芸名・偽名・変名

最近ある研究会で発表をし、主催者に原稿を会誌に載せたいと言われて、では平賀英一郎の名でと言ったら、怪訝な顔をされた。もちろん、いぶかしむほうがもっともである。


人はなぜ本来の名前でないものを用いたがるのだろうかという根本的な問題はとりあえずおいて、本名と仮名、実名と非実名の関係を考えてみると、おおよそ次の3つになるのではないかと思う。
A.「芸名」。筆名や源氏名もこの類である。要するに「芸能」を行う際の名前であり、「売る」ための名である。この名前のもとに生計を得る。実際にはそれでは食えない連中が(けっこう大勢)いるとしても、あくまで「生業のための名」である。
B.「変名」。本名を隠して別の名を使う場合。「匿名」と言ってもいいかもしれない。水商売の女の源氏名に対し、その店に来る客が仮名をなのる場合や、雑誌に作家が書く「筆名」と投書する人が使う普通名詞もどきの名前が並んでいる場合、それぞれ前者と後者の性格は同じでない。本名を隠し別名をなのるというと犯罪めいた感じがあるが、快傑ゾロやスーパーマンのような正義の味方の名もこのカテゴリーにはいる(これを「芸名」とは言えないものね)。実名と仮名の使い分けがこのタイプの特徴だ。
C.「偽名」。逃亡犯罪者やスパイが使うもの。これは実名を隠し、本名の人生と違う人格を生きるために使うのであって、別人になるための名だ。本名はこの場合捨て去っているのである。レーニンスターリンなどの革命家の変名は、「偽名」に近い性格があるが、筆名の一種と見るべきであろう。
 これら3つのカテゴリーは連続しており、それぞれに截然とした切れ目があるわけではない。特にBはそうで、誹謗中傷の投書や密告の主などは、あくまで本名を隠し通し、その点で「偽名」性が高い。一方で、ブログその他で使われるインターネット上の仮名は、限りなくAに近い。投書名のようでもあり、筆名のようでもあり、収入と必ずしも結びつかないという点ではBだが、パフォーマンス、発表行為の名であるという点ではAにも見える。社会の変化にともなう新しい領域かもしれない。
 Aの変種に、雅号というものがある。画家や俳人のように完全に筆名として用いる場合もあるが、本名と並んで使うことも多い。いくつも使い分けることもある。姓はふつう本姓をそのままなのる。これなど本名と幸福に共存している変名で、世の塵まみれなら本名を、雅な折々には号のほうを、用い去り用い来たり、垣根を軽々のりこえて、風にのって遊ぶふうがある。けれども、現代のような俗によって貫徹された世界ではいささか使いづらい。


私の場合、研究会などで身をさらすときには本名を使うし、雇用されるときも当然本名だ。外国では、書いたものを発表するときも含めて、本名を使わねばならない。そんな状態で、本人が現前していないとき、何か書いたものを公にするときだけ筆名を使っているわけだが、論文で筆名というのはいささか無理で、筆名を使うなら、書くという行為にかかわるすべての場面でその名を使っていなければならない。本名との連絡のある雅号によるならこれでもいいが、その例にも属さない。裏付ける生きた人間のいない「純粋筆名」となってしまっている。むしろBのような「変名」に近いあり方だ。利益を得るための名である筆名に、それを受ける人物が欠落し(本名の人物は同種業界に別に存在するのだから)、本名は本名で、行なった仕事の半分以上は別の名前(筆名)の別の人物がやっていることになって、業績の薄い人間として取り残される。これでは使えば使うほど不利になるが、もう平賀の名で書いたものもずいぶんたまり、愛着もあるので、ずっと使いつづけることになるだろう。いうならば、筆名の「ゾロ」ヴァージョンである。それとも「源氏名」タイプか?


そのほかに、通称・あだ名というものがある。「人呼んで」というやつだ。実名と異なる名前としては、これがもっとも「正しい」。本名というやつは、結局親なり名付け親なりが付けた名前である。だから自分で自分に名前を与えたいと望む者が絶えないのだが、自分でつけると、自意識過剰ないやらしいものになることも少なくない。その点、おまえはこうだ、こう見える、と周囲がつける名前はすがすがしい。本人の希望通りにいかないこともままあろうが、だからこそなお一層よいのである。(けれども、本人自身がつけた名も、自分はこうありたいという自分自身の欲求を表しているのだから、あだ名と同じくらいに自分をよく示しているとも言え、実際使い込むとだんだんそうなっていくだろう。)
名前にはイメージがある。「綾小路」にも「公麿」にも全然見えない中高年が「綾小路きみまろ」と名乗るのは、それを逆手にとるわけだ。漢字もまたイメージを担っており、同じ「きよし」でも「清」と「潔」では漢字が違い、感じも違う。「清志」となるとこれまた違う。
名前があるイメージを与えるのは西洋でも同じで、ハンガリーにいたとき、女どもがひとの名前について、「あの人チャバなんて感じじゃないわよ」「そうよ、ピシュタってとこよ」「いや、カルチじゃない?」などと勝手に(さも愉快そうに)月旦しているのを聞いた。そこで、「じゃ、私はどんな名前に見える?」とたずねてみたら、「うーん、ヨージェフね」との託宣であった。ほう。ヨーゼフ・Kみたいでいいじゃないか。だから横文字で筆名をつけるときは、もう決まっているのだが。


もうひとつ、旧姓というものがある。夫婦別姓論者でなくとも、世はいたって晩婚の時代である。女性も若いときからバリバリ仕事している。「旧姓」のほうで仕事関係の人々に知られているので、結婚後姓が変わっても、それを通称として使いつづける人は決して少なくない。
ある知人が仕事で海外に行ったとき、空港に迎えにさしむけられた人が上司に、「飛行機に乗っていません! 搭乗者名簿に名前がありません!」とあせって電話したそうだ。また、ホテルに訪ねてきた人が、そんな人は泊まっていないと言われて、いぶかしみつつ引き返したこともあった。社会的には仕事の際は旧姓を通称として用いているが、搭乗や宿泊するときは、パスポートに書いてある名前、つまり夫の姓で登録されるので、こんなことが起きる。
これなどは、結果として「筆名」のようになっているけれど、本来筆名というわけではない。本名のほうがシフトしたのであって、要するに「本名」がふたつあるのである。しかし戸籍名はひとつしか許されない。そのギャップから起きた現象である。
だから夫婦別姓にするべきだ、とは私は考えない。成子(なるこ)さんと結婚する成子(しげこ)さんが困っている(こういう場合は改名できるそうだ。「茂子」にしたり「しげこ」にしたり)。マリさんが小田さんと結婚する場合、水田さんと結婚する場合も困るけど、それゆえ楽しくて豊かではないか。夫婦別姓はつまるところ、狭量な近代一人一名制の側に立つ発想である。近代社会はひとりにひとつの名前しか認めない。それを突き破るわずかな抜け穴が、結婚や養子縁組による姓の変更だ。
「前畑ガンバレ」の前畑選手も苗字が変わった。そちらの姓はほとんどの人が知らない。けれど、娘時代の名前のほうはみんなが知っている。青春の記憶として、輝かしい時代の全国民に共有された思い出として、永遠に不滅である。所帯の苦労と無縁な、世間の垢にまみれぬ旧姓旧名をもつことは、特権でなくて何であろう。
名前はすなわち人格である。ふたつの名前をもつことは、ふたつの自分をもつことだ。「ふたつの名前をもつ男」には、ある種の魅力があるだろう。「ふたつの名前をもつ女」は、あまりにも世間に多いのでつい忘れがちになるけれど、これもまた魅力的であるはずじゃないか。