能格とカースト

外国にいると、ときに日本語の本が読みたくてたまらなくなる。ふだんなら読まない本も、そういうときにはむさぼり読んでしまう(女性週刊誌とか、読み捨てミステリーとか)。下宮氏のバスク語入門書を読んだのはドイツでだった。大学図書館の書庫にあるのを見つけた。そこの大学の教授に献呈したものが図書館に収められたらしい。バスク語なら興味があったし、時間さえあれば日本でも読んだかもしれない本で、まして日本語に飢えていて時間ももてあましているその時は、干天の慈雨とばかり勇んで読んだ。練習問題も全部やった。といって、じゃあ何かバスク語で言ってみてくれと言われれば、まったく何も言えないどころか、あいさつひとつ、単語ひとつ思い出せない。きれいさっぱり忘れてしまった。ただひとつ覚えているのは、「バスク語はむずかしくない」ということだけだ。
バスク語は恐ろしくむずかしいということになっていて、悪魔が罰として神様にバスク語を習うことを命じられ、何年も勉強したが全然覚えられない。酷な罰だと気づいた神様に許されて、バスク地方を出ることができたとき、国境の橋を渡ったらわずかに覚えたこともすべて忘れてしまった、なんて話もある。
特に「能格」がむずかしいということになっていて、そのことは聞いていたので、どんなものかしらんと恐る恐る取りかかったが、なに、全然むずかしくないのである。「えっ、これ、むしろかんたんなんじゃないの?」といぶかしく思ったのを覚えている。
悪魔と同じくすべて忘れてしまった私が言っても説得力がないかもしれないが、この話の教訓はふたつある。ひとつは、インド・ヨーロッパ語族人の「外国語能力」は大いに割り引いて踏まなければならないこと。「6か国語が話せる」と言っても、その6つが英・独・仏・伊・西・葡なら、みなインド・ヨーロッパの同族語である。標準語・東北弁・大阪弁・九州弁・広島弁名古屋弁ができるのよりはすごいけども、本質的にはそれと違わない。エリアーデの語学力には驚くけれど、しかし彼ができるのは印欧語である。ヨーロッパだけでなくインドの言語もできるのだが、それもまたインド・アーリアの言語なのだから。「ポリグロット」ということばは、異系の言語がふたつ以上できない人には使ってはいけないと思う。
そんな彼らは、自分たちのファミリーと異なることばは「悪魔の言語」にしてしまう。それらは非常にむずかしいと信じ込んでいる。バスク語もだし、ハンガリー語もそうだ。だが、ハンガリー語など、文法に似たところの多い日本人にはけっしてむずかしくなく、文法的に全く異なる周囲のスラヴ諸言語などよりずっとやさしい。
ふたつめは、上とも関連するが、難解さで名高くても、実は全然そうでないものが多い。能格も、実際に使いこなす場合はともかくとして(それに直面したことがないので)、文法項目として見た場合、ちょっと奇妙ではあっても、難解ではない。私のような語学の才のない者には理解もおぼつかないものかと思っていたので、すらすらとよくわかったとき、「ひょっとしたらこれは能格なんかじゃなくて、ほんとの能格は別にあり、子どもだましのをあてがわれているのではないか」などと邪推までしてしまった。いや、実際、われわれののとは違うがそれなりに論理的で、むずかしいものじゃありません。忘れちゃいましたけど。


同じことが「カースト」にも言える。「カースト」というと、インド社会の宿弊として人口にのぼり、どうかすると「奇習」あつかいもされかねない。
カーストというのは、非常に細分化されているけれど、要するに身分ということだ。社会集団であり、そおれらの集団が階層化されている。内婚集団であり、共食集団でもある。
それなら、前近代社会にはどこでもあった。インドだけのものではない。江戸時代の士農工商だってそうである。能や歌舞伎なんて今もカースト社会で、シテ方ワキ方囃子方狂言方とか名題役者とそれ以外に分かれ、生まれた家の割り当て以外の役はできず、結婚も自集団の中で行なわれることが多い。
インドの特徴はただ、それが社会全体に貫徹されていて、今も生活を規定していることだ。古代・中世が21世紀の現代にも生きているのである。
「近代人」たちはその否定的側面にばかり目を向けるように「教育」されているのだけども、このシステムのエッセンスは、父の仕事を息子がつぐ・同じ身分の中で嫁取り婿取りをする、という2点に集約できる。いいんじゃないですか。どこがいけないんだろう。家の仕事をよく知りよくなじみ、父を見習って子どもが育つのは、むしろ「道徳的」と言っていいくらいのものだ(熟練を要する仕事、誇りがもてる仕事ならば。熟練が不要だったり、誇りがもてなかったりする仕事なら桎梏となりそうであるが、それらはほとんどがアウトカーストの仕事であって、後述のようにカーストの問題はそこに収斂する)。同じ仲間内で結婚するのも、互いに仕事と生活をよく理解しあっている価値観の共有者同士の結合だから、何ら非難されるべきところはない。
問題は硬直性と、集団が上下に階層化されていることによる差別である。硬直は生命の敵であるから、どんな場合でもよくない。一定の流動性は必ず担保されなければならない。カースト制の議論は、それがあるかという点が中心になるはずだ。
そして、差別の問題。これも大きな問題であるが、印象で言うけれども、いわゆるバラモンクシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラの4身分の間の「差別」は大したことではないのではないかと思う。その程度の階層間の差別感情は、欧米を始めどんな社会にもある。差別の問題はアウトカースト(賎民)差別の問題に集約される。これは解消されなければならない。インド政府もいろいろ努力しているようだけども。これさえ解決できれば、カースト制度に問題はほぼない。階層性は必然的に最下層差別を生み出すメカニズムを内包していて、この問題は決してなくせないのではないかという恐れは強いけれども。
よい点をあげれば、安定性である。このシステムでは、社会的上昇の可能性は低い。しかし、転落の危険も低いのである。生存の保証を第一に考えるなら、決して悪くない。悪くないからこそ、長く維持され来たったわけである。


インドの弁論大会では、所属学校名と氏名を言ってはいけないということになっている。大学・学校名を言わないというのは、ほかの国でもある。審査員に予断や先入観をもたせないために。しかし、氏名も言ってはいけないというのには驚いた。インド人は人の名前を聞くと、宗教やカーストがだいたいわかる。もちろんそれは大きな予断を生む。だから避けるのだろう。
日本人の苗字はたいていが地名由来で、その点ではバラエティに乏しい。もっと乏しいのはセルビア人で、ほぼ全部が父名である。「何々ヴィッチ」というのがそれだ。ヨーロッパ人、たとえばドイツ人の苗字は、1)父名(ペーターゼンのような。英語ならジョンソン、トムソンなどの「-son」(息子)がつく名前がそうだ)、2a)地名(出身地の名:オッペンハイマー、貴族に多い城の地名:フランケンシュタインなど)、2b)民族名(ウンガー(ハンガリー人)、ザックス(ザクセン人)など)、3)職名(シュミット(鍛冶屋)、フィッシャー(漁師)など)、4)あだ名(グロース(大きい)、グリム(怒りっぽい)など。先祖がそういう人で、それが呼び名になったのだろう)から由来している。インドの苗字についてはまだよく知らないけれども、ドイツと似ているとするならば、その名前のうち、3)はカーストを明示するものだし、1・2)からも所属カーストはうかがえる。


社会はさまざまな社会集団から成っている。職能集団もあり、宗教集団もあり、言語集団もある。職能集団は「身分」というものを形成する。ヨーロッパにも「身分」はあった(身分制議会の第一身分・第二身分・第三身分などを見よ)。しかしあの地域では、さまざまな社会集団が「民族」というラインで整理される過程が進行した。国民国家の成立である。「民族」によって、身分や職能、宗教などによる社会集団の集まりであったモザイク社会がひとつに統合された。「民族」が国家形成の主体となるわけだ。
学校と軍隊は、国民国家形成のための2つの柱である。この義務教育による学校と徴兵制による軍隊という機関を通過することで、前近代社会の重要な構成要素であった身分や宗教が洗い流される。軍隊はだから近代化の強力な推進力となる機関なのだが、インドでは徴兵制がない。独立以来ずっと志願制をとっている。インドは多宗教社会であって、かつ宗教がきわめて重要なため、宗旨による違いを統一したり無視したりできないのだろうと想像する。ヒンドゥーにはカーストがあるし、宗教とカーストアイデンティティの基盤であるから、おいそれと殺生を禁ずる規定や菜食主義をないがしろにして全男子を等質の一平卒にできないのだろう。しかしそれを尊重していてはヨーロッパ流の「近代社会」はできないわけだが。尊重するからできないのか、できないから尊重するのか、ニワトリか卵かという話だけれども、現実としてインドは身分制を保持している。
カーストはたしかに「近代化」の妨げとなる。それは事実だ。近代国家はこういうシステムを解消し、個人を解放することによって成立した。だから、「近代化」を善とするかぎり、それを目指すかぎりにおいて、カーストは害悪であり障害である。だが、それを目指さなかったら? それと違う別の道があるのなら、近代化前提のカースト論は無効になる。これもまたたしかである。その道があるのかどうかは別として。
たとえば、結婚である。インドでは今でもほとんどが親が決める結婚で、恋愛結婚は少ない。これはいかにも個人の自由がない前近代的な様相に見える。それに対して、かつては見合い結婚が大半だった日本では、今は恋愛結婚が大多数であり、しかもそこには明らかな価値の優劣がある。恋愛結婚がすぐれており、見合い結婚は遅れている、という。いわば恋愛結婚至上主義である。ほれた同士が結婚するのはまことにけっこうなことで、それに反対しようとは思わない。しかし、見合いを軽蔑し恋愛を唯一無二の至上価値とするこのシステムは、結婚したくてもできない人々をあふれかえらせていないだろうか。離婚をふやしてはいないだろうか。結婚できない男たちは、フィリピン花嫁やバングラ花嫁を「輸入」している。どう考えても異常だ。
前近代的」なインドの親が決める結婚では、結婚したい者は結婚でき、離婚も少ない。結婚したくない者も結婚させられてしまうかもしれないけども。親は子どもの結婚相手をさがすのは自分の義務であり権利であると考えている。本人だけでなく親族も結びつける結婚というものでは、釣り合いが非常に重要だが、同じカースト内で結婚するから、相手とはぴったり釣り合っているし、夫婦とも仕事や親戚づきあいをよく理解している。家族や親族が全面的にバックアップするので、何かトラブルがあっても夫婦の外からのサポートがあり、解決が容易だ。だから離婚も少ない。これを要するに、この結婚システムは機能しているのである(花嫁持参金や幼児婚の問題を除けば)。それに対して、現代日本の恋愛結婚体制は機能していない。それなのにその価値基準をかたくなに固守するのは「洗脳」以外の何だろうか、と私は考えるが、どうですか。恋愛結婚が排除されない保証さえあれば、インド・システムの側に立ちたい。