招きよせ、それらの企てははるか東の果ての国にも響いて、そこからも僧門の青年たちを引きよせる。つい顔をあげ、窓から遠くを眺めてしまいたくなるような、中央アジア探検史の中にうかびあがる隠れた道筋である。


1819年の晩秋に旅立ったきり、ついに帰ることのなかった故郷で、チョマは伝説の主人公となっている。英雄に対して人々の行なえる最大の顕彰であろう。その話はこうだ。伝説の常として、事実からは遠いが、真実には近い。魂の領域の真実に。

神さまはチョマ・シャーンドルに、どんな難しい言葉でも二十四時間でものにしてしまうすばらしい力をお与えになった。十二歳のときチョマは旅に出た。旅の途次、あるよい王さまの館に着いた。最初の日は、誰とも話ができなかった。王さまの館では誰もハンガリー語がわからなかったから。チョマはその夜召使にその国の言葉を習い、次の日には王さまとよどみなく話をし、王さまはたいへん喜んで、チョマに黄金の本を贈った。この黄金の本には世界中の言葉が書き上げてあるのだった。チョマにはこれより値打ちのある贈り物はなかった。安心して世界中を旅することができて、ただの二十四時間の間に言葉を習いおぼえることができるのだから。
 千もの艱難辛苦を乗り越えたあと、チョマはエジプトにたどりついた。最初に目指したのはシナイ山だった。神さまがモーゼに話しかけた場所を見たいと思ったが、その山には登ることができなかった。神さまが人の足のそこへ踏み込むのを禁じていたから。窓から外を見ていたエジプトの王さまは、若い異国人の試みがうまくいかないのを見て取って、家来に言づてを持たせて遣わした。「無駄なことをするでない。モーゼよりのち、いかなる者もそこへは登れぬのだ。神が人の足の聖なる場所へ踏み込むのを禁じたもうたから。だが異国の旅人よ、王のもとへまいり、旅の疲れをいやすがよい」。チョマは家来のあとについて王さまのもとへ至り、王さまはチョマを黄金の卓子の前の黄金の椅子にすわらせた。卓子には黄金の皿にすばらしいご馳走が、黄金の杯にすばらしい飲み物が盛られていた。チョマは好きなだけ飲み食いし、その間にも賢い話しぶりで王さまの好意を得、王さまはドゥカーテン金貨四百枚の入った黄金の袋をチョマに与えた。チョマははじめはこの贈り物を辞退した。けれど王さまは言った。「この贈り物を拒むのは、わしの好意をも拒むのだ。異国人よ、わしの好意を受けぬ者は、わしの国では命が危ういと知れ」。そこでチョマは黄金のつまった袋を受け取ったが、必要がなかったので、それを国の両親縁者に送った。
 ここからアジアへと進んでいった。最初のハンガリー人が生まれた土地を探すために。恐ろしい土地、犬や狼の頭をした者どもの国を運よく夜中に通り過ぎたあと、数え切れぬ毒のある蛇や蟇蛙や蜥蜴におおわれた這い回る生き物どもの国に至った。ここでは人は体全体をガラスの中に包みこんで旅せねばならない。チョマもガラスの中に身を包んで、毒のある虫どもにまとわられながら、この恐るべき国の果てまで、七週間の間旅をした。世界の果てで陸地は終わり、海が始まり、その上を先に進めば進むほど、闇はさらに深まった。四十の昼と四十の夜、この暗い海の上を旅した。生きながら天上へ登れるところへたどりつくために。チョマは行き、かなり進んだ。道はしかし恐ろしく、ひきかえさねばならなかった。海岸に降り立つと、灰色の霊に出会い、それはチョマを父親のように迎え入れ、こう言った。「哀れな旅人よ、ここをうろうろしてどこへ行くのだ、神が天と地をお創りなされてより、いかなる者も来たことのないところを。腹がへっているな、わかっておる。見よ、ここに魚がある。望むなら食べるがよい」。チョマは海岸に腰をおろし、魚を食べ、足を世界の果てにぶら下げて、虚無の中へ唾を吐いた。そして頭を灰色の霊の膝にのせて眠り込み、二度とふたたび目覚めなかった。そういう定めだったのだ。神さまは、世界の果てに至った者は、その生命の果てにも至るのだとお定めになったのだから。灰色の霊はチョマをきれいに埋めてやり、涙を流した。海の波は今日もなお彼のまわりで泣いている。(SS. P.446ff.)


参考文献および註
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J.ミルスキー『考古学探検家 スタイン伝』上下、杉山二郎/伊吹寛子/滝梢訳、六興出版、1984
奥山直司『評伝 河口慧海』、中央公論新社、2003(「慧海」)
長沢和俊編『大谷探検隊 シルクロード探検』、白水社、1998
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深田久弥中央アジア探検史』、白水社、1971
P.ホップカーク『チベットの潜入者たち』、今枝由郎/鈴木佐知子/武田真理子訳、白水社、2004
サミュエル・ビール「吾人の北方仏書を知得したる由来」、「明教新誌」3186−89号、明治26年1月26日−2月4日
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GYÖRGY Lajos. “Bálint Gábor emlékezete”. Kolozsvár, 1945.

*1:南方熊楠は放浪の念願強かった人で、所帯をもち子供をもうけてのちも、「これら(書籍と標本)しらべおわり売却して子供の資金ができ候わば、小生は日本を遯世致し外国にゆき流浪して死ぬつもりに御座候」(大正5年5月8日付土宜法竜宛書簡、「全集」7、p.471)と言っていたが、ロンドン遊学中土宜法竜とチベットへの旅を計画していたころ、「私は近年諸国を乞食して、ペルシアよりインド、チベットに行きたき存念、たぶん生きて帰ることあるまじ」(土宜法竜宛書簡、「全集」7、p.238)と語った夢には「チョマ原型」がうかがわれる。
*2:南条は当時の最先進国へ行ったのだし、笠原研寿とともに東本願寺の給費生であり、まわりに同胞も多くいたのだから、チョマとは一見まったく境遇が違うように見えるが、留学の途にのぼったとき梵語はもちろん英語も全然できず、相手のふところへいきなり飛び込んでの研学だった点や、笠原と励んだ猛烈な研鑽努力、また、チョマが行なった蔵文大蔵経(カンギュル・タンギュル)の解題作業と対になるような漢文大蔵経の目録作成の仕事などを見れば、チョマと並べ考えることによって、彼の位置や業績がより確かにとらえられるのではないかと思われる。
*3:純粋に求法の志だけで探検していたわけではあるまいとは誰しも思う。「アブラハムモーセが、もし中央アジアへ行っていたなら、スタインは聖書研究の名のもとに献金を募れるのにといくたび思ったことであろう」(「スタイン伝」上、p.111)。宗教は往々「わかりやすい言い訳」と化すことがあり、善男善女の浄財はしばしば当てにされる。
*4:実は西欧からも彼らに似た人々はやってきていた。「この山々の向こうには、この上なく信仰心あつい人々が暮らしている――きっと、野蛮な宗教と風習から解放されるのを待ちながら、そして改宗を願いながら」(ホップカーク、p.116)と信じるアニー・テイラーのような宣教師たちである。彼らの行ないは、最大限寛容に言っていらぬおせっかい、悪意をもって言えば侵略者の走狗であるけれど、その中間あたりで手を打つのが妥当だろう。