世界は酒より広い

インドと日本の習慣の違い
スシーラ・メノン

父は神様をとても信じている。それで私たち子供には毎日神様のお祈りをさせていた。父が教えてくれたもう一つのことは、お酒というものは世界でいちばん悪いもの。子供のときからそういうふうに考えさせられた私には、世界にあるものを重要さの順に並べたら、神様がいちばん上でお酒がいちばん下になる。そんな私が、あるとき日本へ行くことになった。日本で朝早くお店に行ったら、店のオーナーのおばさんは、開店の時間だったので、食べ物と何か水のようなものをおいてお祈りをしていた。インドでも神様の前に食べ物やお水を置いてお祈りをするので、同じだなと思った。ところが、それはお水じゃなくてお酒だと友だちに言われて、びっくりした。それから日本では神社でもお酒を神様にあげると聞いた。私の頭の中でのいちばん上のものといちばん下のものを日本人はつなげてしまった。それはインドと日本の習慣の違いだ。その違いから、上のものや下のものというのは人間の頭の中にしか存在していないということがわかった。


これはバンガロール大学MAコースの学生の作文である。日本語を教える楽しみのひとつは外国人の作文が読めることで、それによってわれわれはいろいろな蒙を啓かせてもらえる。
バンガロールの別名は「パブ・シティ」である。酒屋が多く、酒が飲める店が多いのでこう呼ばれる。逆に言うと、酒が飲める店はインドには少ないのだ。バンガロールはイギリス人が作ったと言っていいような町で、発展したのは近年である。IT産業の中心地のひとつで、「インドのシリコンバレー」と呼ばれている。インターナショナルで、人口構成が若くて、若い女性の洋服姿も多い。そのため、インドでは忌避される酒も、かなり大っぴらに飲める。
しかしながら、酒が飲める店といっても、こぎれいなのは外国人やITヤッピーの行くお高いレストランやバーで、庶民が飲むところは汚くて暗い店、人生の吹きだまりのような店である。村上春樹旅行記でトルコのビアホールについて書いているが、あんなものだ。
「ここもひどい場所だった。まずまっくらである。まだ午前十一時だというのに、穴ぐらのように暗い。それもどこか卑猥な暗さである。トルコの町のビヤホールというのは、まるでビールを飲むのが人間の重大な罪であるかのように、たいてい暗くて卑猥で胡散臭くて嫌な臭いがする。人生の吹きだまりという感じがする。客の方もむっつりと暗い顔をしてビールをすすっている。壁には毒々しいピンナップが貼ってある。従業員は無愛想で暴力的である。もちろんそうじゃないビヤホールもあるんだろうとは思う。でも僕がトルコの田舎で入ったビヤホールはみんなそうだった。どうしてかはわからない。これもトルコの謎のひとつである。僕がケマル・アタチュルクだったら、もっとビヤホールを明るくしたけれどね」(村上春樹「雨天炎天」、新潮文庫、1991、p185)。
いや、暗くていいと思いますよ。酒を飲むのは誰が何と言っても悪習だ。酔っ払いは汚いし、醜いし、迷惑だ。くだを巻き、暴れ、服は乱れ、ゲロを吐き、路上に寝る。豚だよ、まったく。
現代世界のヘゲモニーを握っている欧米・ロシア・中国、そしてわが日本が飲酒天国なのでうっかり気づかずにいるが、世界にはイスラム圏やインドなどの非飲酒地域があって、それは面積も広大で人口も多いのである。
日本は下戸という酒を飲まない人種を抱えているのに、権力をほしいままにするアル中どもに迎合して、不当に酒飲みに寛容になっているが、それどころか酒に強い者を尊敬したり、飲めない人を軽蔑したりしているが、それは迷妄というべきものである。迷妄と知りつつ愛するのはいいが、無反省ではいけない。
ま、私は飲むし、飲みつづけますがね。家は酒屋だし、悪習わりと好きですから。