インドで気づく

今まで世界のいろいろなところで働いてきた。ハンガリールーマニア、ロシア(ハバロフスク、サハリン、タタールスタン)、ウズベキスタンアルメニア、トルコなど。去年からインドに住んでいる。暑さに弱いので、昔からインドに興味はあったが、とても住めないだろうと思っていた。バンガロールは涼しいと聞いて、思い切ってやってきた。来てよかったと思っている。大いに知見も認識も広がった。
私(かつての私、そして今の私もなお)を含め、日本人はインドを知らない。仏教を通じて多少のなじみはあるが、その限られた仏教知識も漢訳仏典のみによって得たものである。直接の往来は明治にいたるまでなかったし、明治以後も東南アジアや欧米との往来に比べればはるかに薄い。日本人の世界認識において、「三国」という言い方はあった。三国とは本朝(日本)・震旦(中国)・天竺(インド)を指す。しかし、近代では和・漢・洋に替わったし、近代以前でも天竺はおよそ夢のような存在だった。
その「天竺」に来てみて知ったことは何か。
西アジア(中近東・イスラム圏)とインドには共通点が多い、ということがわかった。ともに日本人のなじみのない世界である。アフリカや中南米についてはもっと知らないが、しかしこれらは遠い。欧米より遠いのだから知らなくても無理はないが、南アジア・西アジアはヨーロッパより近いのだ。ましてインドはお釈迦さまの国だ。もっと知っていていいはずなのに。
イスラム教とヒンドゥー教は対極のような宗教である。「全ての点でヒンドゥーは我らと違っている」(アル・ビールーニー)。かたや一神教、かたや多神教。偶像を忌む宗教と偶像にどっぷり埋もれた宗教。肉食に禁忌があるのは共通だが、けがれているので豚を食べないムスリムと、神聖なので牛を食べないヒンドゥーイスラムは建築的で彫刻なく、ヒンドゥー教は彫刻の堆積が建築となる。
しかし、ともに男たちがほぼ例外なく口ヒゲを生やしている。女が足を出さない(サリーを着たら脇腹を出すくせに)。女たちは手に模様を描く(メヘンディ、ヘンナ)。男が手をつないで歩く。飲食店の給仕は男。食事は手づかみだ(右手)。用便後も手で処理する(左手)。酒は原則として飲まない。寺院内でははきものを脱ぐ。参詣前には、沐浴をしたり、手足を洗ったりする。額・両肘・両膝をつく五体投地の礼をする。教法一致である(コーラン、マヌ法典)。インドでは、女はサリー、男はドーティを、ふだんでも着るが、祭りのときは必ずつけねばならない。これは縫い目のない一枚布を体に巻くものだ。イスラムのメッカ巡礼のとき、巡礼者が縫い目のない布を、一枚は左肩から胴、あとの一枚は腰に巻きつけるのを参照せよ。――要するに、共通の生活文化の基盤があるのだ。
このことを知ると、われわれの世界は豚食いのアル中の、土足民族どもにヘゲモニーを握られているのだなと気づく。酒を飲む連中とばかりつきあっているので、世界には酒を飲まない人々が、半数にも迫りかねないほど大勢いるのだという事実に気づかない。豚を食べないのもそうだ。ヒンドゥーは食べてもいいのだが、その4割がヴェジタリアンなので、結局食べない。ユダヤ人も食べない。豚と酒に加え、家の中でも靴を脱がない欧米人と中国人によって世界は支配されているわけだ。情報は今も欧米が握っており、彼らの発信するものしか届かないので、豚を食べず酒を飲まず、室内では靴を脱ぐ人々がこんなにたくさんいることに気づかないのだ。
これらの人々は、衣服もわずかしか欧米化していない。それには気候という要因が大きいのだが(亜寒帯仕様の洋服は、およそ熱帯で着るものじゃない)。日本人も中国人も欧米化してしまっているのと好対照だ。高温多湿の夏にネクタイでのどを締め上げ、靴で足をむらしてせっせと水虫を養っている。


この西アジア・南アジア地域は、アルメニア人の活動の場である。商業民族としてユダヤ人より辣腕だと言われるアルメニア人について、日本人はほとんど知るところがない。彼らの活動地域を知らないからだ。ユダヤ人については知っている。ヨーロッパで活動しているからだ(アルメニア人もヨーロッパにいるが、アジアほど多くはない)。
ユダヤ人問題」というのは存在しない。存在するのは「アシュケナージ(中東欧ユダヤ人)問題」だ。ヨーロッパ以外の土地にもユダヤ人はいるが、彼らは差別されていない。他の少数民族や異教徒が差別される程度にしか差別されない。ユダヤ人はヨーロッパでのみ虐殺に至るまで激しく差別される(ヨーロッパ人を定義すれば、豚を食い酒を飲み、ユダヤ人を定期的に虐殺していた人々だ、ということになる。客観的に、そうである)。
ジプシーについては、インドから流浪してきた民族だとされる。だが、これは「ヨーロッパの民族」だというのが正しい。いわゆる「ジプシー」を追ってヨーロッパから東へ行くと、だんだん姿が見えなくなって、インドに至って完全に消え失せる。そんな「民族」はいないのだ。似たようなカーストの民ならいるけれど。「ジプシー」はヨーロッパで「民族」として成立した(させられた)のである。
あるいは、東欧に羊飼いを生業とするヴラフという人々が各地に散在していたが、彼らは民族集団なのか、社会集団・職能集団なのか。おそらく、ルーマニア人の一派であるヴラフ人の羊飼い集団に、他民族の羊飼い集団が混じったものなのだろう。このようなハイブリッドな集団も、近代では「民族」とされねばならないわけだ。
社会にはさまざまな集団があるが、ヨーロッパではそれが民族のラインで整理された。対してインドでは、カーストとして整理される。
近代以前は身分制の社会である。ヨーロッパ近代は、民族の「創造」によってそれを解消し、国民国家を作り上げ、世界制覇をなしとげた。
これはハンガリーの例であるが、プスタ(大農場)で働く隷属民は、20世紀になっても自分を「ハンガリー人」だと思っていなかった。
「私は長いこと漠とした本能のためか、それとも羞恥心のために、プスタの民はハンガリア民族ではないと信じていた。プスタの小学校で、ハンガリア人は英雄的で勇敢で、光栄ある民族として尊敬するよう教えられていたので、幼年時代に私は、プスタの民をこのような民族と同一視することなど到底できなかった。私はハンガリア民族を、はるか彼方にいる幸福な民族であると空想して、そのような民族のなかで暮らせたらいいと思ったものである」(イエーシュ・ジュラ「プスタの民」、加藤二郎訳、法政大学出版局、1974、p.7)。
彼らをも身分上の差異を超えた「ハンガリー人」であると信じさせることによって、「ハンガリー民族」と「ハンガリー国民国家」は成立したのである。
国民国家を支えるのは、(上の例にも見られるように)学校と軍隊である。若い男たちを国中から集める皆兵制の軍隊は、身分の違いを洗い流す装置となる。
インドは、身分制であるカーストを確固と保持している点で「非近代」である。徴兵制もない。ガンディー主義が明らかな「反近代主義」であったこと(彼は鉄道や医者、弁護士を「真の文明の敵」としていた)を考えれば、欧米に対するアンチテーゼとして立っている。


アジアの二大文明国、中国とインドを比べて眺めるとおもしろい。それぞれがひとつの世界である。土地は広く、人は多く、物産は豊かで、文明が行き渡っている。ひとつの世界として満ち足りていて、拡大志向がない。漢民族は、漢族本来の国土を統一さえできれば満足する。出て行ってもせいぜい今の新疆までだ。その境域を越えるのは異民族王朝のみである。インドでは、カーストの掟で外国へ行けないことになっている。まことにけっこうだ。飽くなき征服欲、拡大への妄執に憑かれているのは、ヨーロッパと西アジア中央アジアの野蛮な連中のみである。
だが一方で、分裂の時期はあるけれど、だいたい統一しているのがふつうであり、ふつうでなければならないと考える中国と、統一などイギリス支配下を除いてついぞしたことのないインドはこの点ではまったく異なる。バンガロールより南は、イギリス時代を除き、一度も統一インドの領域だったことがない。しかしそこも、まぎれもないインドである。北のアーリア人と違うドラヴィダ人の領域であるにもかかわらず。政治的に不統一でありながら、「インド」という文明のありかたがインドのすみずみにまで広がっている。おもしろいことだと思う。アーリアとドラヴィダなんて、言語も歴史も根幹から違うのに。
しかし、「文明世界としてのインド」こそ成立しているものの、不統一のインドでは結局言語・文字・暦は統一されず、地方的な変異を残したままになっている。中国の統一状態は多民族・多言語の混交から中国人(漢族)・中国語を成立させたのだが。
宗教的なインド人と現世的な中国人という世界に対する姿勢の違いによってであろう、歴史に対する態度は正反対である。「アジアの記録係」と言われる中国人は、史書編纂に情熱を注ぎ、結果神話をも失わしめた。逆に、インドには歴史がない。歴史をまったく重要視していない。「佛教では過去・現在・未來を三世と申しますが、指を彈く間に三世が起り、芥子粒の上に須彌山が現ずるといふ、時間も空間も滅茶々々にして考へる」のがインド人の性向だ。富永仲基は、「印度人の國民性を一言にして「幻」と批評し、支那人の國民性を「文」、日本人の國民性は「質」或は「絞」と、…一字で批評をしたのであります。印度人は何でも空想的なことを好みまして、前にも言うた通り、芥子粒の上に須彌山が現じたりするといふ風に、大變突飛な魔法使みたやうなことを考へる。…支那人は何でも文飾を好む、言葉でも何でも飾る、飾らんと承知しないので、それで支那人の國民性は文であります」(内藤湖南「大阪の町人學者富永仲基」)。たしかに、と思う。


フィリピンを除く東南アジアは、ベトナム中国文明圏であるほかは、インド文明圏に属する(カレーを食べる)。その地域に繁茂繁殖する乗り物に、オートリキシャ(三輪タクシー)がある。人工物であり工業製品であるけれど、その分布は「生態学的」と言っていいと思う。その理由は、ドアがなく開けっ放しで、寒いところでは無理な反面、暑いところに好適な乗り物であり、また、道が狭いいうインフラ面、人口稠密かつ公共交通の発達度が低いという点など、要するに「低開発」と一言ですませられてしまう地域特性と関連があって、そういうところで威力を発揮するわけだが、その「低開発」そのものが「生態学的」な現象であるらしいことも示している。小口短距離なら非常に便利である。合理的であって、地域の需要を満たしている。効率という点ではいいとは言えず、人件費の高い国ではこんなまねはできないだろうが、ここは安い。要するに、与えられた条件に対する最適解なのである。
蓄電ランプというものがある。電気をためることができるので、停電になっても2、3時間は灯りがつく。だが、便利なようで、実はあまり便利でない。屋内でコンセントにつないだままでしか使えないのだ。電気のない野外とか災害後も停電時に使おうとしてもだめである。非常時には役に立たない。日常でしか役に立たず、その日常は、ときどき1、2時間ぐらい電気が止まるという日常である。そういう「日常」のあるところでは便利であるが、それのない、たとえば日本では使えない。限定的な状況に対する最適解であって、限られた分布域しかもてない。その意味では、ありかたがリキシャによく似ている。いわゆる伝統的な「民具」とは異なる大量生産工業製品であるが、しかしなお立派な「民具」である。民俗学博物館に飾られる値打ちはある。


雑駁な話の羅列になったが、日ごろ考えていることを述べた。その結論は、インドさん、ありがとう、ということである。


(デリーで行なわれた日印民俗研究セミナーで発表したものを再録する。)