亡命大国

ハンガリーで反乱を起こしたラーコーツィやコッシュートは、敗れたあとトルコに亡命した。コッシュートはそこからアメリカへ渡ったが、ラーコーツィは死ぬまでトルコに住んで、その町テキルダウ(ラドストー)にはラーコーツィ博物館がある。イスタンブール郊外にはポロネズキョイ(「ポーランド人村」)というポーランドから逃れてきた人たちの子孫の住む村もある。
われわれの視野からは抜け落ちがちだけど、小さくなった今でもトルコは日本の2倍の面積のけっこうな大国だし、まして第一次世界大戦までのオスマン・トルコは堂々たる世界的大国で、亡命や難民の流入を受け入れる大度があった。
難民受け入れでは、レコンキスタのあとスペインから追い出されたユダヤセファルディムを大量に招き入れたことが有名だ。
ファジリ・イスカンデルの「チェゲムのサンドロおじさん」たち(アブハズ人)も、ロシアの征服後一度トルコへ移り、またもどってきたということになっている。オルハン・パムクの祖母はチェルケス人だそうだ。
タタール人(クリミア・タタール、カザン・タタール)もトルコに多いが、その中には日本から来た人たちがいる。戦前の日本にはタタール人が住んでいた。ロシア革命後逃れてきた人々で、布地の行商などのなりわいをしていた。日本で古いモスクは神戸モスクと東京モスクだが、神戸のモスクがインド人ムスリムの寄付によって建てられたのに対し、東京モスクはタタール人が中心になって建てたものである。ロイ・ジェームズもタタール人だ。無国籍者だった彼らは、戦後トルコ国籍を与えられ、その多くがトルコへ移住した。ヴォルガ発東京経由イスタンブール行きの長い旅路。まだ日本生まれの日本語達者なタタール老人はいくらか存命のようだが、もうすぐ歴史の中に消えるだろう。
チェルケス人の多いこと。金髪だったり細身だったり、見た目はどうもあまりトルコ人ぽくないが、物腰振舞いは全然外国人でないという人を見たら、チェルケス人ではないかと考えてまずまちがいない。チェルケス人意識を強く持ち、しかし「トルコ人」でないとも思っておらず、周囲の人々や生活に溶け込んで、周囲からもまったく偏見を持たれていないチェルケス人は、多民族共存の模範例のように思える。一方でトルコには、代表的な失敗例のクルド人もいるわけだが。ギリシア人、アルメニア人も同様で、その違いはたぶん、彼らのほうが「新参」トルコ人より「土着」であることによるのだろう。
エルジェス大学日本語科の学生にも、チェルケス人やアルバニア人ブルガリアトルコ人タタール人などがいる。教師にはカラチャイ人が。彼らはチェルケス語やアルバニア語、カラチャイ語を今もうちで話しているそうだ。
トルコには66と2分の1の民族がいる、と言われている(「2分の1」というはジプシー。彼らはいつも端数割当てだ)。これはすごい数である。まぎれもない大国である中国が55民族と称しているのだから。ここから、トルコは大国であること、そして中国の55は事実でないことがわかる。
受け入れは今もしているが、帝国時代と共和国時代の明らかな違いは、後者ではムスリムに限る。ボスニアムスリムのように。一方で、キリスト教徒のギリシア人やアルメニア人は激減した。アルメニア人はきわめて平和的ならざるやり方で、ギリシア人はそれよりましな方法で、その数を減じた。ギリシア在住トルコ人とトルコ在住ギリシア人の住民交換などによって。亡命や難民の受け入れには感心するが、「土着民」をもっと大切にしたらいいとも思う。

ナチスはドイツ文化を殺してしまった。多くのすぐれた知性が国外へ亡命した。第二次大戦まではドイツの文化は一流だったが、戦後は明らかに二流である。「大脱出」の結果として。ユダヤ系知識人はもちろんだが、そうでない「アーリア系」もかなり多く逃げ出した。ナチスと親和的だった第一級の知性もいたが、彼らは戦後烙印を押されて、「抹殺」された状態になってしまったわけだし。
亡命の旅の行き先はアメリカが断然多いが(そしてアメリカは戦前のドイツ文化の地位を継承した)、トルコというのも有力な亡命先であった。「ミメーシス」を書いた文芸学者アウエルバッハ、日本とゆかりの深い建築家ブルーノ・タウト、すぐれた中国学者エーバーハルトなどのドイツ知識人がトルコに来た。ハンガリーの作曲家バルトークも、結局アメリカへと亡命するのだけれど、トルコに招かれれば行くつもりだった。バルトークにしてみれば、民謡採集のできない新大陸より、ハンガリーとも共通するところのあるトルコの田舎で民謡を研究しながらナチスの災厄をやりすごすのは、悪くない方法だったろう。トルコは惜しいことをした。

アナトリアへの侵入時、テュルク民族は人口の10−20パーセントくらいしか占めていなかったというのを読んだことがある。そのくらいだろう。今のトルコ人の顔を見れば、歴然としている。ギリシア人やアルメニア人とまったく違わないし、金髪も多い。あれを、われわれによく似た顔のキルギス人やカザフ人と並べてみたらいい。中央アジアから来たばかりのトルコ人はこんな顔だったはずだ。言語では土着民のほうを同化したが、体質や物質文化は土着民に同化されているのが明らかだ。だが、言語とともにメンタリティでは「トルコ性」みたいなものを貫徹しているようで、もとをたどればさまざまな出自の人々が、かなり一体的な「トルコ人」になってしまっているのがおもしろい。
しかしながら、ギリシア人・アルメニア人とトルコ人の見分けをつけるのはむずかしい。「その男ゾルバ」なんて、トルコ人とどう違うのか。豚肉食べることだけなんじゃないか。豚肉を食べないギリシア人・アルメニア人がトルコ人で、食べるトルコ人ギリシア人・アルメニア人。そんなことを言われると三者とも怒るにちがいないが(互いにきらっているので)、客観的にはそうとしか見えません。商売させてみたら違いは即座に出てくるかもしれないけど。父方がカッパドキア出身のギリシア人だったエリア・カザンはみずからを「アナトリア人」と称していたが、それは実に正しい呼称だ。