タタールを追って(1)

<幻想のタタール
 韃靼ないしタタールという言葉には、聞く者のイメージを強く刺激する異様な力がある。司馬遼太郎のような人には、それがさらに強く感じ取れるようだ。「私は、こどものころから、「韃靼」ということばがすきであった。・・・銀色にかがやきつつ、夏の白雲のように大きくふくらんでゆくイメージがあり、人はみな異風で、ときに怪奇にさえ見えたが、うごきは敏捷で、鳥の影のように片時もとどまらない。しかもかれらはいさぎよかった」(「韃靼疾風録」あとがき)。そのようなイメージから作家は歴史小説を紡ぎだす。
 小説家ならぬわれわれのタタールのイメージも、やはりどこかしら異風である。それはたとえば、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」(安西冬衛)という詩的な幻視に感じる心でもあろう。「大明韃靼を平均し異国本朝に名をあげし、延平王国性爺」こと和藤内が、「南京北京に押し渡り浮世にながらへ有るならば、呉三桂と軍慮を合わせ李蹈天が賊徒を亡し、軍勢催し韃靼へ逆寄せに押しよせ、韃靼頭の芥子坊主、捻ぢ首つらぬき追っぷせ切りふせ、御代長久の凱歌をあげん」と大活躍する近松の「国性爺合戦」の記憶もあろう。
 西方のさまざまな伝説もまたタタールにまといつく。湖底の沈鐘の話が、タタールの襲来をめぐって語られる。ロシアのヴォルガ中流地方、スヴェルトヤール湖のあるところには、昔キーテジという町があった。信心深い公が治め、多くの教会が立っていた。そこへバトゥ率いるタタール軍が押し寄せたとき、神は悪逆無道なタタール人の手にゆだねるにしのびず、町を水の底へ沈めてしまわれた。その町にはまだ人々が生きていて、時おり水底から鐘の音が聞こえてくる。それを信じて、昔は夏至の頃に巡礼がたくさんやってきたものだ、云々。
 伝説のタタール人はしばしば、人の体に犬の頭をしていると考えられた。ハンガリー大平原の村が襲われたとき、村人は葦の茂みに身を隠した。しかしハンガリー語を覚えたタタール人が、「シャーリや、マーリや、出ておいで、犬の頭をしたタタール人どもは行ってしまったよ」と大声で触れまわり、それを聞いてのこのこ出てきた村人を捕まえて、殺したり連れ去ったりしてしまったと。
 タルタリアには「タタールの小羊」ないし「スキタイの小羊」という不思議な植物が生えているとも語られた。オドリコの「東方紀行」によると、「カディリと呼ばれる大王国には、カスピ山脈と呼ばれる山々があり、この地には、非常に巨大なメロンが生ずるそうだ。メロンは熟すると二つに割れて、そのなかに一頭の仔羊ほどの大きさの小動物が見られるという」(澁澤龍彦「幻想博物誌」)。
 西欧で作られた生肉料理にタタールの名(タルタルステーキ)がつけられるのもまた、その名称のもつ力であろう。そのようなイメージの喚起力が、「韃靼/タタール」のかなり本質的な部分をなしているのである。
 この言葉のもつ異様な力は、実在の、歴史上のまた今日のタタールについて考えるときにも、倍音として常に響いている。タタールの「民族史」をこれから考察していこうと思うのだが、その際このようなイメージの部分を、タタールと異風の密接な関係を、修辞的なものにとどまらない問題として頭に置いておかなければならないであろう。


ソ連タタール人>
 旧ソ連タタール人は、テュルク語のキプチャク(北西)語群に属する言葉を話すイスラム教徒であり、カザン・タタール人、シベリア・タタール人、クリミア・タタール人などに分かれる。13−15世紀にヴォルガ下流に都を構え、黒海からカスピ海アラル海の北の草原を支配した金帳(キプチャク)汗国の継承国家、カザン汗国・クリミア汗国・アストラハン汗国・シビル汗国を築いた人々の子孫と理解すればよい。ソ連時代の統計によると、1989年にソ連全土で664万人、ロシアには552万人が住んでいた。この数はロシア人・ウクライナ人・ウズベク人・ベラルーシ人・カザフ人の人口に次ぐものである。ソ連崩壊後独立したソ連時代の民族共和国は15あるが、そのうち、上に挙げた5つを除く他の10共和国を成している民族の人口をしのいでもいる。それなのにヴォルガ中流域とクリミア半島自治共和国(クリミア自治共和国は1946年に抹消)しか作れなかった理由のひとつは、「本土」たるタタールスタン共和国には176万人(四分の一弱)しか住まず、ソ連全土に分散して居住するディアスポラの民であるからだ。離散はもちろんソ連の外にも及び、トルコや中国などにいるし、ロシア革命後には日本へも移住してきていた。先ごろ二代目の東京モスクが完成したが、あの地にあった初代のモスクは、1938年に亡命タタール人たちが中心になって建立したという。
 この「タタール」という名称は、帝政時代にはもっと広い意味で使われていて、中央アジアを除く(ここはロシアによる征服が19世紀後半と遅かった)地域のテュルク系イスラム教徒を指して言っていた。現在ハカス、アルタイなどと呼ばれている民族、またアゼルバイジャン人などもタタールとされていた。このようなほとんど乱用に近い慣用を脱し、ソ連は「タタール人」を本来の歴史的に意味のあるまとまりに限定した。
 この点でもそうなのだが、ソ連というのは「民族誌学の帝国」だった、と言えそうだ。ソ連において民族問題は「解決した」ことになっていた。実際にはそうでなく、ただ凍結されていたにすぎないのは、ソ連崩壊の前後から噴出した民族紛争が証しているが、それでもなお、ソ連建国の時点で見れば、自治共和国や民族管区の設置等々の施策や民族呼称に対する配慮など、民族政策において当時最も進んでいたことがわかる。それらの政策を導く上で、民族誌が大きな役割を果たしたということもまた。


1.「民族」とは


<近代の「民族」主義>
 タタールについて詳しく見ていく前に、その前提となる「民族」というものについて、考えておかねばならないことがいくつかある。
 「民族」概念には三つある。一つは文化人類学民族学で言う「民族」で、主として未開民族を対象として練り上げられた概念である。しかし民族学以外の社会科学が言う「民族」は、歴史的民族が対象だから、民族学的「民族」とは少しニュアンスが違う。その上にまた、近代の「民族」と前近代の「民族」を区別して取り扱う必要がある。
 「民族学的民族」というのも、その定義にはいろいろある、ほとんど民族学者の数ほどあるが、ここでは「ある文化に帰属感情を持つ人間の集団」というほどにしておこう。すると「文化」がまた問題になる。こちらのほうは、「その成員によって習得され、共有され、伝達される生活様式の体系」ぐらいに考えよう。いずれにせよ、ある人間がどの民族に属するかは、第一義的にはその人の帰属意識、自己同一性(アイデンティティ)によって決まる、という点が重要である。民族というのは、本質的に主観的な存在なのである。どんな言葉をしゃべっているか等の客観的指標は、二義的なものにすぎない。文化は伝承の体系であり、したがって「過去の共有」が帰属意識の重要な部分を占める。民族はその「共通過去」によって自らの存在を確かめる。主観的な存在である以上、帰属意識の変化にともなってその姿を変える流動性の高さもまた、民族の大きな特徴である。

 「近代」というのは、いわば意識革命・生活革命とその結果として生じた人間関係のあり方であって、1789年のフランス革命を一つの出発点に、産業革命と手を取りながら18世紀末のイギリス・フランスに始まり、20世紀の初頭までに文明世界をほぼ貫徹した。時代区分としては「盛期近代」というものも考えられるだろう。それは1870年から1920年の間、1871年のドイツ統一と1919年の第一次世界大戦終結させたヴェルサイユ条約をメルクマールにして。近代「民族」形成は、主要地域ではこの時代にほぼ完了した。
 制度としての近代「民族」は、政治的にはまず「国民国家」を構成する主体として考えられている。近代的民族意識は、イタリア統一・ドイツ統一を見ればわかる通り、国家形成と緊密に結びついているため、近代的民族形成を果たしたものは、潜在的独立運動主体・権利要求主体と見なされうるということにもなる。「民族」になることによって権利を得るという状況が現われた。それはまたさまざまな社会集団や身分を止揚するものとして、宗派的差異を止揚するものとして機能したし、国民主権の理念と結びついていると同時に、というよりそれと表裏をなして、国民皆兵・徴兵制とも結びつく(そもそも権力とは強制力であり、したがって武力である。「民主的」な集団は、多くの場合男子成員がみな戦士となるような集団である)。
 その他に、近代的民族主義の特徴、ないし偏向として指摘しておくべきは、「血と言葉」イデオロギー(註1)である。前近代において極めて大きな役割を果たした社会階層や宗教の違いを乗り越えるために、同系の単一集団からの出自という観念的なフィクションを仮構しなければならなかった。そのため人種に重きを置く人種主義・人種差別がその病理として現われやすい。身分や宗教のように、「民族」分断的であったり超「民族」的であったりするものに対し、言語という客観性の高いものを、その枠組みとして、第一の指標として採用する、いわば「言語学主義」が貫かれている。言葉を生得のものとして、その変動性をあまり顧慮しない。「民族」が「語族」に極めて接近している。
 一方で、その単位になる言語については、方言学より歴史に従う。ほとんど別言語と言っていいほどの低地ドイツ語と高地ドイツ語を合わせてドイツ民族としているのに対し、方言的差異にとどまると思われるチェコ語とスロヴァキア語が別の民族を成しているのを見ればわかる通り。文化の大きな部分を占めるのは伝承であるから、(主観的な)歴史は文化を大きく規定する。スラヴ人であり、言葉も大して違わず、宗教においてもさほど異なるところのないチェコ人とスロヴァキア人が、民族的に異なり、あまつさえ統一を破って別の国家に分離独立までするのは、歴史のしからしめるわざである。
 また、「土」も大きな要素である。近代「民族」は領域を持つ。近代国家の農民主義と言ってもいいだろうと思われるが、国家形成の礎となる領域支配と分かちがたく結びついているため、土の上に基盤を持たない民族は近代「民族」から排除されがちで、地域的に連続して分布する民族が、そうでない民族(むろんこちらのほうが数的にも少ないのだが)の犠牲において国民国家を築くというのは、非常によくある風景だ。
 「民族」を決定するものは帰属意識であった。帰属感の大きな部分を占めるのは、神話や物語の共有である。建国にあたっては、しばしば神話的歴史が編纂される(記紀のように)。近代的国民国家は、「国民史」という歴史を書き表わす。それは近代的民族主義により解釈、編集された歴史である。国民国家は普通教育にも熱心で、そこで教え込まれるのはそうした歴史だ。教育の一環として銅像もたくさん立て、それらがパンテオンを成す。そこに祀られている国民の英雄たちの名は、国境を一歩またぐと誰も知らない、ということもしばしば起こる(もっとしばしば起こるのは、彼らは隣国では極悪人であるというケースだ)。
 神話が民族形成に果たす役割というのは、その動因というより伴走者かもしれない。動因としてそれよりずっと大きいのが、敵との戦いである。近代前近代を問わず、「民族」は実体的また仮想的な敵によって形作られることが多い。敵によって自己を輪郭づけ、自分たちが強固になることがまたフィードバックされて相手を強固にするというメカニズムが働く。敵の存在がアンデンティティを鍛える。民族主義は往々にして攻撃的で危険なものに転化するが、それは「民族」が本来的に対敵集団であるためだ。


<近代以前の「民族」のあり方>
 前近代の「民族」は、このような近代の「民族」とは異なる。人種・形質の重要性は低く、逆に宗教宗派の違いの占める役割は非常に大きい。近代の「世俗主義」はここでは通じない。近代なら社会集団と見なされるものも、前近代では「民族」の単位となりうる。対して言語の重要性は、宗教と対等かそれ以下だ。「血と言葉」ではないのである。
 技術的な問題として、前二者の「民族」に対し、前近代「民族」の場合は、民族分類の決定的要素たる成員の帰属意識が確定しがたいということがある。近代以降なら資料も多いし、同時代ならば現地調査もできる。しかし近代以前、わけても古代・中世となると、資料は極めて乏しいし、その少ない資料が非常に偏っている。無文字民族はもちろんのこと、遊牧民もふつう自分たちについて内側から書いたものを残さない。文献はほとんどが定住文明の側から、外側からまま偏見をもって眺めたものだし、定住文明の中でも文字資料をものするのは、僧侶や書記、知識階層に限られる。したがって前近代の「民族」を考えるときには、実際上帰属感という主観的な要素を取り除けざるをえない(帰属感、アイデンティティは、調査のできる現代でも難しい課題である。民族帰属は結局自己申告による。けれどアンケートなどで安直に計れるものではない。自己申告制は、それが当人の不利[また有利]にならない状況でしか機能しない。自らを差別の対象となりやすいジプシーと申告する者は、実際よりよほど少ない)。
 結局のところ前近代においては、外からひとまとめに括られ名づけられた人間集団をもって、名のあるところをもって「民族」と認めるしかない。民族呼称には、他の民族がそう名づける名称、つまり他称と、自分たちが呼ぶ自称があるが、資料の偏在のため、ふつうわれわれが知っているのは他称である。この他称・外からの視点と、自称・内からの視点には食い違うところが多々あるはずだ。近代の例で見ても、他称「ジプシー」と自称「ロマ」は同一ではない。しかし前近代では、種々の制約のためそこまで扱えない。
 だがそうすると、「和漢三才図会」に見られるように、「狗国」「一臂」「一目」などというものまでがそこに入り込んでしまう、という事態にも至る。一つ目や犬頭人が「民族」? 占城(チャンパ人)、爪哇(ジャワ人)、大食(アラビア人)と同様に? しかし多少異様でも、この点までも含めて前近代「民族」である、とせねばならない。民族は結局自民族も他民族も主観的な存在であり、それらは相互主観の交錯のうちにしか捉えられないのだ。その中に幻想的な存在がまぎれこんできても仕方がない。それに、今日のわれわれの理解ではそんなものがありえないとしても、それを当時の日本人にまで遡らせてはならない。彼らにとって一つ目の人間はありうべきものだったし、おそらく黒人と同じ程度にしか奇妙でなかったのだろう。
 史料をめぐっては、次の二点にも留意しておかねばならない。まず、史料はそれを産出した文化圏ごとに、それを単位として見ていくことがどうしても必要だ。ある文化圏で、ある名称とそれによって意味される範囲が確認されるとしても、別の文化圏では、微妙に、あるいはかなり異なる名称と異なる意味範囲がそれに対応しているものだ。民族名についていえば、なるほど類似した名称が見られることが多いが、その場合も、それによって意味されるものには文化圏によっていささかの違いがある。古い時代の周辺民族のことは史料にきわめて乏しいのだから、その乏しい材料をとりあつめ、史料系統を横断し、相互参照・相互批判を行なって、歴史的事実と思われるものを確定していくのが考証学である。しかしわれわれはその方法に対してきわめて慎重でなければならない。他民族についての史料というのは究極のところ、異民族を鏡として映し出された自分たちの文化像や歴史認識なのだから。
 もう一つ、次のようなこともある。たとえば、古史料がある民族(ブルガールでも何でもいいが)を「フン族」の一つだと書いていても、実際にそうであったとは限らない、という議論がある。それは基本的に誤りである。むろん史料というものは、とりわけ古い時代の乏しい史料ならば、不正確さをまぬがれることは決してない。しかし民族を決定するのは帰属意識であるのだから、他の民族が当該民族を「フン」だとしていれば、すでにそうであるべき必要条件を満たしていると考えられるし、もし史料上の稀な幸運で、彼らが自らも「フン」だと思っているとまでわかれば、十分条件も満たして立派な「フン族」なのである。ただし、過去の伝説的光輝まで自らを遡らせる、いわば「系図作り」の場合は、少々割引きしなければならないが。もちろん、これは言語についての論議ではない。自分たちを「フン族」と見なす人々が、「フン語」を話しているとは限らない。言語の問題と「民族」の問題は別物であって、混同してはならない。あちら側からも、こちら側からも。
 名称の存在をもって決定するにせよ、「民族」を分かつ際には、便宜的に四つの客観的指標が認められると思う。「民族」という単位を構成する「文化」は、乏しい文献資料からはとらえにくい。これらは旅行者などの外からの眼によっても観察できるものであり、近代「民族」との違いを認識する上でも重要だ。
1)言語。前近代には言語学の圧政はない。一つの言語領域に複数の「民族」が存在するというのは、近代に増して前近代ではさらに多いし、一つの「民族」が二つ以上の言語集団から成ることもままある。特に遊牧民の場合、その「民族」というのはたいてい部族連合であるから、言語が均一であることのほうが珍しかろう。というように、それは決定的ではないが、しかしもちろん有力な指標だ。
2)外貌。形質や人種を含むが、それらにも増して、服装、髪型、刺青などの身体加工が重要だ。年齢やハレとケによる衣装の違い、したがって出産・婚礼・葬儀などの人生儀礼や祭礼もここに含めて、「風俗」として考えてもいい。
3)信仰。宗教や価値観。それは世界観や習俗を規定する重要なファクターである。ボスニアでのスラヴ人セルボ・クロアチア語を話す「ムスリム民族」の再登場のような例は、近代世俗主義の限界を示すとともに、このファクターの根強さを見せつけている。
4)生業。生業による「民族」の別はありうる。前近代ユーラシアの城郭都市の場合、 「都市民」というのが往々にしてそれ以外の人々と区別される人間集団を成しているが、それをも「民族」としてとらえたほうが理解しやすいケースが多々ある。
 4番目に関連して、たとえば前近代ハンガリーで牧羊に従事していた「ヴラフ」と呼ばれる人々がいた。これをバルカン地方の「ヴラフ」=ロマンス語系統の言葉を話す者、ワラキア人(ルーマニア人)ないしアロムン人(ルーマニア語に近い言葉を話す山地少数民族)の等式で、ルーマニア人(ルーマニア「民族」)であったとするルーマニアの学者たちの見解と、その中にセルビア人の出自の者も多くいたことなどから、牧羊民「社会集団」であるとするハンガリーの学者たちの見解がある。ともに近代の概念への翻訳の問題である。ハンガリーの「ヴラフ」は前近代「ヴラフ民族」の一つの下位集団というのが実際であろう。
 これらの四つの指標が四つとも、歴史の中で移り変わることがしばしばある。これにはよくよく注意しなければならない。民族を決して固定したものと考えてはならない。


(註1)この二者(および土)に共通するタームは、「母」である。



2.「タタール人」の他称と自称


<日本人とドイツ人>
 日本人は民族学上の一奇観、まことに幸運(不運?)な例外である。1億以上の人口を抱える日本という国には、なるほどアイヌや沖縄人のような人々はいるが、そのほとんどすべてが自分を日本人と考える人々、日本民族から成っている。民族名称も、自称の「日本人」でほぼ一貫している。7世紀末国号として採用されたものが、以来王朝の交代もなくずっと続いているわけだ。イルボンの、リーベンのといっても、それは漢字の読み方の問題で、書けば「日」の字と「本」の字、その頃の読みで「ジパング」と言ったものが西伝し、「ジャパン」の「ヤーパン」のというこれまた読み方のヴァリアントを伴い、世界の大部分がそれに従う。昔の他称である「倭」、自称の「ヤマト」は、前者は中国や韓国・朝鮮で、俗称ないし蔑称として使われることがあり(「倭奴」など)、後者は沖縄人の呼ぶ「ヤマトンチュー」に見られるくらい、わずかにアイヌの「シサム(隣人の意)」>「シャモ」がこれらから外れて独自である。
 しかし、四方を異民族に囲まれて、国号をもって自ら名乗るを得なかった大陸の民族というのは、実にさまざまな呼ばれ方をするものだ。たとえば「6カ国語会話集」のような本を取って「ドイツ」の欄を見れば、英語で German、フランス語 allemand、イタリア語 tedesco、ロシア語 nemets、自称たるドイツ語では deutsch と多種多様である。日本語はドイツ語自称に従い「ドイツ」、中国語でもそれに類すが、漢字に書けば「独逸」「徳意志」と異なっている。イタリア語は同源の語の語形変化した形、英語はゲルマン民族という上位名称、仏語はアレマンというフランスに隣接する西部にいた部族の名(下位名称)、ロシア語を筆頭とする東方のスラヴ人の用いる名称は、「おし」という意味から「外国人」へ、特定されてドイツ人を指すに至った名詞、というぐあいに、他称のつけられ方のさまざまなヴァリエーションを示す。ドイツ語 deutsch に対応する英語 Dutch は「オランダ人」を指す(ちなみにオランダ語 duits は「ドイツ人」、diets は「中世オランダ語」)というような錯綜もある。


<「タタール人」の消失>
 カザン・タタール人の場合もこれに似ている。彼らを呼ぶ名称は、一見「タタール」で統一されているように見えるが、それはロシア人の言う他称「タタール」が西洋諸語はじめ各国語で採用されているからで、ドイツ人(あるいは日本人の場合でも)の名称のように、隣人たちのそばに寄って見ると、それにまさる錯綜が認められる。
 まず民族・歴史地図の概略を確かめておこう。旧ソ連15共和国がそれぞれ独立したあとも、ロシア連邦は相変わらず多民族国家で、かつての自治共和国である21の共和国がその広大な国土に散らばっている。それらの大多数は南縁や北辺にあり、国境線や海に接しているのだけれど、ロシアの中央部にもヴォルガ中流のあたりに六つの共和国がひしめくように固まっている。ロシア人の州に周りを取り囲まれ、モスクワからもさして遠くなく、ウラル山脈より西だから地理的にはヨーロッパの範囲でもある。その六つとは、カザンのあるタタールスタン共和国を中心に、その西にチュヴァシ、東にバシコルトスタン、北西にマリ・エル、北東にウドムルトの各共和国と、チュヴァシの南西にモルドヴィヤ共和国である。
 カザン・タタールの北西に住むマリ人は旧称がチェレミスで、フィン系言語を話すロシア正教徒、北東のウドムルト(旧称ヴォチャーク)人も同じくフィン系正教徒。西隣にはテュルク語の特異な一種を話す正教徒のチュヴァシ人、南東にはタタール語に近いテュルク語を話し、イスラム教徒であり、遊牧民であったバシキール人(自称バシコルト)人が住む。彼らの住地は、行政区分上はオレンブルク州によって楔を打ち込まれているが、カスピ海北岸のステップに、カザフスタンに、つまりテュルク語・イスラム世界に連なる。
 15世紀から1552年の滅亡まで、カザン・タタール人は現在のタタールスタン共和国とその周辺を版図にカザン汗国を構えていたが、その同じ土地には7/8世紀から13世紀にモンゴルによって滅ぼされるまで、テュルク系でイスラムを受け入れたブルガール人のブルガリア国が栄えていた。ヴォルガ川下流というのは遊牧民の国家がしばしば本拠を置いたところで、7−11世紀のハザール汗国、13−15世紀の金帳(キプチャク)汗国、みなそうで、金帳汗国の衰退し滅亡した頃には、このあたりにはノガイ人(テュルク系イスラム教徒)が遊牧し、国(ノガイ・オルダ)を建てていた。その末裔はコーカサス山脈北麓の草原地帯にわずかに残っている。17世紀に西モンゴルのオイラト族の一部が東からやってきて、ノガイを追い、このあたりに居を構えた。彼らはカルムィクと呼ばれ、のちにヴォルガ右岸の草原に移った。ラマ教徒である。
 タタール人の隣人たちが彼らを呼ぶ名称を調べてみると、マリ人はスアス suas (=チュヴァシ)と言い、ウドムルトはビゲル biger(=ブルガールまたはビラル(註2))と、カザフはノガイ nogaj と、カルムィクはマングィト mangyt と、ミシャル(タタール語 の方言を話す、現在はタタール人の下位集団を成している人々)はログィル logyr と言 う。マングィトはモンゴルの一部族であるマングト氏族に由来し、ノガイ人は自らをマンギトと称していた。ログィル(ルゴル)はハザールの一部族名(nogyr-lokyr は銀の人の意)だという[Халиков 1989: 37; Zekiev 1998:29]。西シベリアのオビ川流域に住むフィン・ウゴル系の民族ハンティをロシア人はオスチャークと呼んでいたが、一方でカザフ人、カルムィク人はバシキール人のことをイステク、イシュタグと呼ぶ。そしてバシコルトスタンやペルミ地方、西シベリアに移住したタタール人もまた、周囲の民族からオスチャークないしイシュテク istak と呼ばれる。ロシア人の言うタタールも、もとはと言えばモ ンゴル人を指す名称(さらにもともとは、モンゴリア高原東部の、モンゴル人の近隣にいた部族の名)であることを思えば、「カザン・タタール人」を、ただ彼らのみを指す共通の名称は存在しないのみならず、他の民族を指す名称を転用ないし混用して命名していることに気づく。彼らのあとを追いかけて行くと、「タタール人」は消え失せてしまうのである。
 カザン・タタール人は、他称、それも彼ら自身が決して好んでいなかった名称「タタール」を、19世紀後半の近代「民族」意識の覚醒が起きた時代に、自ら自分たちを指す名称として受け入れ、自称とした珍しい民族である。
 では彼らのそれまでの自称は何であったか。カザン人ないしムスルマン(ブスルマン)、またブルガール、テュルクと呼ぶこともあったらしい。ムスルマンはイスラム教徒の意だから、キリスト教徒と対照すれば意味があるが、イスラム教徒間の区別には使えないし、テュルクも同じく、非テュルクとの別でしかない、彼らのみを特定できない大きすぎる名称である。カザン人については、たとえば近世中央アジアにブハラ汗国、ヒヴァ汗国など、首都の名を国名とする国々があった時代に、ブハラ人と言えば、ブハラ市民とともにそれを首都に戴く国の民をも意味していたのと同軌である。だがこれも、同じ国に住んでいた他の民族(チュヴァシ人、マリ人など)と区別して、彼らだけを指して使うにはやはり不適当だ。近世のカザンはロシア人の町となったこともあるし。ブルガールならば、バルカン半島ブルガリア人はいるものの、この地域では彼らのみを指す名称と見なせるかもしれないが、いくつかあった名称の一つというだけで、しばしば用いられていたのではないらしい。自称についても他称と同様、判然としない。テュルク語を話すムスリムで、カザン汗国、さかのぼってはブルガール国に由来するという歴史意識を持っている人々というだけはわかるけれども。
 このことは近代東トルキスタンの住民が、自らを「ウイグル人」と呼ぶことに決めた際の事情を思い出させる。自称が曖昧だというのは、近代以前にあっては決して珍しいことではなかったらしい。しかし近代社会は民族単位制であるから、すべて自らを「民族」と自認する集団は、適切な名前を持っていなければならない。さらに民主的なことに、その名称には自称を用いるのを原則にしてくれている。現在の「ウイグル人」も、「タタール人」と同様、しかとした自称がなかった。ムスリムだったり、あるいはオアシス単位のカシュガル人、トゥルファン人などといった意識であった。1921年の会議においてようやく統一した自称が決まり、それも、なるほど居住地やテュルク系であることにおいて共通はしているものの(9−13世紀、このあたりにウイグル王国を建てていた)、直接的な連続性があるわけではない「ウイグル」としたのである。カザン・タタール人が「ブルガール人」と名乗っていたとしたら、この例と好一対をなしたであろう。いや、今も自分たちは「ブルガール人」であると主張する人々がいるが、連続性の点では「ウイグル人」より関係が深いけれど、その言語はかなり変わってしまっているし、バルカン半島ブルガリア人が現に存在する今となって、改称するわけにはとてもいかない。


(註2)ヴォルガ河畔のボルガール市と並び、タタールスタン南部に10−13世紀ごろ栄えたビリャールという都市があった。また「ブィレル人、つまり大ブルガリア」という記述がカルピニの旅行記にある。