タタールを追って(3)

4.カザン・タタール人の民族形成

 カザン・タタール人は、一言で言えば、金帳汗国から分かれて15−16世紀にヴォルガ川中流、カマ川と合流するあたりの地域に栄えた、イスラムを奉ずるカザン汗国の住民の後裔である。その版図の中核地域は今日のタタールスタン共和国に当たる。しかしカザン汗国の存在したのはわずか1世紀あまりである。それ以前の長い歴史があるのはもちろん、滅亡からもすでに450年を閲している。両者が単純に等号で結ばれないのは言うまでもない。
 また、環境も違えば前史も異なるのだから、同じ金帳汗国からの起こりや、そこに由来する国のかたちをもつ他の諸「タタール」と違う、カザン独特のものは当然ある。それらの点に留意して見ていくことにしよう。
 カザン・タタール人の歴史をたどることは、われわれが(自覚せぬ偏向教育の結果として)何気なくヨーロッパやロシア中心史観で眺めている民族や歴史の風景を、ステップからの視点、イスラムからの視点によって眺め返す作業になるであろう。


<ブルガール人>
 この地域に古くから住んでいたのは、おそらくフィン・ウゴル系の民族であったろう。しかし7/8世紀のブルガール人の北上をもって、今日まで続くこの地域の相貌の基本的な部分が定まった。ヴォルガ・ブルガール人はカザン・タタール人の直系の先祖と言っていい。
 ブルガール族は481年から記録に現われる。4世紀に黒海北の平原に出現し、東ゴート族を襲って民族大移動を引き起こしたあのフン族の一部だと考えられている。現在のハンガリーあたりを本拠にしたフン族の大帝国自体は、5世紀にアッティラのもとで最盛期に達したが、453年の彼の突然の死のあと、実にあっけなく崩壊してしまう。カリスマをもった強力な指導者のもとに大同結集し、短期間に強大な帝国を築き上げる一方、そういう有能な指導者が失われると崩壊するのも速いという遊牧民族国家の宿命の典型である。
 ブルガールはビザンツの記録にフン族の一つとして名前があがる(ザハリアス・レトルの「教会史」など)。むろんここでも部族連合が問題になるのであって、ブルガール族とフン族の関係も、彼らがフン部族連合の中核部族であるフン族と同一であるとか、その後裔であるということではなく、フン部族連合の一員であったということである。現在のブルガリアに国を建てたドナウ・ブルガール族の汗の名前を書き上げたものが伝わっているが、その初代と二代目の名はアヴィトホルとイルニクで、フン族アッティラとその息子イルナックを指す。周りからフン族との関係を指摘されるだけでなく、彼ら自身もフン族に連なるものとして自己認識していたことがわかる。強大な国を築いた部族や英雄の名を尊び、自らをその後裔と考えるのもまた、遊牧民族らしい心性である。
 ハンガリーマジャール)人の言語はフィン・ウゴル系ではあるが、ブルガール語起源の借用語が多く、ブルガール族と接触をもっていた期間が長くあったと思われる。彼らの自称マジャールに対し、ヨーロッパではハンガリーとかウンガルなどと呼ばれるが、それはブルガール部族連合の一部族オノグル族の名の転じたものとされる。マジャール人フン族との兄弟伝説があることは前に触れた。同じくブルガール部族連合に属していたクトゥリグール人とウイグール人の間にも、フン族の王の二人の息子に由来するという似たような伝説があり、牝鹿を追いかけて新天地へ渡るというディテールも酷似する。ハンガリー人のフン伝承はブルガール人に発するわけで、それはブルガールとフンの関係を側面から証言していると言える。なお、「ブルガール」という名称の語源は、「混じりあったもの」だとされる。
 ビザンツ帝国は伝統的に黒海北岸の遊牧諸部族に対し、遠交近攻、異民族をもって異民族を制する政策を取っており、ブルガール族とも、それが強大になったり接近しすぎるまでは同盟関係があった。619年にブルガールの首長がコンスタンチノープルを訪れ、キリスト教の洗礼を受けたという記録がある。だがこれは一時的な出来事だった。813年にコンスタンチノープルを包囲したクルム汗率いるドナウ・ブルガール族は、まぎれもない異教徒であった。彼は城壁の近くで動物や人間を生け贄にする儀式を執り行っている。彼らがキリスト教に改宗するのは、9世紀後半のボリス汗の時である。そして別派のヴォルガ・ブルガール族はイスラム教徒になった。


<ヴォルガ・ブルガール国>
 ビザンツの歴史家が伝えるところによると、アゾフ海とクバン川のあたりに、「古き大ブルガリア」があった。7世紀中葉、クブラートがその支配者だった。彼の死(642)後、部族は五人の息子の率いる五つに分かれた。長男のバヤンは元の地にとどまり、次男のコトラーグはドン川の西岸へ、三男アスパルフはドナウ下流へ移った。四男はパンノニアへ行ってアヴァール族の臣下になり、五男はイタリア半島ラヴェンナの南へ移住した。この伝えが史実そのものでなくとも、いくらか史実を反映するものではあろう。
 ヴォルガ川・カマ川合流地域まで北上し、いわゆるヴォルガ・ブルガール国を建てたのは、このうちのコトラーグの率いるブルガール族だったとされている。彼らはコチョ・ブルガールと呼ばれた。コチョとはドニェプル川のことである。
 長子の継いだ部族はクピ・ブルガールと呼ばれた。10世紀にビザンツやロシア(ルーシ)の史料に現われる黒ブルガールも、彼らのことと思われる。故地にとどまった彼らは、ハザール汗国の貢納国となった。ブルガール族の分裂も、このハザール族の勢力伸張と圧迫によるものであろう。アスパルフに率いられ、ドナウ下流のドブルジャ地方へ移住したブルガール族(いわゆるドナウ・ブルガール)は、のちにビザンツ帝国の脅威となるほどの国を建てた。テュルク系であるブルガールの支配層は、のちに住民の大多数であったスラヴ人に同化され、今日のスラヴ系ブルガリア人となった。
 ヴォルガ・カマ流域に移住したブルガール人は、二つの大きな転換を体験することになる。一つは農耕への従事、もう一つはイスラムの受容である。黒海北岸のステップを離れ、草原に森林が混じり、遊牧に好適でないかわりに農耕には適している地域に移り住んだことは、彼らの生業を大きく変えた。この地の彼らは犂を使う耕作者だった。922年にこの国を訪れたイブン・ファドラーンによると、「彼らの主要食物としては、小麦や大麦も多いが、一般には粟と馬肉である。耕作する者は何人も自らのために収穫し、王はその件について何等[収税の]権限をもっていない。ただし、毎年、彼らは一戸あて黒貂の毛皮一枚を王に納めることになっている」[家島 1969:47]。イブン・ダスタも租税として王に馬を納めていたと書いているし、テントで暮らしていたとの記述もあって、まだ遊牧生活を色濃くとどめていたことがうかがえる(その頃は都市も築かれていなかったようである)。毛皮の形の税に注目すれば、後世ロシアがシベリアの異民族に課した毛皮税ヤサークは、その語とともに制度もタタール起源であったことも思い起こされる。
 上述イブン・ファドラーンは、バクダードのカリフから派遣された使節団の一員としてブルガール国を訪れた。それまでにイスラムへの改宗は行なわれていた。イスラム教地域からかなり北にはずれたところに、イスラムの隣国もなく、ただひとりこの教えを受け入れたのはなぜだろうか。当時イスラム文明が全盛期で、その光彩を世界に輝かせていたということのほかにも、その動機の一つを推測することができる。南方の強国、北コーカサスアゾフ海からヴォルガ下流域に版図を広げていたハザール汗国は、ユダヤ教に改宗したことでよく知られている。改宗にあたって、キリスト教イスラム教・ユダヤ教の代表者を集め、宗論させた上でユダヤ教を採用したという伝説がある(註7)。実際のところは、強力な隣国、キリスト教徒のビザンツイスラム教徒アラブの宗教を避け、それに対抗しようとしたという動機が大きかったろう。それは8/9世紀の頃だったと思われる。ブルガール国はハザール汗国に貢納を納める立場にあった。国力をつけたブルガールがハザールの支配を脱する政策の一つとして、ハザールが行なったのと同様に、宗教を自立の手段としたというのはありそうなことだ。ハザールのユダヤ教への対抗が、ブルガールのイスラム受容の有力な一因だったと思われる。9世紀末から10世紀初め頃と考えられる改宗の時期も、それと符合する。
 ブルガール国は重要な通商路であるヴォルガ川中流に位置し、交易によって栄えた。輸出品で最もよく知られたものは毛皮と奴隷(主にスラヴ人の)であるが、そのほか馬や山羊の皮、靴、武具、羊や牛、鷹、雲母、木材、胡桃、蝋、蜂蜜などがあった。毛皮のためにさらに北方の民族とも交易している。これらの経済活動によりいくつかの都市が発展した。ヴォルガ川とカマ川合流点近くのボルガールが最もよく知られており、そのほかにビリャールやスヴァールも大きな町だったが、今はいずれも廃墟である。ボルガールからはアラビア文字で書かれたブルガール語の墓碑に混じってアルメニア語の墓碑も見つかっている。アルメニア人の居住区があったらしい。ボルガールはモンゴルの征服後も繁栄し、13・14世紀がその最盛期だった。皮細工に巧みで、その製品は「ブルガリ」として知られる。しかし14世紀末のティムールの攻撃やロシア人の掠奪によって衰退し、新ボルガールと呼ばれる北方のカザン市の興隆に取って代わられて、没落した。
 ブルガール国には、バルスーラ、イシュキル(アスキル)、ブルカール、バランジャールの四つの部族ないし氏族があった。スヴァス(あるいはスヴァール)という部族もあって、イブン・ファドラーンによればその王はイスラム教徒ではなかった。これが後代のチュヴァシとなった人々ではないかと思われる。その族名は都市名とも共通する(ボルガールもそうである)。
 イブン・ファドラーンは、なぜかブルガール国のことを「サカーリバ国」と呼んでいる。サカーリバというのは本来スラヴを意味するアラビア語なのだが、ゲルマン人のことをそう呼んだ例もあり、北方の紅毛白人種を指してあまり厳密でなく用いられたようだ。コンスタンチノープルを攻撃したドナウ・ブルガールの汗シメオンを、「サカーリバの王」と書いた記録もある。これはしかし、ドナウ・ブルガール人がその頃までにスラヴ化してしまっていたことの傍証ともとれるが。ヴォルガ・ブルガールがサカーリバと呼ばれた背景には、その臣下にスラヴ人を多く含んでいたということがあるのかもしれない。しかし 「サカーリバ」はあくまでイブン・ファドラーンがそう呼んだ他称で、彼の報告中、王は自分自身を「ブルガールの王」と称している。
 ヴォルガ・ブルガール語はハザール語と似ていたらしい。しかしハザール語の言語資料はほとんどない。ヴォルガ・ブルガール語については13・14世紀のアラビア文字で書かれた墓碑銘が残っている。テュルク語派に属する言語ではあるが、他のテュルク諸語とはかなり異なる。現在の言語ではチュヴァシ語が、同様にテュルク語派ではあるものの、テュルク語を分類すれば、まずチュヴァシ語一語と他の諸言語に分けられるというように、このグループの中でひとり特異である。このチュヴァシ語がブルガール語と同じ性格の言語であることは、言語学的に認められている。しかしそれは言語についての話であり、民族としてチュヴァシ人がブルガール人の後裔だとは必ずしも言えない。というのは、ブルガール人はイスラム教徒であったが、チュヴァシ人は、いくらかイスラムの影響を受けていたことは認められるものの、いわゆるアニミスト、イスラムキリスト教も奉じない固有信仰の人々だったからである。ブルガール人の後裔であるとしても、それはやはり辺境の、イスラム化していないブルガール人だったはずである。ブルガールの主要部分は、言語はキプチャク語系に変わってはいるが、居住地域と宗教で重なるカザン・タタール人となったと考えられる。
 アルタイ語学者として著名な服部四郎は、専門はむしろモンゴル語学だが、夫人がタタール人であった関係で、タタール語についてもいくつかすぐれた論考を残している。彼によれば、タタール語・バシキール語は、カザフ語やキルギス語などと同じくテュルク諸語のキプチャク・グループに数えられるが、同じグループの他の言語とも、それどころか他のテュルク諸語(これもかなり特異なヤクート語を含み、チュヴァシ語を除く)とも、母音の対応が異なる。他のほとんどのテュルク語でeと発音されるところで、この両語ではiが現われ(チュヴァシ語ではi,a)、oにはu(同a,u)、iにはe(同e)、uにはo(同a)が対応する。これは、この両語の基層言語であったブルガール語の性格を残し、上層にかぶさったキプチャク語に同化されきらずに現われているのではないか、というのが服部博士の説である。卓見であろう。


<金帳汗国とカザン汗国の時代>
 ブルガール人は、モンゴルの西征最初期の攻撃は退けることができた。1223年、カルカ川畔の戦いにロシア(ルーシ)・キプチャク軍を破ると、ジェベとスベテイ率いるモンゴル軍はブルガール国にも侵入したが、撃退された。しかし1236年、バトゥ率いる西征軍によってブルガールは征服される。このポーランドハンガリーまで蹂躙した大西征のあと、黒海からカスピ海北の草原(キプチャク草原)を中心に、ジュチ・ウルス、いわゆる金帳汗国が成立する。
 前述のように、金帳汗国の「モンゴル人」支配層は14世紀中に、言語はキプチャク (クマン)語に同化され、宗教はイスラムを受け入れた。遊牧民族国家は構造的に長く強勢を保ちえないようになっている。金帳汗国もそのような例に漏れず、15世紀までに弱体化していた。この世紀のうちに、金帳汗国内の内紛の結果として、チンギス汗王家に連なる王族がクリミア、カザン、アストラハン汗国などを建てていった。
 ボルガール市が金帳汗国においても栄えていたように、ブルガール人の住民もなおこの地域に存続していたと思われる。その状況を変えたのは、金帳汗国から分立したカザン汗国の成立であった。キプチャク語を話し、タタールと呼ばれ、おそらくは自らもそう称していたらしい王族貴族らが金帳汗国の中核地域からやってきて、カザン地域の支配層になり、住民の言葉もそれに同化されていった。そして他称の名称も、この頃からタタールとなった。ロシア側の記録から、カザン汗国成立を契機としてブルガールとタタールの名称が交代するのが確認される。「ブルガール」の名は1431年を最後にロシアの年代記から消え、その後は「タタール」がヴォルガ中流域のイスラム教徒を指す名称となる。「ベセルメン」(ロシア年代記はブルガール人をそうも記していた)と「タタール」を区別した最後の例は、1468年に見られる[Kappeler 1982:56]。
 カザン汗国(1437/45−1552)は、ブルガール国と同様、その交易上の好適な位置によって利益を占め、栄えていた。しかし、この時代の前半はモスクワ大公国を圧して強盛を誇ったが、後半は内訌のためモスクワにしばしば圧倒された。汗国が存在したわずか1世紀あまりの間に、のべ21人の汗が即位した。同一人が二度三度と汗位を追われてはまた復位したというケースが何回もあるので、それを差し引いた実数で見ても14人である。同じ時期のモスクワ大公国の君主は父子相伝でたった4人であり、効率性や継続による力の蓄積において断然差がある。後半期にモスクワにしてやられたのも、むべなるかなである。しかしこの時期を通じて力でモスクワに立ち勝っていたクリミア汗国でも、のべ15人、実数で10人の汗が位にあった。遊牧民族国家の宿弊、兄弟相続と実力主義の問題がそこにある。汗位の相続がそのような原則によっているため、汗位継承をめぐって候補者とその徒党の間の争いが絶えず、そこを外部勢力につけこまれる。1452年ごろモスクワ大公国の保護下に成立したカシモフ汗国の初代の汗は、カザン汗国の汗位争いに敗れたカシムであり、この国は他の汗国の汗位請求権者の亡命寄留地のような存在だった。モスクワは彼らをうまく利用した。


<ステップ世界の関係者・リトアニア
 金帳汗国の時代、古くからのロシア(ルーシ)の諸公国は弱体化したが、14・15世紀、モスクワ大公国と並んでリトアニア大公国が興隆し、両国はかつてのルーシの国土の東半と西半の諸国をそれぞれ併合していった。キエフの遺産の争奪である。リトアニア人はスラヴでなく、バルト諸語に属する言葉を話すカトリック教徒であるが、この時点においてはリトアニアは「ロシア」の国と見なされていた。そのキリスト教カトリック)改宗も1385年と非常に遅く、それまでは「異教徒」であったことには注意しなければならない。その年にリトアニアポーランドとの王朝連合を形成するが、1569年のルブリン合同によってポーランドへの従属が決定的になるまで、つまり金帳汗国衰退期には、かなり独立した存在だった。
 現在のウクライナ地域をも占めていたリトアニアは、モスクワやクリミア汗国と並んで、ステップ世界における金帳汗国の遺産の争奪にも加わっていた。このステップとのつながりを証する事実の一つが、リトアニアポーランドにおけるタタール人の存在である。彼らは14・15世紀に移住してきて、ヴィルノやトロキの周辺に住んだ。戦士として奉仕し、中小貴族の待遇を受けた。そのほかタタール人カザークコサック集団もあったという。今も残るポーランドタタール人たちは、言葉はポーランド語に同化されているが、信仰はイスラムを守り続けている。
 もう一つ、リトアニア大公国のステップとの特殊な関係をうかがわせてくれるのが、カライ派ユダヤ教徒たちである。彼らの本拠地はクリミア半島あたりにあり、そこから13・14世紀に移住してきた。ラビ派と違うその教義の特殊性にも増して、テュルク語を母語とする点にまず驚く。宗教言語はヘブライ語であり、文字にもヘブライ文字を使うが、話している言葉はキプチャク(クマン)語に近いテュルク語であった。彼らは農業や手工業、商業や行政事務などに従事した一方、戦士として非常に有用だったという。彼らの起こりは、あのユダヤ教に改宗したハザール汗国にまで遡るに違いない。クリミアはハザールの領土だった。言語がハザール語(よくわかっていないが、テュルク系であってもキプチャク語とはかなり違う言葉であった)でなくキプチャク語である点から見て、直接的にはカライ派ユダヤ教を受容したキプチャク人を先祖とするのであろうが、それがキプチャク化したハザール人であったということは十分考えられるし、いずれにせよユダヤ教とのつながりはハザールの用意したものである。また、10世紀末から興隆するセルジューク朝の初期の家系には、ユダヤ的な名前が散見するという。テュルク人とユダヤ教の奇妙な関わりには注目する必要があろう(註8)。


ロシア帝国の下で>
 1552年、カザン汗国はモスクワ大公国のイヴァン雷帝によって征服される。この出来事は、タタールにとってもロシアにとっても歴史の大きな転換点になった。カザンに続くアストラハン汗国の征服(1556年)、さらにシビル汗国へのエルマークの遠征によって、遊牧世界とイスラム世界に対するロシアの勢力拡大、前者と後者のバランスの逆転が起こった。けれどもこの時点ではまだそれを過大に考えてはいけない。クリミア汗国はなお18世紀に至るまで強力であったし、ヴォルガ下流域は手に入れたものの、カザフ・ステップは19世紀まで遊牧民の天地であったのだから。しかし突破口は開かれた(註9)。
 カザン征服は、初めは国内の党派争いをめぐる、自派を後押しするモスクワの武力介入であった。モスクワ・クリミア・カザンなどの有力なプレーヤーたちが繰り広げる勢力争いのうちで、ある一つの国が他の同等の国を完全に支配下に入れるということは予期されていなかった。だが、ある時点で事態は決定的に変化した。
 カザン汗国の征服によって、タタール人の歴史は新たな段階に入る。首都カザンはロシア人の都市になった。その市内にはタタール人の居住はほとんど許されず、市壁の外のタタール人居留区に住むばかりとなった。カザンのみならず、この時期モスクワの軍門に下った、あるいはロシア人によって新たに興されたこの地域の都市は、ことごとくロシア人の町であった。ロシア農民の入植も始まり、彼らは川沿いや幹線交通路沿いのよい土地を占めた。都市が栄え、都市住民という性格を持っていたタタール人は、こののち農村へ、ひきこんだ土地へと移り住むこととなり、タタール文化は農民文化の様相を強くしていく。
 このような重大な変更が抵抗なしに遂げられるはずはない。繰り返される反乱の歴史が征服直後の1552−57年に始まり、1571−73年、1581−85年、動乱時代の1606−11年と続き、その後もステンカ・ラージンの乱(1670−71)、プガチョフの乱(1773−75)などがヴォルガ下・中流域を舞台にして起こった。大規模な反乱であった後二者は、ステップの住民たるコサックを中心に、彼らの隣人であるこの地域の異民族を巻き込んで繰り広げられた、いわばステップの反抗であった。
 反乱はいずれも鎮圧される。抑圧や弾圧は離散を招く。こうしてタタール人は、旧ソ連時代1989年の統計で、全土で664万人のうち、「本国」タタールスタン共和国にはその四分の一弱の176万人しかおらず、残りは中央アジアやヴォルガ流域以東、西シベリアなどに分散して暮らすディアスポラの民族となった。タタールスタンで彼らは 48.5%と半数に満たず、43.3% のロシア人と拮抗している。タタールスタンの東に隣接するバシコルトスタンにはタタール人が112万もいて、人口の 28.4%を占め、本来の主であるはずのバシキール人を少数派に追いやり(21.9%)、ロシア人 39.3%と三つ巴をなしている が、これなど汗国滅亡後のタタール人東方移住の直接の結果である。
 もちろん、ロシア帝国に組み込まれるにあたって、あるいはそれ以前から、モスクワ国家に仕官するタタール人、いわゆる「仕官タタール」もいた。この場合の「タタール」というのは身分の名前である。民族的出自で言えば、タタール人が多数ではあったものの、その中にはチュヴァシ人、マリ人、モルドヴィン人なども含まれていた。また、優秀な戦士であったタタール人は、リヴォニア戦争などモスクワの戦った西方の戦いに動員された。
 キリスト教国ロシアは、当然のことながらイスラムに対する抑圧を行ない、アメとムチでキリスト教への改宗を推し進めた。この結果クリャシェン(タタール語でケレシェン)と呼ばれる正教徒タタール人の集団が生まれたが、大多数のタタール人はムスリムのまま残った。イスラムは文明であり、信仰体系と並んでアラビア文字による書記法や文学伝統、教育制度などをしっかり保持していたタタール人は、外面的な強制に屈するところ少なかったわけである(註10)。一方で、イスラム教徒のタタール人・バシキール人以外のこの地域の「異族人」(イノロージェツ)は、「アニミスト」とされる固有信仰の徒であったが、彼らは18世紀中にほぼキリスト教化された。ケレシェン・タタール人は、19世紀に二度にわたり集団的なキリスト教の棄教を行なっている。イスラムの根強さが知れる。結局ケレシェンの数は、1926年に約12万人であった。
 タタール人については、キリスト教化どころかむしろイスラム化のほうに注目すべきかもしれない。18−19世紀のカザン県におけるタタール人とチュヴァシ人の人口を見ると、タタール人は1762年に76,703人だったものが、1834年308,574人、1904年772,698人と推移する(1762年を 100とすると、402−1007)。それに対して、1762年に90,921人と、タタール人より多かったチュヴァシ人は、1834年には300,091人と追い抜かれ、1904年は550,604人で、差がさらに広がっている(同:330−606)[山内 1986:76]。この間、タタール人にカザン県外の東方地域への流出が多かったことを考え合わせれば、この両者の間の人口比率の増減は不自然だ。それは、イスラムに改宗するチュヴァシ人が少なからずあり、ムスリムとなった彼らはタタール化したのだという事情をうかがわせる。イスラム化に伴うタタール化は、チュヴァシ人だけでなくマリ人やその他の民族についても起こっていただろう。宗教の線によって民族が整理されているのである。
 小さな下位民族集団の例だが、今のウドムルト共和国に、ベセルミャンと呼ばれるウドムルト語を話すイスラム教徒がいる。ベセルミンがロシア人のブルガール人を指して言う言葉だったところから見て、おそらく北へ移住しウドムルト語に同化したブルガール人だろう。逆に、タタールスタンには少数のカラタイと呼ばれるタタール語を話すモルドヴィン人正教徒がいる。これらは言語において周囲に同化しながら、信仰は同化されなかったケースであり、宗教の持続性のほうが言語のそれを上回っている。
 イスラム化がタタール化と結びついているのに、キリスト教化はなぜ広範なロシア化をもたらさないのか。チュヴァシ人・マリ人・ウドムルト人・モルドヴィン人やケレシェンは、一部はきっとロシア化しただろうが、大多数は彼らの言語や生活文化を保っている。改宗しロシア本土に移住したタタール人貴族などは完全にロシア化しているのだから、まず第一に共同体という生活のあり方がその理由の根本であろう。もう一つ、こんなことも考えられる。ロシアの農民には国有地農民と領主農民の二つの大きなカテゴリーがあり、後者はつまり農奴である。「異族人」の農民は、ヤサーク農民というカテゴリーに属し、国有地農民と同じような待遇であった。ロシア社会の上層はロシア人によって占められるが、下層の農奴もまたロシア人のポジションである。同じ農民階層に属するロシア人たちの境遇は、全くもって魅力的なものではない。キリスト教化に経済的なメリット(税制上の)があったとしても、それが直ちにロシア化に結びつかなかったのも、また自然だ。
 ロシア帝国下のタタール人は、帝国の進出に寄り添うように、カザフ草原中央アジアとの交易に携わり、利益をあげた。宗教を同じくし、言葉や慣習の似ている強みが生かされた。すでにイスラム教徒ではあったものの、表面的な受け入れにとどまっていたカザフ人などにイスラムをしっかり根づかせたのは、タタール人の商人や教師、ムッラーたちの業績だった。逆説めいたことだが、ロシアのもとでイスラム化は深まった。抑圧の下、モスクの新設や修復が禁止され、1740−43年の間にはカザン県の536のモスクのうち、418が破壊されたというような状況においてもである。イスラムに理解のあった啓蒙専制君主エカテリナ2世の登場で、このような状態は好転する。1788年、ウファーにムスリム宗務協議会とその長ムフティー職が設置され、ロシアのムスリムたちを統括することになった。彼女の時代には、現在カザンにある最古のモスクが石造りで建てられもした。ただし、そのようなタタール人の宗教的・政治経済的なリーダーシップは、タタール・ヘゲヘモニーとして他のテュルク系イスラム教徒の間に警戒感を呼び起こすことにもなる。
 18世紀の末、航海中遭難してアリューシャン列島に漂着した大黒屋光太夫は、エカテリナ2世に拝謁し帰国を嘆願するために、シベリアを横断してサンクトペテルブルクへ旅をした。日本へ無事帰還してのち、彼から取られた聞書きの記録「北槎聞略」に、タタール人についての短い記載があって、当時の彼らの風俗をうかがわせてくれる。
「タニラ[タゝラの誤記か] 即韃靼なり。頭髪を剃、頂に一寸五分斗にまるく剃残し、三つに組い後に垂れ、鬢にも少し計毛を残し、小さき笠を戴く。衣服は獣の皮或は哆囉呢[ラシャ]にて、長さ僅に腰に至る。女子の服は綿布を用ゐ、長さ身にひとし。居所は床をはりつめ哆囉呢の類を鋪く。戸外にて沓を脱て内に入。トボルスキ近傍より此所彼所に散居す。その酋長はカザニに居る。官はポルコウニカ[六等官]なり。衣服屋室ともに魯西亜の制を用う。タニラの租税は皆此酋長の方にとりあつめて本国に送る。今の酋長の妻は本国の人なり。常食は多く饂飩なり。制は此方と同様にて牛乳に蘸し食ふ。賎人の家には地炉なし。竃は此方の模様に似たり。但烟閣は本国の如くに造るとなり」[桂川 1990:101]。


<ミシャルとバシキール
 カザン・タタール人は、タタール、ミシャル、ケレシェンの三つの下位集団から成っているとされる。ケレシェンについてはすでに見た。モスクワによる征服後、キリスト教に改宗したタタール人のことで(その中にはタタール化したチュヴァシ人なども含まれているかもしれない)、その起こりは新しく、ほぼ年代も特定できる。言葉はタタール語で、アラビア語やペルシア語の影響が少ないという意味では、よりタタール的なタタール語だと言える。衣服など生活文化では、宗教を同じくするロシア人やチュヴァシ人と似たところが多い。
 ミシャルというのはタタール語の西部方言を話すイスラム教徒で、メシチェルなどとも書かれた。現在のタタールスタン共和国の南縁にもいるが、むしろ国外の西方・南方に散在している。生活文化において周囲の他民族の影響を受けている部分もあるけれど、タタール人と基本的にほとんど違わない。
 興味深いのは彼らの名前で、そのマジャル(ハンガリー人の自称)との類似である。ミシャルは昔はオカ川のあたりにいたようだが、テュルク化、タタール化したフィン・ウゴル系の民族であったと考えられている。その名称の類似から、ミシャルとマジャルの間には何らかのつながりがあっただろうと多くの学者が推定している。マジャール人たちは、9世紀末に現在の居住地カルパチア盆地に到達したのだが、そのときの彼らは、メジェル、ニェーク、キュルト・ジャルマト、タリヤーン、イェネー、キェール、ケスィの七部族の連合を成していた。その前は黒海北の草原にいて、ハザール汗国に属していた。さらにそれ以前は、現在のタタールスタン東部かバシコルトスタンあたりに比定される「大フンガリア」に住んでいた。もともとはフィン・ウゴル系であるが、遊牧生活に移り、ブルガールやハザールと密接に接触し、テュルク系の言語や文化の影響を強く受けていた。ビザンツの記録は彼らを「トゥルク人」と書いているほどである(ロシアの年代記には「黒ウゴル」と書かれる)。このマジャール人の一部は、移動せず「大フンガリア」の故地に残ったとされる。そのとどまった同族たちを探そうと、13世紀、モンゴル襲来前後に、ハンガリーの修道士ユリアヌスがこの地方を旅した。彼はその地でハンガリー語の通じる人々に出会ったが、次に来たときには、モンゴルの襲撃の結果もはや見出だすことはできなかったという。
 明らかにマジャール人と関係があり、それがやや錯綜しているのは、バシキール人(自称バシコルト人)の場合だ。現在バシコルトスタン共和国を作っているバシキール人は、カザン・タタール語に近い言葉を話すイスラム教徒の遊牧民であった。10世紀初めのイブン・ファドラーンの旅行記にも、ブルガール国へ着く前に「バーシュギルドと呼ばれるトルコの一部族の国に立ち寄った」ことが記されている。彼らの中には、すでにイスラムを信仰している者もいた。
 バシキールの部族のうち、ユルマティ、イェネイは、マジャール七部族にもその名がある。のちにハンガリー人となり、バシキール人となった人々の一部がある共通の祖先に遡ることは、これからもわかる。そのことを踏まえてかどうか、中世の史料中、ハンガリー人はしばしばバシキール人と同一視されている。たとえばルブルクのギョーム修道士の報告書には、「エティリア[ヴォルガ]河から旅すること12日で、ヤガト[ウラル]河と呼ばれる大河に出くわしました。この河は、北方のパスカトゥル人の住む地方から流れてきて前述の海[カスピ海]に注ぐのです。パスカトゥル人はハンガリー人と同じ言葉を使い、牧人生活をしていて都市は一つも持たず、その領域は、西方で大ブルガリアにつづいています。・・・のちにハンガリー人として知られるに至ったフン人は、このパスカトゥル人の地域からやって来ました。これが大ハンガリーのおこりです」[カルピニ/ルブルク 1989: 191]。カルピニの旅行記にも「コマニアの北方」に「ブィレル人つまり大ブルガリア・バスタルク人つまり大ハンガリー」があると記されている。パスカトゥル(バシキール)人とハンガリー人が同じ言葉を使うというのは、彼らの少し前にこの地域を旅した前出ユリアヌス修道士の報告に基づく。しかし彼は、その言葉の通じた人々がバシキール人だとは言っていない。バシキールハンガリー同一視は、イスラム文献に遡るのである。10−14世紀のイスラム史料では、ハンガリー人は「マジュガリー」「マージャール」等のほかに、「バシュギルド」と書かれることが多い。後者は本来のバシキール人のほうも意味する。13世紀後半の地理書では、「フンカル」と「バシュギルド」がハンガリーについて併用され、前者はキリスト教徒の、後者はムスリムハンガリー人を指していたという。「ハンガリー・バシキール同一視」は中世の常識であったようだ。
 ハンガリー人がローマ・カトリックに改宗したのは10世紀の末で、その頃はギリシア正教を受け入れた者も無視しがたい勢力であったし、中世のハンガリーには少なからぬ数のイスラム教徒も住んでいた。キリスト教改宗以前はもちろん、以後もしばらくは部族伝統が生きていただろう。近世以降のハンガリー人は、言語はフィン・ウゴル系、宗教はカトリックないしプロテスタント、主な生業は定住農耕、風俗慣習も西方諸国と大差ないヨーロッパのゆるぎない構成員となっているが、それ以前についても同様に考えるわけにはいかない。近世バシキール人のほうも、キプチャク・テュルク語を話すムスリム遊牧民として、これまた周囲とよく調和した東方の民族地理上のしかるべき位置にある。しかしこの両者には深い関わりがあった。それは、現在を過去へ持ち込む「勝利者史観」からも、危うくまた怪しい起源論のロマンチシズムからも離れ、中世のまだヨーロッパが確立する前の段階で東から眺めたときの、ステップの西限であったハンガリー大平原まで続くドナウ−ヴォルガ間の同時代的風景の中においてである。


<「チェレミス人」>
 「チェレミス」というのは、マリ人を指す旧称だと一般に考えられている。もっとよく知った人は、「マリ」が自称で、「チェレミス」はロシア人やタタール人の言う他称であると説明する。だが、ことはそんなに単純ではない。
 前にも触れた通り、この地域の民族呼称は自称と他称が異なることが多い。タタールはひとまず置くとして、問題のチェレミスとマリのほか、ヴォチャークとウドムルト、モルドヴィン(モルドヴァ)とモクシャおよびエルジャ(ロシア人はひとまとめにするが、彼ら自身は別個のグループだと考えている)などがそうだ。その中で、チュヴァシは自称も他称も「チュヴァシ」である稀な例だ。しかしその語が記録に現われはじめるのはかなり遅く、ようやく1520年代からである。それ以前、彼らは「チェレミス」と呼ばれていた。大ざっぱに言って、カザンの上流のヴォルガ左岸にマリ、右岸にチュヴァシが住んでいる(右岸の一部にもマリがいる)。平坦な左岸の民は「野のチェレミス」、丘陵の多い右岸の民は「山のチェレミス」と呼ばれ、後者が一部にマリも含むチュヴァシであったと考えられている。近代以降の呼び名を調べると、チュヴァシ人はマリ人のことを「シャルマス」と言うが、マリ人はチュヴァシ人を「チュヴァシ」のほかに「スアスラマリ」「クルクマリ(山のマリ)」(「マリ」はもともと「男」の意)と呼んでいる。この最後の例は、まさに「山のチェレミス」である。「オレンブルク地誌」中の、ウファー地方に移住してきたチュヴァシ人は「山のタタール」と呼ばれていたという報告も参照される。
 16世紀から現われる「チュヴァシ」の語の指すものも、一定していなかったようだ。「チュヴァシ」類似の「スアス」は、マリ語でタタール人を意味している。「仕官タタール」は身分表現であったが、「チュヴァシ」にもそういう身分に関わる意味があったらしい。ヴォルガ左岸の、明らかにチュヴァシ人が住んでいなかった地域についての16−17世紀のロシアの記録に、「チュヴァシ」の名が時々現われる。前に見たウドムルト語を話すムスリムのベセルミャンもそう書かれることがあった。ある村の「仕官タタール」の父が「チュヴァシ」でありムスリム聖職者であったというような例、「チュヴァシ・タタール」や「チェレミス・タタール」という表現などから、この時代の「チュヴァシ」「タタール」に身分を表す語としての意味が強くあったことがわかる。その意味の「チュヴァシ」は、ヤサークを納める農民のことであった[Kappeler 1982:85f.]。
 異教時代のマリやチュヴァシの信仰には、表面的なものにもせよ、イスラムの影響が指摘される。それは、豚肉の忌避や金曜日の尊重、マリの春祭「パイラム」などいくつかの宗教上の語などに見られる。両者とも「ケレメト」という邪神と、その名で呼ばれる森の中での犠牲祭を重要な儀式としており、神々にそれぞれ妻を配する体系もよく似ている。
 以前同じ「チェレミス」の名で呼ばれていたマリとチュヴァシは、当時一つの「民族」だったのではないだろうか。言語は異なる。マリはフィン・ウゴル系、チュヴァシはテュルク系の言葉である。チュヴァシについては、ブルガールの後裔というほかに、フィン・ウゴル系の民族がテュルク化したものだという説もあるが、そんなこととは別に、言語を異にする一つの民族というふうにも考えられると思う。衣装や異教時代の信仰にもよく似たところがある。民族呼称(他称としての)を同じくし、風俗生業信仰において類似するのに対し、異なるのはただ言語においてのみである。しかし異なる言葉を話す人々が、なお一つの「民族」であるということは、可能でもあれば、存在もしていた。遊牧民族の場合、言語に頓着せず部族連合を組む例が多々あるし、覇権を握った部族の名を、その旗下に参じた諸部族が自ら称する例も数多あるのは、上に論じた通りである。
 そのほかに気のついた例を挙げるなら、たとえば満洲人は女真人ではない。「マンジュ」というヌルハチの建てた国の、八旗の軍隊に編成された戦士たち、つまり「旗人」の家系の者が「満洲人」である。それはヌルハチに従う女真人のほかに、漢人やモンゴル人が加わったハイブリッドな存在であり、近代的な「民族」ではなく、身分・社会集団であった。近代的「民族」である「満族」は、今日ほとんどが中国語を話しているが、それを、固有の言葉を話していた女真人が中国語を話すようになったと考えるならば、それは「近代病」である。「満洲人」のかなりの部分は、もとから漢族だったのだから。
 「エゾ」もまた、多言語のハイブリッドな集団であった。中世の「エゾ」には、日の本・唐子・渡党の三種があったという。このうち、言葉が通じず風俗生業を異にする日の本と唐子はおそらくアイヌで、後世の東蝦夷と西蝦夷に当たるのだろう。渡党は言葉が通じる。彼らは日本の国家体制の外にある和人だったと思われる。津軽の「蝦夷管領」安藤氏も「エゾ」であった。当時の日本人にとって、「エゾ」とは辺境の和人とアイヌを合わせた存在であり、辺境和人自身も自分たちを「エゾ」と考えていた。アイヌの人々が、自分たちと辺境和人を合わせて一つの「民族」であると認識していたか、辺境和人に対し同族意識を持っていたかどうかはわからないとしても。
 「チェレミス」という後世のマリとチュヴァシを含んだ「民族」の想定は、考慮されてよいだろう。


<「タタール人」の誕生>
 「タタール」という名は他称、とりわけロシア人がそう呼ぶところの名称である。しかし、金帳汗国の主要民族であったキプチャク語を話す人々が、自称としても「タタール」と称していたことはすでに見た。クリミア・タタール人も「タタール」を自称していた。けれどカザン・タタールについては事情が異なる。彼ら自身はそう呼ばれることを好んでいなかったらしい。彼らの間には最近まで「タタールのあるところ災厄あり」などという格言があったというし[小山:139]、カザン汗国時代にも、15世紀の詩人ムハメジャールは、「おお、哀れな愚かなタタールよ/お前は主人の脚に噛みつく犬のよう/不幸せな病気もち/悪党の人でなし/邪な眼の地獄の犬だ」と書いている[Chalikow 1988:38]。イギリスの百科事典(1842)にも、「タタールの名はロシア南部および東部のトルコ人住民に与えられている・・・タタール人は自分たちをトルコ人と呼び、彼らの言葉で「盗人」を意味する名であるタタールと呼ばれると、ひどく傷つけられたと感じる」とある。近代の教育を受けたタタール人は、「私は自分の民族を恥じていた。ロシア人になりたいなどとは思いもしなかったにせよ。けれどタタール人の未開さや文化の欠如と思われるものを恥じていた」というような微妙な感情も持っていたようだ[Rorlich 1986: 4]。
 では彼ら自身の自称はというと、カザン人という、その名を冠する国のない時代やそこから遠く離れた土地に暮らす人々にはいささか不適当な名称や、ムスリムというあまりに一般的な呼称しかない。そのほかにテュルク人、ブルガール人という言い方もあったようだが。16世紀にロシアへ神聖ローマ皇帝使節として赴いたヘルベルシュタインは、タタール人が「ベセルマニ(=ムスリム)と称したがり、自分たちを好んでその名前で呼ぶ」とすでにその報告の中に記している[Herberstein 1984:216]。ステンカ・ラージンが反乱を起こしたとき、彼はタタール人に「カザン人」「ブスルマン」と呼び掛けている。一方、東方のテュルク人にとって「タタール」は蔑称だったが、カザン・タタール人はそう呼ばれるのを嫌わず、自らもそう称していたという証言もある。
 近代になると、対外的また対内的に自分たちの集団を表象する確たる名称が必要になった。明確な輪郭をもった「(近代)民族」の形成とその呼称の確定は、いわば時代の要請であった。このとき「タタール」をそういう名称として宣言したのは、尊敬される歴史家にして宗教指導者のシハベッディン・メルジャーニーだった。「或る人々はタタール人であることを恥じてタタールという呼び名を嫌悪し、我々はタタールでなくイスラム教徒であると言い張る。あわれな人々よ、イスラム教徒以外の呼び名を信仰と信徒の敵とみなすことは、みずからを呪咀することに他ならない。あなたがタタールではなく、またアラブでもタジックでもノガイでもなく、シナ人、ロシア人、フランス人、プロシャ人、オーストリア人でもないとしたらいったいあなたは何者なのだ」(「カザンとブルガールに関する情報の集成」、1885)[小山:138]。20世紀初頭にガリムジャン・イブラギーモフも言う。「われわれはタタールである。われわれの言語はタタール語であり、われわれの文学はタタール文学である。われわれの行なうすべてはタタール的であり、われわれの未来の文化はタタール的なものになるであろう」(1911)[山内: 89]。他称に基づく「タタール人」の自称はここに確定した。なおこの名称を嫌い、「ブルガール人」を採用したがる人は一部にいたが。「タタール人」という「民族」は、名称の確立をもって最終的にこの時期に成立したと言ってよかろう。ロシア革命後のタタール自治共和国の成立(1920)は、これら一連の過程のしめくくりとなるものであった。
 だが民族は決して固定するものではない。無神論を国是としたソ連時代に宗教の垣根が低くなり、それまでは稀な例外だったロシア人とタタール人の結婚が増え、両者の間の子供が少なからぬ割合を占めるようになった。タタール語がその地位を認められていなかった時代、タタール人はタタール語を話し、ロシア語を解する者は少数だった。1825年に生まれた学者カユーム・ナースィリーは例外的にロシア語ができたが、周囲に隠れてこっそり学ばなければならなかった。けれども自治共和国が成立し、タタール語の地位が確立して以後、ほとんど全員が流暢にロシア語を話すようになり、逆に、特に都市部でタタール語の話せないタタール人が増えた。歴史は逆説に満ちている。実態は常に理念を裏切る。「タタール人」は、タタール民族主義者がそう思っているものと同一ではなかったし、ないし、これからもないであろう。それはなお流動を続ける。ほかのすべての民族と同じく。


(註7)キエフ公国ヴラジーミル1世のキリスト教改宗(988年)に先立ち、ブルガールのイスラム教徒、ハザールのユダヤ教徒が招かれ、宗論が行なわれたという伝えがある。ハザール改宗伝説の焼き直しであろう。
(註8)この例に限らず、クリミアというのは非常に面白い土地である。同じくキプチャク語の一種クリムチャク語を話すユダヤ教徒も住んでいた。11世紀アルメニア王国セルジューク朝に滅ぼされたあとここへ移り住んだアルメニア人たちも、キプチャク語を受容した。宗教と文字は変わらないけれど。彼らの一部は、カライ人と同じように、13世紀後半にさらに西ウクライナへ移住した。また、現在ウクライナドネツク地方にわずかに居住している正教徒のウルム人という人々がいるが、彼らはキプチャク系のテュルク語を話すギリシア人の後裔である。ルム、ルームはローマ(ビザンツ)帝国の住民、つまりギリシア人を意味する(ちなみにウルム人たちは、ギリシア語を話すギリシア系の人々を tat と呼んでいるという)。彼らもまた18世紀後半にクリミア半島から移ってきた。 クリミア半島は歴史的に長くテュルク人の支配下にあり、そのリンガ・フランカがテュルク語だったことを映している少数民族・少数言語群である。
(註9)なお、クリミア汗国は1475年にオスマン・トルコの宗主権を認めている。金帳汗国退場に伴うこの地域の新たな枠組みはこのころからできてゆく。
(註10)1897年カザン県における識字率を見ると、タタール人が 20.8%でロシア人の 18.3%を上回っているという(そのほかチュヴァシ人 8.9%、モルドウィン人 9.5%、ウドムルト人 5.8%、マリ人 5.8%)[山内 1986:93]。