タタールを追って(2)

3.歴史上のタタール

 「タタール」という民族を歴史の流れで追うときには、13世紀のチンギス汗登場以前と以後に分けて眺める必要がある。それ以後この名称は、モンゴルと結びついて大きく拡散してしまったからだ。
 「タタール」はもと中国の北辺にいた遊牧民であった。その信仰はおそらく固有の、シャーマニズムのようなものであったろう。しかしどの系統の言葉を話していたかは、よくわからない。いや、「タタール」と呼ばれる民族がある特定の一民族であったかどうかも、知れたものではない。
 彼らに関する史料には三種類がある。漢文史料、西方(イスラムキリスト教世界)史料、テュルク・モンゴル史料である。このうち第三のものがいちばん重要だ。彼らの属する文化圏の、同じ生活感覚や共通理解を持っていた人々の書き残したものであるから。このことを踏まえた上で、史料を単位として調べていくことにする。


突厥碑文と13世紀以前の西方史料に見えるタタール
 「タタール」の名が史料に現われるのは、732年オルホン河畔に建てられたキュル・テギン(闕特勤)碑文を初めとする。二箇所に現われるが、まずブミン(土門)可汗の没した時(553)、「泣き歎きつつ前の方日出の処より猛き沙漠の民、Tabgac, Tüpüt, Par, Purum, Qïrgïz, 三姓 Qurïqan, 三十姓 Tatar, Qïtai, Tatabï 等の民来りて歎きつ泣きぬ」。
 そして第一可汗国の崩壊後、イルテリシュ可汗(在位682−691)が第二可汗国を再興した時のことを述べて、「右には Tabgac の民敵なりき、左には Baz 可汗九姓 Oguzの民敵なりき、Qïrqïz, Qurïqan, 三十姓 Tatar, Qïtai, Tatabï 皆敵なりき」と書いて いる。
 ここからわかるのは、三十姓というかなり大きい民族であったこと、クリカンの後、契丹の前に名前が出るところから、この二者の間にいたらしいことだ。大興安嶺の西、ケルレン川中下流シルカ川・アルグン川のあたりであろう。「魏書」「隋書」両「唐書」などに記載のある室韋の地から遠からぬところにいたようだ。
 735年のビルゲ(□伽)可汗(在位716−734)碑文では、九姓タタールが言及される。「Oguz の民は、九姓 Tatar と一つになりて来たり。アグにて二つの大戦さを我戦いたり」。
 つまり九姓タタールはオグズ(鉄勒)の近くにいたようだ。シネ・ウス碑文(8世紀中頃のウイグル葛勒可汗の紀功碑)に八姓オグズ・九姓タタールの連合とセレンゲ川の辺りで戦ったことが記されているのを考え合わせると、彼らは当時セレンゲ川下流辺にいたらしい。
 10世紀の「ハドゥード・アル・アーレム(世界地誌)」には、タタールはテュルク族の中で最も豊かな九姓グズに属すと書かれているそうだ。ガルディージーの書(11世紀中葉)によると、西シベリアのキメク族は、イルティシュ川沿いにいたタタール族長の末子から出ており、タタール、キプチャクなど七つの氏族から成っているという。
 マフムード・アル・カシュガリーの「トルコ語総覧」(11世紀後半)によれば、ウテュケン山の地はタタール人たちの草原となっていたという。彼はタタールをテュルク部族であるとしているが、「ヤバク、タタール、バスミルはどれも独自の言葉をもっているが、すべてテュルク語ができる」とも書いている。ウテュケン山の地は匈奴以来突厥ウイグルと、大遊牧民族国家の中心であった土地で、のちモンゴル帝国カラコルムの築かれたところでもあるが、そこを占めていたのは、かなり強力な勢力だったことをうかがわせる。
 タタール人の名前としては、9世紀のマニ教文書にタタル・アパ・テギンという者の名が記され、「ムジュマル・ウッ・タワーリーフ(歴史・物語概要)」(12世紀前半)にはシームーン・ビーウェイ・ヒヤールというタタール族の王の名が挙げられている。
 これらの記述を信じるならば、6−7世紀三十姓タタールは東部モンゴリアに、8世紀九姓タタールはセレンゲ川下流におり、11世紀にはそこから遠くないウテュケン山のあたりにタタールがいた。イルティシュ川の上流地方にもいたらしい。テュルク系であるオグズやキメクなどとの関係から見て、彼ら自身もテュルク系のように思えるが、独自の言葉をもっていたという証言もある。突厥ウイグルおよび古い西方史料からうかがえるタタールはこのようなものである。
(□:田+比)


<漢文史料の「韃靼」>
 韃靼は中国の史書に唐宋の頃から見え、達靼・達旦・韃韃・達達・達打などと書かれる。「旧唐書」僖宗紀、「旧五代史」唐武皇紀、「新唐書」沙陀伝、「新五代史」韃靼伝などに記事がある。唐の会昌二年(842)に「達怛」として現われるのが最初である。それはキルギスの攻撃によってウイグルのモンゴリア高原での覇権が崩れた頃に当たっている。以下、時代ごとに見てみることにしよう。
 宋代以前では、たとえば「新五代史」巻七四韃靼伝を見ると、


 韃靼は靺鞨の遺種、もと奚・契丹の東北にあり。後契丹の侵略を蒙りて或いは契丹に 属し、或いは渤海に属し、而して其中陰山に散居せし者は自ら韃靼と号した。・・・李国昌・克用父子が赫連鐸等に敗られし時、一時此部族に亡入した。後克用に従って入関し、黄巣を破り、これにより雲代の間にあり。
 其後、後唐の明宗が王都を定州に討ちし時、王都は契丹の兵を誘いて入寇せしかば、 明宗は韃靼を招致して、契丹の界に侵し、大に其軍勢を張れり。


 三十姓タタールのいた地域はたぶん契丹の西北であるが、ここでは東北と言う。東北は靺鞨の地である。9世紀末には陰山の付近にもいた。遊牧民族だから移動してもおかしくはない。この陰山あたりの韃靼が初めて「韃靼」と称したというのが、この史料の説だ。
 「靺鞨の遺種」というのはどうだろうか。靺鞨ならばツングース系だ。アルタイ諸語と括られる諸言語は、テュルク系・モンゴル系・ツングース系の三つのグループに分けられる。ふつう「タタール」はモンゴル系ないしテュルク系とされるので、靺鞨遺種云々の件りは取るに足らぬと斥けるのが定説である。誤りのない史料など存在しない。それは誤解であったり誤記誤伝であったり、無知によるものだったり、敢えて偽るものだったりする。だから史料批判を行なうわけであるが、史料に限りがある場合、そのどれを正としどれを誤とするかによって、180度異なった説がともに「証明」されてしまうという事態も起こりうる。「韃靼は靺鞨の遺種」説は、遊牧民族であること、後世の史料からモンゴル系あるいはテュルク系の言語を話していたことが推定できることによって、当然のごとく否認されているが、むげに斥けるべきではあるまい。民族がその歴史の中で言語を取り替える例は数多くある。生業形態もしばしば変わる。のちにテュルク系遊牧民になった人々の一つの源流が、ツングース系であって困ることは何もない。遊牧民族は部族連合という形態を取るのがふつうであることからも、そう言える。むろん、だからといってこの説を正しいとするものではない。一説に曰くとして聞く耳をもっていたいだけのことである。
 前出室韋について、史書は「契丹の同類」「その言語は庫莫奚・契丹・豆婁国と同じ」(「北史」室韋伝)、「けだし丁零の苗裔」(「新唐書」室韋伝)、また「その語言靺鞨なり」(「新唐書」)とも書く。南室韋・水室韋・鉢室韋・深末怛室韋・大室韋の五部があって、そのうち大室韋は深末怛室韋から西北に数千里のところにあり、言語は通じない(「北史」)。また「新唐書」は、大室韋は大山(大興安嶺)のかなた、室建(シルカ)河畔にあるとして、河の南に蒙瓦部落があると記すが、これや「旧唐書」室韋伝が、モンゴルが記録に現われる最初である。「契丹の同類」ならばおそらくモンゴル系、「丁零の苗裔」ならばテュルク系のはずで、数部に分かれるうちの大室韋は言語不通である。さまざまな部族の集合体であることがわかるし、そのうちの一つはモンゴル部族である。その居住地から見て、オルホン碑文の「三十姓タタール」とも関係があろう。部族連合としての「民族」のあり方を示す好例だ。われわれが相手にしているのはこういう存在である。
 宋代の記録を見ると、10世紀の終わり、高昌国(トゥルファン)に使いした王延徳の紀行に、唐の回鶻(ウイグル)の地、都督山のあるところから、合羅川の近く、唐の回鶻公主のいたところ(つまり可敦城)にかけて、九族達靼がいたと書かれている。前田直典氏の考証の通り、都督山がウテュケン山を意味するならば、まさに11世紀にカシュガリーの記すことと一致する。「遼史」聖宗統和二十三年(1005)六月の条に「達旦国九部遣使来聘」とある。この達旦は、開泰二年(1013)に鎮州(可敦城)を囲んでいるところから見て、やはりそのあたりにいたらしいとわかる。
 趙珙「蒙韃備録」(1221)はすでにチンギス汗時代の記録であるが、「韃靼始起の地は契丹の西北」(つまり興安嶺西あたり)で、「沙陀の別種」とする。沙陀は甘粛の北にいた部族で、唐末沙陀の李克用が陰山付近の韃靼に投じたことはすでに見た。テュルク系である沙陀の別種というからには、彼らもまたテュルク系ではないかと考えられる。
 また韃靼に熟・生・黒・白の別があるとも書かれている。「蒙韃備録」によれば、白韃靼・黒韃靼・生韃靼の三種があり、このうち黒韃靼は、チンギス汗をはじめとするモンゴル人である。背は高くなく五尺二三寸以下、顔が広く、髭少なく、顔形すこぶる醜いと書く。白韃靼のほうは顔貌やや細く、醜からずとし、チンギス汗の公主が国事をつかさどり、宋に使いした速不罕(ヂュブカン)がこの白韃靼だとしている。生韃靼ははなはだ貧しくかつ無能とのこと。宋の黄震の「古今紀要」は熟韃靼・生韃靼の別を言い、前者は漢土に近いところの者、後者は遠いところの者とし、さらに後者を白韃靼・黒韃靼に分け、黒韃靼はチンギス汗のモンゴル人だとする。「大金国志」の韃靼は陰山付近のものだが、同様に漢地への近遠で熟韃靼・生韃靼を分ける。熟・生はいわば文明論的な分類で、黒・白に分けるのは遊牧民の間でよくあることだ。しかしながら、黒韃靼=モンゴルは、彭大雅「黒韃事略」(1237)に「黒韃の国大蒙古と号す」とあることからも、宋人の常識であったらしいけれど、彼らの自称が「モンゴル」であることはわかっているのだから、ここでの「黒」分類は歴然とした他称である(註3)。
 では白韃靼とは何か。「遼史」耶律大石伝に、遼の亡国にあたって耶律大石逃れて西走したとき(1123)、黒水を過ぎ白達達を見る、西に行き可敦城に至る、とあり、これによればオルホン川・ウテュケン山のあたりにいたらしい。それは九族達靼の居地である。「黒韃事略」には、黒韃(モンゴル)の東南に白韃・金虜(女真)、西北に奈蛮(ナイマン)とあって、すると白韃の住地は「元朝秘史」の塔塔児に近い。同書にはタタールの部族の一つにチャガアン(白)・タタルの名があがっていることも想起される。「元史」太祖本紀に、「元朝秘史」のオングト族を白達達部と書いているのが見受けられる。この両者が同一であることは、箭内亙氏によって考証された。オングト族は長城付近、陰山の北にいた。内モンゴル百霊廟付近のオロン・スムで発見されたオングト王城址の墓石から、彼らがテュルク系でネストリウス派キリスト教徒だったことがわかっている。要するに白韃靼というのは、自称もあり他からそう呼ばれていたものもあったようで、かつそれによって指されていた集団は一定していなかったようだ。
 「契丹国志」四至鄰国地理遠近には、契丹の北、やや西にあるという「達打国」の記事がある。この近くには「蒙古里国」「于厥国」「鼈古里国」などもある。「蒙古里国」はもちろんモンゴル、「于厥国」は「遼史」の烏古である。遼代には大興安嶺西に烏古と敵烈という部族がいた。前者は「元朝秘史」のウンギラト(オンギラト/コンギラト)、後者は「集史」に見えるタタル族の一部族テラトであるとされる。
 遼と金の史料には、阻卜・阻○という民族が現われる。「遼史」には韃靼の名があまり挙がらず、代わりに阻卜について記すこと多く、その阻卜の地が韃靼と重なること、また「旧五代史」の達靼と「遼史」の阻卜、「元朝秘史」の塔塔児と「金史」の阻○に関する記事を突き合わせた前田・箭内氏の考証によって、韃靼・タタルと阻卜・祖○が同一者の異称であることがわかる。阻卜は契丹人や女真人が韃靼を呼ぶときの名称なのだろう。チベット語でモンゴル人のことを Sog-po と言うが、これと関係がある、つまり同源の語であるのかもしれない。
 チンギス汗以後、元代の記録を見ると、「元史」地理志に賀蘭山・陰山方面に達達がいたことが記されている。漢人は、「蒙韃備録」や「明史」に見られるように、モンゴルをしばしば「韃靼」と記すが、「元史」ではさすがにモンゴルは「蒙古」と書かれる。ならばこの「達達」はモンゴルでない「タタール」であるはずだ。
 もう一つ、水達達というものがある。「元史」地理志の「合蘭府水達達等路」の条に、「その居民みな水達達女直の人」とある。後世俗称・蔑称として満洲人を韃靼と呼び、黒龍江沿海州ツングース少数民族を韃子と呼びならわした例に連なるものと思われる。
 明代は、北方モンゴリア高原に帰ったモンゴル人を韃靼と呼びつづける。「明史」韃靼伝はその記録だ。その中で、鬼力赤という者が河汗の位を奪って、元という国号をやめ韃靼と称したとしているが、何か基づく事実や実際の契機があったのかどうか。「元朝秘史」の漢訳も、モンゴル(忙豁勒)に「達達」を当てる。
 現在の中国には、おもに新疆ウイグル自治区に「塔塔爾」族が五千人ほど住んでいる。彼らは19・20世紀にロシアから移住してきたタタール人である。
 漢文史料と突厥・西方史料をつきあわせると、ブミン可汗時代の三十姓タタール、「契丹国志」の「達打国」、チンギス汗の時代の塔塔児がほぼ同じ地域にあったことがわかる。敵烈(テラト・タタル族)もそうだ。モンゴルを見ても、「旧唐書」「新唐書」の蒙兀・蒙瓦、「契丹国志」の「蒙古里国」、チンギス汗のモンゴルと、これらの「三十姓タタール」地域の近くにいつづけている。すると地域的に重なり、蒙瓦がその中の一部落であるとされる室韋と三十姓タタールの関係如何ということになるが、確かなことは言えないにしても、この二つは互いに重なり合うところが多かろうとは推定できる。そしてセレンゲ川・オルホン川・ウテュケン山のあたり、漠北の中心地にはすでに8世紀から九姓タタールがいた。宋・遼の記録も九族達靼がその地域にいたことを伝える。11世紀までそのあたりは「タタール人の草原」であったようだが、チンギス汗の時代にそこを占めていたのはケレイト族である。また、唐代から陰山・賀蘭山のあたりにも韃靼・達達がいた。イルティシュ川上流にもいたようだ。元代には松花江黒龍江辺に水達達が見られるが、女真の一部を指すのであろう。のちに満洲人やそれ以外の東北・沿海州ツングース少数民族を韃子と呼ぶようになる起こりかもしれない。
 彼らはテュルク系であったろうか、モンゴル系であったろうか。そのどちらも是とする状況証拠がある。不明とするしかないが、そもそもそんなことは取るに足りない問題だとも言えよう。あるいは興安嶺西、オルホン・ウテュケン地域、陰山、イルティシュ川上流のそれぞれのタタールが、族名こそ同じでも言葉は違っていたという可能性だってある。阻卜(室韋も?)のように別名称で呼ばれていたこともあったのだ。古い時代の遊牧民の実態はつかみにくい。しかしモンゴルの大征服以降は、遊牧民族自身、あるいは彼らのすぐ近くにいた者の書いた記録が増えて、史料状況はよくなる。むろん、「比較的」の三文字がその前に置かれるが。
(○:革+[僕のつくり])


<モンゴル勃興期のタタール
 「元朝秘史」には、モンゴル族の近隣に強力な部族であったタタル(塔塔児)族があり、テムジンの父を殺し、のちにテムジンによって誅滅される次第が書かれている。モンゴル族とは累代の争い絶えず、テムジンの名も、彼が生まれたとき父イェスゲイが殺したタタル族の男の名をとって付けている。このタタル族はフルン・ノール(呼倫泊)、ブイル・ノール(貝爾泊)のあたりからその南におり、アイリウド、ブイルウド、ヂュイン、チャガアン、アルチ、ドゥタウド、アルカイなどの部族があった。
 イル汗国の宰相ラシード・ウッディーンがモンゴル君主の命令で編纂した歴史書「集史」(1307)中のタタル関連の記事を、ドーソンの引用に従って見てみると、タタル族はブイル・ノール付近に根拠を有し、トトカリウト、イルチ、チャガン、クイン、テラト、ベルクイの六部族に分かれている。「《タタル》の名前は非常に古い時代から世に知られていた。タタル民族は数多くの分派に分かれ、おおよそ七万戸から成っていた(チンギス・カンの時代)。その領域は中国の辺境とブイル湖に隣接していた。各部族はそれぞれの領地を持っていた。タタル族はだいたい常に中国の皇帝[金朝]の臣属となっていた。しばしば一、二の部族が反乱したが、武力で平定されたり、また、これらの諸部族もたがいに戦争していた。・・・かれらは憎悪に満ち、怒りっぽく、復讐心が強かった。その人口が多いので、もし、かれらが統合するようなことがことがあると、いかなる民族も、中国人でさえもかれらに対抗できないであろう。そしてかれらは分立しているにもかかわらず、昔、いくつかの大きな征服戦争をおこなった。かれらは非常に強力で恐るべき存在になったので、ほかのトルコ諸族は自分たちをタタル族であると言いふらし、かれらがそのおかげで有名になったこの名称[タタル]を誇りにして振る舞った。ちょうど現今のジャライル族、タタル族、オイラト族、オングト族、ケレイト族、ナイマン族、タングート族、そのほかがチンギス・カンとその子孫によって有名になったモンゴルの名称を自慢しているようなものであるが、実はそれらの部族は昔はモンゴルという名称を軽蔑していたのである」[ドーソン 1968:1−317f]。
 チンギス汗の登場以来、「モンゴル」の大膨張、彼に従う諸部族が彼の部族の名であるモンゴルを称するようになる現象が大規模に起こるが、ラシードの言を信じるならば、それ以前にタタールについても同じことが小規模にあったらしい。すぐに見る通り、モンゴルとタタールは中国でもイスラム世界・ヨーロッパでもどうしようもなく混同されているのだけれど、定住世界の側の無知だけでなく、遊牧世界の中にもそれを準備する条件があったということになる。「蒙古斯国亡びて韃国起り、韃国に成吉思汗出づるに及んで、蒙古斯の雄国たりしを慕ひて、其の国号を採り、始めて蒙古国と称せり」という「蒙韃備録」の記述は、そもそもチンギス汗が韃靼だという出発点が変なのだけれど、蒙古と韃靼を逆にして代入すれば、その論理は実際彼らの論理だったろうと思わせる。
 ラシード「集史」の第一巻第一部「トルコ民族の出現と、彼等がさまざまな民族に分裂した事情に関する物語」(「部族篇」)は、北ユーラシアの遊牧諸民族を四つに分類して記している。
 第一は「オグズの子孫から生じた二四部族と、オグズの親族から生じた部族も加えた民族」であって、始祖オグズ可汗とその子孫(息子6人に4人ずつの孫24人)に由来するという伝説をもち、セルジューク朝を建てるなど早くに西方へ進出していったテュルク族であるオグズ族と、その分派ウイグル、カンクリ、キプチャク、カルルク、カラジ、アガチェリの諸族が数えられる。
 第二章には「現在はモンゴルと呼ばれているが、以前はこれら各部族はそれぞれ別の名を持ち、独立した首長を持っていた、そのようなトルコ部族」として、ジャライル、スニト、タタル、メルキト、コルラウト、タルグト、オイラト、バルグトなどが挙げられる。
 第三に「以前独立した首長を持っていたが、第二章のトルコ部族ともモンゴル部族ともつながりはなく、しかし外観や言語は彼等と近いトルコ部族」の、ケレイト、ナイマン、オングト、タングト、ベクリン、ウイグルキルギス、カルルク、キプチャク族。
 そして最後に「久しい前から通称はモンゴルであったトルコ部族、これから出た多くの部族」として、ウリヤンハン、コンギラト、ウリヤウト、フーシン、イキラス、スルドス、バヤウト、サルジウト、ウルウト、マングトなどを挙げる[護/岡田 1990:285f; ドーソン 1968:1−307ff]。
 要するにすべてテュルクなのである。それはモンゴル以前に北方ユーラシアを統合する大帝国を築いた突厥の威勢の記憶であり、北方遊牧民一般を意味する言葉だったのだろう。チンギス汗以後、彼らがすべて「モンゴル人」(混同により「タタール人」)称するようになったのと同じ現象が、それ以前に「突厥=テュルク」において起きていたことを示している。さらに以前には、より小規模に匈奴やフンについても起こっていただろう。
 ラシードがまず第一にオグズ諸族をまとめて列挙するのは、西方において彼らが最も身近であったことによると思われる。第四に挙げられるのはモンゴルの中核諸部族であり、第二・第三グループとの違いは、チンギス汗のもとに参じた時期や事情の違いに基づく、いわば譜代・準譜代・外様といったものであろう。第三の諸族はタングトを除いてテュルク系である。
 タタル族はチンギス汗による大殺戮を受けたが、彼の妃の二人がタタル族の出身だったこともあり、生き残った者や匿われた子供たちがいて、その後も「モンゴル」内の有力部族として残った。モンゴリア高原への北帰以後のタタル族は、15世紀末ダヤン汗が再編した六万戸のうち、チャハル万戸・トメト万戸にその名が見えるのみで、姿を消していく。西方では、ウズベク族やテュルクメン族の中にタタール部族があったという。


<西方史料の「タルタル人」>
 西方イスラムキリスト教世界では、中国人に倣ったものか、モンゴルをタタールと呼ぶ。それでも彼らと接する機会のあるイスラム世界では、モンゴルと言うこともある。ジュワイニーの「世界征服者の歴史」(13世紀)では、モグール、タールタール、タータールの語が使われているという。アルメニア史書には彼らの呼称としてタタルのほかにムガルが現われる。ヨーロッパではほぼ一貫して、"EX TARTARO"「地獄から来た者ども」の意で「タルタル人」と言うのが普通だ。困った「普通」ではあるが。
 ロシアの「ノヴゴロド年代記」には、「その言語も素性も信仰もわからぬ民があらわれた。だれひとりとして、彼らが何者であるか、どこからやって来たのかを知らない。ある者は彼らをタタールと呼んでいる」[中村 1970:390]とある。
 「死すべき人間の楽しみがつづかぬようにとて、また、この世の幸が悲歎をともなわずには永続せぬようにとて、1240年に、サタンのいとうべき民、タルタル人の数限りなき軍隊が、その山に囲まれた故郷から解き放たれて、コーカサス山脈の堅き岩々に穴をうがち、悪魔そのままに、タルタルス(地獄)から跳り出て来た。かれらが正しくも、タルタリまたはタルタル人と呼ばれるのはこのためである。地表全面にわたって、かれらはいなごのように群れをなし、東部地域におそるべき惨害をもたらして、それを火と虐殺で荒廃せしめた」(マシュー・パリスの「大年代記」、13世紀)[カルピニ/ルブルク 1989:349f]、等々。
 しかし「モンゴル=タタール」という単純な等式は成り立たない。16世紀末から17世紀初頭にかけて、ロシア領内に「モンゴル人」(モンゴル語方言を話す人々の意味で)が侵入してきた。オイラトの一部族トルグートである。彼らは中央アジアテュルク系民族にカルマクと呼ばれていたので、ロシア人もそれに倣ってカルムィクと呼んだ。ヨーロッパも右へ倣っている。「トルグート」とも「オイラト」とも呼ばれないにせよ、彼らは「カルムィク人」であって、「タタール人」とはされない。つまり「タタール」は歴史的名称であるわけだ。


<モンゴルとタタール
 実際にモンゴリアへ旅したカルピニやルブルクは、モンゴル人の自称が「モンゴル」であることは知っていた。1245/46年にグユク汗のもとへ使節として赴いたプラノ・カルピニのジョヴァンニ修道士の報告には、次のような記述がある。「東方にモンゴリアと呼ばれる、わたしどもが上に話しました土地があります。かつてこの土地に、四つの部族が住んでおりました。一つはイェカモンゴルで、これは「大モンゴル人」という意味です。第二はス・モンゴルで、これは「水のモンゴル人」を意味しますが、この部族は、自分たちの住む領域を貫流するタルトゥル河という河の名にちなんで、タルタルと自称いたしました。もう一つはメルキト人と呼ばれ、第四はメクリト人でした。これらの部族はたがいに別々のもので、それぞれ自分たちに固有の地域と支配者とを持っておりましたが、どれもこれも外観はよく似ていて、同じ言葉を使っていました」[カルピニ/ルブルク 1989: 24]。そしてイェカモンゴルにチンギスが現われ、他の三つを次々に服属させたというのである。「水のモンゴル」がタタールだと言うのだが、「黒韃事略」に記載があるという「斛速益律子(ウス・ウルス)」(モンゴル語で「水国」の意)と関係があろうか。松花江流域の「水達達」も想起される。メクリトは「契丹国志」の「鼈古里国」に対応しよう。
 その少しあと、1253/54年にカラコルムのモンケ汗のもとへ旅したルブルクのギョーム修道士は、モンゴル人たちはタルタル人と呼ばれるのを好まない、それは彼らが隣合った別の部族だからである。彼らはともに貧しかったが、元蹄鉄工だったチンギスがこの両者を束ねて統率者となり、各方面にタルタル人を派遣して征服行を行なった。そのためにタルタル人の名が知れわたったのだが、しかしその戦争でタルタル人はほとんど死に絶え、そこでモンゴル人は自分の名を押し出そうとしていのだ、と説明している(註4)[カルピニ/ルブルク 1989:178ff]。
 モンゴル人自身、彼らがタタールと呼ばれているのは知っていた。たとえばイル汗国のアバカ汗がローマ教皇へあてた手紙に、「汝らがタルタルと呼ぶモンガル族の最も強大なアバカ王」(1274年)とあるように。
 元朝のモンゴル人は、中国人の「韃靼」呼ばわりを嫌っていた。しかし「タタール」という明らかな誤称に対する態度は、地域によって異なっていたようだ。チンギス汗の孫バトゥの建てた金帳(キプチャク)汗国では、「タタール」が早い時期から彼らの自称にもなっていたらしい。フランシスコ会士が書いた「クマン写本」(1303−62)という語彙集が残っている。ヨーロッパ人の言うクマンとはキプチャクのことであるが、彼らの言葉は「タタール語」 tatarčá, tatar til とされている。最後まで残ったその後継国家クリミア汗国(1783年ロシアに併合される)の「タタール人」も、ロシアや宗主国オスマン・トルコにそう呼ばれるだけでなく、自らもそう称していた。
 しかし「タタール化」(自称としての)の完了は、14世紀よりあとのことだったようだ。イスラムの大旅行家イブン・バットゥータは、モンゴル人を例の通りに「タタル人」と呼ぶ一方、金帳汗国を旅したとき、首都サライについて、住民にアス人、キプチャク人、チェルケス人、ルーシ(ロシア)人、ルーム(ギリシア)人などとともに、ムグル人がいたことを記す。彼らはこの地域の住民とスルタンたちだという。支配階層の自称としての「モンゴル」はなお残っていて、キプチャクとは異なる集団であったことがうかがえる。
 タタールとモンゴルは兄弟だという伝説もあったらしい。北川誠一氏によれば、ヤルカンド(カシュガル)汗国の史書「チンギズ・ナーメ」には、ノアの子ヤペテの子トルコからトルコ族が始まるという伝承、オグズ可汗伝承、大戦争の末滅ぼされた一族の生き残りがエルグネ・クンという渓谷に逃れるという伝承(ラシード「集史」にある)、夫の死後光に感じて妊娠するアラン・ゴア伝承など、テュルクとモンゴルのさまざまな伝承が組み合わされている。トルコの子孫ユラムチャにタータールとモグールの息子があり、モグールの孫がオグズ・ハン。その子孫のイール・ハンの時、タータールの子孫のセヴィンジ・ハンと戦争になり、わずかに生き残った者がエルグネ・クンに逃れた。その子孫にアラン・ゴアが生まれ、その血筋がチンギス・ハンに続くというものである[杉山/北川 1997:438f]。17世紀ヒヴァ汗国の汗アブルガージー・バハードゥル・ハーンの「テュルク族統譜」でも、同じようなモグルとタタルの兄弟伝説が語られる。これを聞くと、ハンガリーマジャール)人の伝えるフノルとマゴルの兄弟が思い出される。彼らはフン族マジャール族の伝説的始祖になったという。年代的に異なるフンとマジャールの間の実際のつながりは極めて微弱であって、しかし伝説的にその間の結びつきを信じる。こういう伝統にモンゴル・タタール兄弟伝説も連なるのであろう。
 ある神話的な同名の族祖から民族が始まるという伝承は遊牧民の間によくあるし、また逆に、ある名高い君主や英雄の名をもって民族の名とする例も多い。ティムール朝を倒した遊牧ウズベク族は、現在のウズベキスタンの主要民族にもなっているが、その名は14世紀金朝汗国のウズベク汗による。かつてはヴォルガ下流地方に強力なノガイ・オルダを建て、現在はコーカサス北麓に住むノガイ族も、金帳汗国の有力者、ジョチの曾孫ノガイから名をうける。ちなみにこのノガイの父の名はタタルであった。あるいはこんな事実が、金帳汗国で「タタール」という他称を自称として受け入れるようになるときに、ひとつの導きになったかもしれない。なおタタルという名の人物は、12世紀初めのペチェネグ族にもいた。彼は、ビザンツ帝国を襲撃して敗れ、ハンガリー王国にやってきて定住したペチェネグの集団を率いていた。
 大征服者たちの自称であった「モンゴル」は、単にその後裔であるモンゴリア高原のモンゴル人にのみ伝わるものではなかった。「モンゴル」を称する国や人々は、帝国西半の中央ユーラシアにも存在しつづけた。14世紀半ばにチャガタイ汗国は東西に分裂するが、東チャガタイ汗国はモグーリスタン汗国とも呼ばれる。西チャガタイ汗国にはティムールが現われ、大帝国を建設する。16世紀初め、このティムール朝ウズベク族によって滅ぼされたとき、ティムールの子孫バーブルはインドに入って新たな王朝を打ち建てるが、彼の帝国はムガール帝国と呼ばれた。ほとんど周囲の民族に同化された状態にあるが、かつてはモンゴル語の一種を話していたアフガニスタン西部のモゴール族という人々もいる。
 中央ユーラシアの広大な遊牧民世界を統一した「モンゴル」は、その世界の中で輝ける歴史となった。参照される範例となったのである。たとえば、ハンの位には長くチンギス汗の血をひく一門の男子しかつけなかった。あのチンギス汗にも比される14世紀後半の大征服者ティムールは、汗としてはチンギス後裔の者を立て、自分はアミールとして統治した。モスクワ大公国のイヴァン雷帝が突如チンギス裔のシメオン・ベク・ブラトヴィッチにツァーリの位を譲り、一年後また復位するという奇妙な行動をとったのも、チンギス汗の血によるツァーリ位の権威づけと考えられる。


モンゴル帝国西半のテュルク化とイスラム化>
 「テュルク化」というのは不正確な言い方である。そもそも大征服当時の「モンゴル」には多くのテュルク系諸族が含まれていたわけだから。モンゴル軍がコーカサス山脈を越えて、アラン族・レズギ族・チェルケス族・キプチャク族が連合して待ち構えているのに遭遇し、戦ったが勝敗が決しなかったとき、その中で唯一のテュルク系のキプチャク族に対して「われわれは貴公たちと同じくトルコ族である」と言って和平をもちかけて離脱させ、残りの部族を撃破したということがあった。そののち食言し、キプチャク族も打ち破るのであるが。
 ある地域の言語がそこの住民中の多数に従うというのは、その逆の事例もなくはないとしても、きわめて自然なことである。のち金帳汗国となる黒海カスピ海アラル海の北の大草原を所領として与えられた長子ジョチに、チンギス汗が持たせた軍隊がただの四千人であることを考えれば、「この王国は以前、キプチャク人の国であった。タタル人がこの国に満ち溢れると、キプチャク人は彼らの家来になった。彼らは、混じりあい通婚した。このようにして自然の配置ともともとの性格を変え、彼らはまるで同じ種族であるかのように、全員キプチャク人のようになった」(アル・マウリー)[杉山/北川 1997: 391]という記述の通りであろう。ましていわんやその四千人のうちの何割かもテュルク系であったろうからには。
 14世紀前半にフィレンツェ人ペゴロッティは「商業指南」の中で、中国へ旅する商人に対し、通訳と「クマニア語」(キプチャク語)に通じた召使を二人雇うように書いている。テュルク語さえできれば、北京までも行けたわけである。また、イブン・バットゥータ旅行記には、チャガタイ汗国のタルマシーリーン汗にあったとき、彼はトルコ語で挨拶し、自分のことを「トルコ人のスルタン」と言っていたことが記されている。汗に至るまでテュルクであった。
 むろんテュルク系とモンゴル系の言語は違う。しかしそれ以外の、遊牧民としての生活形態や感情、道徳、文学や芸術、イスラムラマ教に改宗する以前の信仰まで、文化のほとんどすべての領域で共通していたであろう。その中で言語にまして重大な違いは、風俗にあった。ルブルクのギョームの報告には、モンゴル人の髪型について、「男は脳天を四角に剃り、その四角の前方の両隅からこめかみにかけ、頭の両側にそって細長く剃り落とします。またこめかみを剃るとともに、頚をぼんのくぼの上まで、ひたいを前額骨の上まで、それぞれ剃りますが、ひたいの上には髪を一房残して眉のへんまで垂らします。頭の両側と後部には髪を残して別々の房にし、それらを頭のまわりで編み合わせて両耳のところにもってきます」とある。サマルカンドが陥落したとき、カンクリ族の兵士が集められ、モンゴル人のような頭にされたという。また、タルタル人=モンゴル人は「前が開いた上着を着て、右側でゆわえます。つまりこの点がタルタル人とトルコ人の違うところで、トルコ人上着を左側でゆわえるのに、タルタル人はかならず右側でゆわえるのです」と記している[カルピニ/ルブルク 1989:149f; 杉山/北川 1997:397f]。そしてこのような髪型・服装をする者、それを受け入れた者が「モンゴル人」だったのであって、それは言語による区切りではない。
 民族について言うならば、問題はむしろ「モンゴル化」である。モンゴル帝国は民族の大撹拌と再編成を行なった。現在まで続く「民族」の多くは、モンゴルの大征服とその帝国の崩壊後の再編の中で成立した。多くの整理も行なわれた。言語を単位として見れば、モンゴル帝国の東半、大元の本拠だったモンゴリア高原は、以後モンゴル語の領域になる。そこは突厥ウイグルと長くテュルク族が多数を占めていたのであるが。西部三汗国ではテュルク語が上層部の薄いモンゴル語集団を呑み込んでしまい、それ以前からそうであったように、それ以後もテュルク系の言葉を話す人々が、ペルシアを除いて「トルキスタン」(テュルク人の土地)を形づくる。だが「民族」は改まった。たとえば金帳汗国の拠ったステップが「キプチャク草原」と呼ばれていたように、モンゴル以前、キプチャク族はこのあたりで長く有力な民族であった。ロシアの叙事詩「イーゴリ軍記」でイーゴリ公の赴く戦いの敵手ポロヴェツもキプチャクのことである。彼らやそのほかのかつてこの地域に栄えた民族の名前は、モンゴル以後消えてしまい、新たにウズベクだのノガイだの、ウズベクから分かれたカザフだのという、モンゴル時代にその起源をもつ名称の民族が現われる。キプチャクその他の古き民族名は、それら新興の名を名乗る上位集団の中の下位集団、部族の名として生き残るのみだ。そして近世の「タタール人」というのも、「モンゴル」出自の民族として新たに成立したのである。つまり西方の「タタール人」は、名称としては「西征モンゴル人」を意味する異称であり、実体としてはイスラムを奉ずるテュルク系民族であったわけである。

 言語における「テュルク化」と同様、宗教の「イスラム化」もまたモンゴル中心的な見方で、その地の住民に即して見れば、モンゴルの大征服が一段落し、支配階層がそれ以前の状態の中に取り込まれたというに過ぎない。イル汗国やチャガタイ汗国の西半はモンゴル以前からイスラム圏であった。だが金帳汗国はそれ以前断片的にしかイスラム化されていなかったので、この汗国のイスラム受容の意義は大きい。
 宗教は、それが世界観や歴史伝統、慣習の体系等々と分かちがたく結びついているゆえに重要なのである。前近代の知識人はその多くが僧侶や聖職者であったため、書かれたものの伝統は宗教によって大きく規定される。旧ユーゴスラヴィアの、ほとんど方言的な違いしかないセルビア語とクロアチア語が、正教徒とカトリック教徒の違いのため、文字までが異なる(キリル文字ラテン文字)という例を思えばいい。イスラム化は「モンゴル」を変質させずにはいない。帝国西方の三汗国の支配層は相次いでイスラムの教義を受け入れた。金帳汗国では、ウズベク汗(在位1313−41)の時に改宗した。ベルケ汗(同1257−66)がすでにイスラムに入信していたけれども。チャガタイ汗国では、ムバーラク・シャー(同1266)がムスリムであった。タルマシーリーン(同1326−34)の頃からイスラム教化が進む。イル汗国ではガザン汗(同1295−1304)が改宗した。改宗によってこれらの汗国の「モンゴル人」たちは、チンギス汗を極悪人と考えるイスラム文化圏に属することになったわけである。これに対し、東方のモンゴル人たちはチベットラマ教を受け入れた。このことも東西「モンゴル」を決定的に分かつのに寄与した。

 このようにテュルク化しイスラム化した大モンゴル帝国西半の「モンゴル人」たちは、チンギス汗やモンゴル帝国に由来する制度や慣習を残す一方、「モンゴル」という名号も光輝あるものとして後に残すはずだったが、西方では初めから「タタール」「タルタル」と呼ばれていたため、そちらの名のほうに遺産は引き継がれた。


<ロシアのタタール
 前に述べた通り、ロシア人は襲来したモンゴル軍をタタールと呼んだ。その後は、モンゴルの建てた国ながら、キプチャク・テュルク語を話し、イスラムを受け入れた金帳汗国と後継の諸汗国の民をタタールと呼びつづけ、さらに、民族誌を学んだソ連邦のできるまでは、イスラム教徒のテュルク系民族を慣用として「タタール」と呼んできた。ソ連時代は民族の自称を優先する政策により、「タタール」はカザン・タタール、クリミア・タタール、シベリア・タタールを指す言葉となった。
 ロシアとタタールの関係は非常におもしろい。金帳汗国の版図は、ほとんどかつてのロシア帝国ソ連邦の領内に収まる。というより、金帳汗国の遺産を取り込むのがモスクワ国家・ロシア帝国の発展の軌跡であった。モンゴルの征服以後のロシアの歴史は、ロシアとタタールの関係史である(註5)。ロシア帝国モスクワ大公国が拡大したものだ。現在も首都であるそのモスクワの町は、初めて記録に現われるのが1147年、キエフノヴゴロド、近くのスズダリなどよりずっと新しく、13世紀後半のモンゴル時代に公国となったが、当時は取るに足りない小さな新興国家であった。ロシア人の諸公国がモンゴルの支配を受けていたいわゆる「タタールの軛」の時代に、他のロシア(ルーシ)諸公国を抑えて発展をとげた、いわばタタール支配を糧にしてのしあがった国なのである。金帳汗国が解体に向かうと、正教を奉じるキリスト教国ながら、イスラム教のカザン汗国、クリミア汗国とともに金帳汗国の遺産を争奪した。15世紀にカザン汗国が金帳汗国から分立したとき、モスクワとカザンの間にカシモフ汗国という小さな国がモスクワの属国として成立した。このときモスクワ大公国はチンギス後裔のハンを支配下に置いたことになる。1552年にカザン汗国、1556年アストラハン汗国と、金帳汗国の後継国家を併合し、ヴォルガ川という東方への商業ルートを押さえ、1581年コサックによってシビル汗国の征服を始めた。なおクリミアには強力なクリミア汗国(何度もモスクワを襲撃した)が1783年まで残っており、ヴォルガ以東のステップ遊牧民の領域も18−19世紀までなかなか領土に組み込めなかったけれど、16世紀中にモスクワ国家は金帳汗国の後継国家の筆頭になったと言える。ロシア人諸侯やリトアニアと争ったキエフ大公国の遺産の争奪とともに、モスクワは両正面の戦いをしていたのだ。
 それを示す一つの例が、ツァーリの称号である。ツァーリビザンツ皇帝の称号として使われていたが(コンスタンチノープルツァーリグラードと呼んでいた)、のちには金帳汗国のハンも指した。その解体後は後継国家のハン(つまりチンギス後裔)もツァーリと呼んだ。ロシア正教会はミサ法要帳にビザンツ皇帝と金帳汗を同じツァーリ称号で列記し、その健康と魂の救済を祈っていたという。モスクワの君主が自らをこの称号で名乗ったのは、イヴァン3世のとき、1473年に例があるけれど、実質的には16世紀、イヴァン4世(雷帝)から始まる。同じ時期、16世紀前半に「モスクワは第三のローマ」(第二ローマ=ビザンツに次ぐ)理念が唱えられるのと同様に、ツァーリ号も第一には正教世界に向けられたものだったが、一方でステップ世界に対するハン後継者の意識も当然あっただろう。9−11世紀のキエフ・ルーシが、当時のステップの隣人ハザール族からの影響で「カガン」号を称していたのと軌を一にする。
 「タタールの軛」という概念もまた16−17世紀の起源である。実際のモンゴル支配の時代にはこの語はなかった。その観念もなかったのだろう。タタール支配を災いとのみ意識するこの反タタールイデオロギーは、「第三ローマ」と同様、正教会の側から持ち出された。そんな言葉のなかった「タタールの軛」時代には、宗教に無頓着なモンゴル人のもとで教会はむしろ「保護」されていたのであるが。汗国解体後、カザンとアストラハンを併合してのちは、イスラムと直接対峙する状況が生まれたことによるのだろう。
 正教会の側の反タタール意識とは逆に、俗人の君主や貴族の間には、親タタールとまでいかなくとも、反タタールの意識に乏しかったのではないかと思われる。カザン・アストラハン併合以前から、モスクワ大公国に仕官するタタール人がいた。その流れは両汗国併合後はずっと大きくなった。その場合むろんキリスト教に改宗するわけだが。そのようにしてロシアの貴族となったタタールの家系はかなり多く、17世紀には貴族層の17%を占めていたという研究もある。タタールの出自は、ドイツ系やポーランドリトアニア系と並び、誇りとすべき名誉ある家系であったのである。ボリス・ゴドゥノフもタタールの家系だと言われていた。
 「同志」(タワーリシ)もそうだが、関税や貨幣など、ロシア語には政治制度や財政、物質文明に関するタタール語起源の語が多い。文明語や制度に関する借用語が多いことは、その影響の大きかったことを意味する。駅逓制度(ヤム)もモンゴル時代の名高いジャムチに由来する。外交慣習にも、ヨーロッパとは違う、東方の制度と共通するものがある。世俗的な方面では、モスクワ・ロシアはタタール継承国家の面が無視できないほど強いのだ。
 ロシアとタタール汗国の同質性は、奴隷やその他の形で汗国の領民となっていたロシア人によっても強化されたであろう。モンゴル人は、当初被征服民の財産と人間の十分の一を収奪した。そののちも戦争や掠奪の結果、奴隷となって汗国に暮らすことになったロシア人は多数に及んだし、彼らは時とともに、もしキリスト教を棄てたならば、「タタール人」と化したはずだ。そんな人々がのちにロシアの支配下に入り、(再び)キリスト教徒になってロシア人と化したということも少なからずあったろう。このようなケースを考えれば、血の詮索がいかに空しいかがわかる。ロシア語で「農民」はクレスチャーニンというが、これはキリスト教徒の意である。彼らが「ロシア人」であったのは、キリスト教徒であった限りにおいてである。
 コサック(カザーク)という存在もまたステップ世界の子である。テュルク語の「自由独立の人間、冒険者、放浪者」を意味する「カザク」がその語源だ。14世紀末から記録に現われるが、はじめはキプチャク平原南部の辺境の防衛に雇われたテュルク系戦士のことであった。ロシア諸公国やタタール汗国からの逃亡農民・逃亡奴隷がその仲間に投じてきて、しだいに数を増し、組織をもつようになっていった。ドンやドニエプル、のちにヤイク(ウラル)や北コーカサスのテレクなどの大河のほとりに居を構え、17世紀末までは農耕にたずさわらず、主に漁労と狩猟、ついで牧畜・掠奪をこととしていた。現在ではコサックがロシア人の一部であることに疑いを抱かないけれども、キリスト教徒の新来者が供給されつづけてきたため、言語でも宗教でもスラヴとなったのであり、もしテュルク系の流入者のほうが多ければ、テュルク系の「民族」になっていただろうような、そんな集団である。そのことは、まぎらわしい名前をもつテュルク民族、カザフ人のことを考えればよい。彼らは、ウズベク族が15世紀中葉にシャイバーニー朝によって国を建てたとき、それに従わず離れていき、そのためウズベク・カザクとかカザクと呼ばれた集団をその起こりとする。さらに、遊牧テュルク族には成人した若者がある期間家族を離れ、荒野で狩猟や掠奪をしながら放浪するという慣習があるが、そのような若者の徒党もカザクである。つまりカザクとは、遊牧テュルク族から析出していった大小の冒険的な集団の謂いである。コサックにせよカザフにせよ、そういう「ステップのコンテクスト」の中でとらえなければならない。しかしコサックは、その言語や宗教においてスラヴであったため、その後の歴史の中でロシア皇帝と結びつき、帝国の一部に、その征服の先兵になっていく。近世にはステンカ・ラージンやプガチョフの乱など、自由を求めて何度も大反乱を起こしもしたけれど。
 しかし、いかにモスクワ・ロシアと金帳汗国およびその後継国家との間に共通の理解や土壌があろうとも、両者は言語・宗教・生業すべてにおいて異なっている。ロシアがヨーロッパに傾斜するにつれ、かつてあった「ステップとの共通理解」を失いはじめる。その際に大きな役割を果たしたのは、やはり宗教、イスラムを敵視するキリスト教であったろう。しかし決定的だったのは、遊牧民の武力と機動力を相対的に無力化する西欧物質文明の発達、火器と航海術であった。ロシアにとどまらず、近世というのは「タタール」に象徴されるステップ伝統の辺境化の歴史である(註6)。


<ヨーロッパ人の「タルタリア」>
 ロシアと同様、ヨーロッパ人もモンゴルを「タルタル」「タタール」と呼んだ。彼らの住むところは「タルタリア」である。それはかなり漠然とした地域概念だが、おおよそかつての広大なモンゴル帝国の版図のうち、古くからの定住文明世界であるペルシアと中国本土を除いた地域と考えられる。「タルタリア」を大と小に分け、アジアの部分を大タルタリア、ヨーロッパ、つまりバトゥの領地(金帳汗国)を小タルタリアとすることもある。
 中国人にならってであろうが、「シナ大王国誌」やマテオ・リッチの報告のように明代の中国にいたヨーロッパ人が「タールタロ」と呼ぶのは、主にモンゴル人のことである。しかし明清交代期や清代のイエズス会士書簡では、満洲人もその皇帝も「タルタル」とされる。「東タルタリー」はいわゆる東北地方とモンゴリア、「西タルタリー」は当時のジュンガル王国の領域を指している。19世紀に中央アジアを探険したヴァーンベーリは、東トルキスタンの人々を「タタール」と呼んでいる。ヨーロッパ人の言う「タルタリア」はこのような地域、「タルタル人」はそんな地域の住人であった。
 余談だが、ドイツで「タッテル」はジプシーの異称のひとつとなっており、スウェーデンで「タッターレ」はジプシーのような放浪生活をおくる人々に対して使われる。もって「タタール」のイメージが知れよう。


<日本人の韃靼理解>
 このようなヨーロッパ人の地理「知識」は、蘭学を通じて江戸時代の日本にも入っていた。「北槎聞略」(1794)に、「按るに、韃靼はもと亜西亜の北、西の方直に欧羅巴の堺に抵るまでの総称なり。近ごろ三分して一分を魯西亜韃靼といふ。即ち本国にてシビリと称する者これなり。一分を支那韃靼といふ。黒竜江の北、シビリの堺より長城に沿て星宿海の辺に至るまでを云也。一分は特立韃靼なり。南は百児斉亜(ペルシア)、莫臥児ムガル帝国)と壌を接し、東は支那に抵り、西北に欧羅巴の境にまじはる」と註されているのが一例だ。特立韃靼はそのころまだ独立を保っていた西トルキスタンを指すのだろう。山村昌永「訂正増訳采覧異言」(1803)の地図には、支那韃靼(満・蒙)・魯西亜韃靼(シベリア)・小韃靼(クリミア)が書きこまれている。間宮林蔵の探険記録「東韃地方紀行」(1811)の「東韃」とは、まさにヨーロッパ人の言う「東タルタリア」にほかならない。
 「和漢三才図会」(1712)巻第十三異国人物の韃靼の項では、これを蒙古のこととしている。それはこの本が明の「三才図会」にならったためであろう。つまり漢学の「韃靼」理解である。しかし同じ項目の中で、「復た蒙古(つまり韃靼)中国に入りて大明を滅ぼして、今大清と称すは是れなり」としているのには注目される。その項目の直後が、その大清を建てた女真なのだが。
 蘭学盛期以前から、いわゆる中国東北地方が日本人にとっての「韃靼」であったらしい。近松の「国性爺合戦」(1715年初演)の主人公和藤内こと鄭成功は、明朝復興のため清と戦ったのだが、その敵手を「韃靼」としている。さらにさかのぼれば、1644年漂流して現在の沿海州に至り、「韃靼」の都奉天に送られ、さらに清の入城した直後の北京を実見した越前三国の者の報告「韃靼漂流記」もまた、満洲人とその地域を「韃靼」と呼んでいるし、16世紀末秀吉の朝鮮出兵に従軍した加藤清正の手紙に、朝鮮北部咸鏡道に向かうにあたり、「今将に進みて韃靼の境上を略せん」と書き送っている。あのあたりを「韃靼」と呼ぶのが日本人の共通理解であったようで、それははるかに下って司馬遼太郎の「韃靼疾風録」にまでつながる。それはヨーロッパ人の「タルタリア」理解の反映であるのかどうか。
 漢学蘭学の知識を離れれば、日本人の言う「韃靼」はまず中国東北の地、マンチュリアとその住民を指したらしい。これは実におもしろい。13世紀、中国人やヨーロッパ人の言う「韃靼」「タルタル」はモンゴルのことであった。そのモンゴル軍の侵攻を日本は実際に受けている。しかし日本人はそれを正しく「蒙古」と呼ぶ。「むくりこくりの鬼」などとも語り伝える。しかし「韃靼」のほうは、中国人の「韃靼」、ヨーロッパ人の「タルタリア」からも少しはずれた、偏った理解をしている。自分たちから遠い存在は正しく、近い存在は誤って呼びならわす。それはちょうどロシア人が、もともとモンゴル人征服者、モンゴル帝国を指していた「タタール」を、自分たちに身近なイスラム教徒テュルク人に対して用い、かなり遅れて接した本土モンゴリア高原のモンゴル人、まさに「タタール」の中核であったはずの人々を「モンゴル」と正しく呼ぶのと好一対の現象である。


<「タタール」語源>
 最後に「タタール」の語源について見ておこう。川の名に由来するという説は前に出た。この説の当否は確認できない。
 有力な語源説には二つある。テュルク語の tat「テュルク族にとっての他者、異族」に「人」を表す -ar がついたものだという説。tat の語は、8世紀のオルホン碑文にすで に現われる(Tatar 自体がそこで史料に初めて登場する)。tat はそれ以後も異族を表す言葉として、11世紀のカシュガリーの辞書ではペルシア人の意味とされ、またテュルク系のヤグマ族・トゥクシ族にとってはウイグルを意味した。テュルク族の間では一般にペルシア人・タジク人のことであったけれど、トゥルクメン族ではヒヴァの住民(テュルク系・ペルシア系の言語を話す定住民)を、クリミア・タタール人ではクリミア半島ギリシア人を、ノガイ族では半島南岸のムスリムトルコ語を話すものの、歴史的にはさまざまな民族の混成である)を指すというように、その意味する対象は使用する集団によって異なっている。現在民族学的に言う「タート」は、イラン西部、カズヴィーンの西から南西にかけて住むペルシア語南西グループの言葉を話す人々と、アゼルバイジャン北東部・ダゲスタン南部に住むペルシア語系の言葉を話すムスリムキリスト教徒・ユダヤ教徒少数民族である。このように、tat という言葉自体が古くから他者である集団(社会集団を含めて)を指すのに使われてきた。すると、そういう名称が一方にあるのに、ある特定の部族を指すために、同じ語源で別に tatar が用いられていたということになるが、それは両立するのかという疑問は残る。
 もう一つは「吃り」(カルムィク語:tatr、チュヴァシ語:tudar 等)を意味していたという説だ。「資治通鑑」註記に引かれた宋白の文に、「その俗語訛りあり、よってこれを達靼という」とあるのも傍証になる。ギリシア語の「野蛮人・外国人(バルバロイ)」が「わけのわからぬ言葉を話す者」、ロシア語の「ドイツ人」 nemets が「唖」「ロシア語を話さぬ者」の意味であったのと似ている。
 どちらの説をとるにせよ、自称ではなく、他から与えられた名称ということになる。しかし、このどちらもいまだ定説とするには至らない。
 そのほか、テュルク語の集合名詞を表す語尾にはさまざまなものがあるが、-r もその一つである。-bï というのも、やはりそういう語尾の一つと考えられる。オルホン碑文には三十姓タタールが二箇所で言及されるが、二度ともそのすぐあと、契丹の次に Tatabï という民族の名があがる。中国の史書に、472年から550年にかけて現われる「地豆于」のことではないかと言われている。「地豆于」の名が史書から消えるのと入れ替わるように、同じ地域に「△」というものが出てくるが、それがおそらく「地豆于」の後身であろう。また、碑文中タタビは常に契丹と並記されるところから、契丹西隣で近い関係にあった「奚」ではないかとも考えられている。△と奚は並記されること多く、ほとんど同族であったろう。このタタビとタタールの名称は構造的に同じ、つまり Tatar、Tatabï とも語幹 tata- に集合名詞語尾がついたものだという解釈がある。傾聴すべきものを含 んでいるだろう。
(△:雨+習)


(註3)モンゴルの征服以降になるが、ティムールの時代、小アジアの中部に「黒タタール(カラ・タタール)」と呼ばれるモンゴル軍団の遊牧民の子孫が三、四万戸いた。ティムールは彼らを中央アジアのイシク・クル湖やホラズムへ移住させたが、その死後また小アジアへもどり、それからバルカン半島へ移された。ブルガリアタタール・パザルジク市はそこから名づけられたという。クラヴィーホの旅行記には、ダームガーンでティムールに殺戮された黒タタール人の頭蓋骨でできた塔を見たとの報告がある。彼は、シワスの南方にいて、同様にティムールによって移住させられた白タタール人についても言及している。
(註4)そのほかに、「キリスト信者」と呼ばれるのも好まないと書いている。「「キリスト教という言葉が、かれらには、一つの種族をしめす名前ででもあるかのように思われているからです。かれらはおそらく、多少はキリスト教を信じているのでしょうが、自負心が非常に強いものですから、キリスト信者と呼ばれるのを嫌い、モンゴル人というかれら自身の名前をこそ、ほかのあらゆる名前の上におこうとしているのです」[カルピニ/ルブルク 1989: 176]。
(註5)東方では。西方ではポーランドとの関係史だった。それはイスラムカトリックという両面の敵でもあった。18世紀末、エカテリナ2世の時に、クリミア汗国併合とポーランド分割によってこの近世ロシアの二つの強敵は地図上から消滅する。
(註6)遊牧民の力を最終的にひしいだのは、近世後期から近代に起こった定住世界での人口爆発である。遊牧は、動物の生活リズムに寄り添い、動物の与えてくれるものに寄りかかった生活だから、大きな人口は養えない。産業というものは基本的に収奪であるが、自然の中を移動する動物の群れからは、大量の収奪はできないのだ。前近代においても彼らは定住民に対してずっと少数であったけれど、すぐれた機動力に加えて、武力の集約・集中ができたため、農耕民に対して優位が保てた。だが人口で完全に圧倒されるようになれば、それも無意味である。