インド四変化

「日本人であることの幸せ」は無数にある、かどうか知らないが、そのうちのひとつは「本が読める」ことだ。本なんかどこでも読めるだろうと思われるかもしれないけれど、どうして、そう簡単にはいかない。書物そのものが少ない国は非常に多いし、その流通が全然だめで、本屋が少なかったり、あっても置いてある本がほとんどなかったりして、本を手に入れること自体が大仕事である国は情けないほど多い。かつ、それは社会の発展の度合いであって、国が豊かになれば解消される問題だと考えるのは大間違いで、先進国にはなるほど本も本屋もたくさんあるが、中味のほうに問題がある。内容が非常に偏っていることが多いのだ。これは先進後進を問わない。自文化中心主義はどの民族も陥る罠であるが、とりわけ欧米と中国においてひどい。もちろん日本人にも日本人であることによるバイアスはあるけれども、それはヨーロッパ人・アメリカ人・中国人であることよりはるかにましだ。ムスリムの偏りもひどい。日本人の場合、わずかな努力でその偏向を脱することができると思う。日本人は自分たちが辺境の民であることをよくよくわきまえているのだから。誰にも偏向や恣意はある。辺境ゆえに夜郎自大に陥ることもたしかにあるけれど、注意深い読者はそれを慎重に避けることができる。自分たちの偏りが血肉となってしまっている欧米人を見るときに、この日本人の幸せを強く感じる。
自分が日本人であることにもよるのだろう。民族によるバイアスのかかり方の傾向がある。日本人だから、日本人特有の偏向の傾きを知っている。歪みの補正のしかたをわきまえているわけだ。日本人の次にはドイツ人の書いたものをよく読むが、その理由も同じだ。
知らないということを知っている。これは知っているが、これは知らない。そうはっきり言明できることは、ほとんど才能のひとつだと言っていい。世の中には、知らないということを知らない人たちが多い。信じられないくらい多い。
日本人はおそろしく好奇心の強い民族で、わずか1億ほどの人口のくせに、いろいろなことを調べまわっている。翻訳も盛んに行なう。この世界語とはとうてい言えない辺境言語の日本語で、世界についてよりよく知ることができる。すばらしいことである。
ヨーロッパについても好著名著は数多いが、支那学にはおよばない。内藤湖南など、書いた本すべてが名著である。個人的には、支那学と東洋史が「日本語による読書の楽しみ」のかなりの部分を占める。東洋史とは、要するに支那学に漠北南海(中央アジア西アジアと東南アジア)を加えたものである。これの研究は日本で盛んで、レベルも高い。しかしどういうわけか、わが「東洋史」の視線はインドには届かない。東洋史家は羽の生えた中国史家であって、漢文史料を基にしている。「歴史がないインド」は、歴史漬けの漢文的思考をする東洋史家の手に余るのだろう。歴史史料に乏しいインドは「印度学」の領域となり、「印哲」の差配するところである。それも相応のレベルを示していると思われるが、「特殊領域」たるをまぬがれない。


インドについても、本はけっこうある。たくさんあると言ってもいい。インドにはもちろん興味をもっていたから、できるだけ目を配っていたつもりである。そうではあるが、あのインド、堀田善衛が考えたり、沢木耕太郎が這い歩いていたインドが、突然「躍進インド」になっていて驚いた。気にしていたつもりでも、やはり抜けていたのだろう。インドへ行く機会ができて、赴任準備のため本を読みあさりはじめたときに気づかされた。人民服から浦東まで、中国の変貌も急速で急激だが、隣国だから遅ればせでも追っていた。インドは出し抜けだった。
私見によれば、これまで日本人のインド像は四変化してきた。つまり、坊さんのインド・政治青年のインド・貧乏旅行者のインド・ビジネスマンのインドである。
第1のインド像は、仏教学やインド哲学の研究者によって作られたもので、それら研究者たちの多くは宗門出身だった。宗教的インドというわけで、この国が宗教性において世界に冠たる特質を示していることを考えれば、正統的と言っていい。第2のインドは、独立運動の英雄ガンディーや非同盟で世界をリードしたネルーの時代の輝かしい政治的達成を鑽仰する人々のインドで、時代的制約がつく。第3のは、今や世界のどの隅々にもいる先進国のドロップアウトたちの抱くインド・イメージで、アリの目の旅行記である。いたるところに精神性を見たがるのが他国と違うインドの特性ではあるだろう。そして、いきなり第4のインドが現われる。中産階級のインドだ。おいおい、いつのまに。ついさっきまで貧乏国だったじゃないか。そんな本ばかり読まされていたのに、突然のIT大国である。それが一面真実であることは、ここバンガロールのITヤッピーたちを見ていれば了解できるけれど、こんなに急では驚くよ。貧乏の側面は、貧乏旅行者時代から変わらずに前景にあるのに。
日本人は(日本人にかぎらず、おそらくすべての外国人は)インドに自分の見たいものを見る。それはインドにかぎらないが、とりわけインドは人にそうさせる何かをもっている。この四変化ぶりも、そう考えれば理解できる。そういうことはひとつある。
また、考える。この四印度は、あのカースト制度の四種姓に対応するのではないかと。つまり、それぞれバラモンクシャトリヤシュードラ・ハリジャン(アウトカースト)、ヴァイシャに。それは個々に見れば実際とは違うけれど(ネルーバラモンだし、ガンディーはヴァイシャ、IT技術者は諸カースト混交である等々)、ざっと眺める分には見合ったところがありそうに思える。
初めに日本および日本人を称賛していた口で言うのもなんだが、日本人の弱点も正当に指摘しておこう。流行を追いすぎる。あることがトレンドだと、それに類する本しか現われない。そして一夕トレンドが変わると、すぐそちらへ右へならえ、その方向の本しか出てこない。「バスに乗り遅れない」ことが強迫観念になっている。とはいえ、そういう日本人の偏向も日本人の私は承知しているので、割引きしつつ理解を進められる。だからやっぱり日本は読書の喜びの国である、かな。
インドは遠い、ということでもある。分厚い知識や経験の堆積がないから、ころころ移り変わる。インドのような国は少し遠いほうがいいのだろうと思うが、もっとよく知っていてもいい。知らなければもったいない。でも、知るのはけっこうむずかしい。かなりな図体の象で、われわれは、盲でなないが弱視だ。ことインドに関しては。