フェルガナ日録(1)

6月23日、ウズベキスタン航空の直行便で成田からタシケントへ。R氏と同行。時差が4時間あるので、その日のうちに着く。

 出発前には、福岡でネパールの、岡山でチチハルの、上野で同じくチチハルの、つくばでまたチチハルの元学生に会い、つくばでは前日着いたトルコの元学生にも会って、そしてウズベキスタンへ、20年ぶりの再訪。

6月24日、ホテルに迎えに来てもらい、A会タシケント校へ。クラス参観。

6月25日、日曜なので職場は休み。付近を歩き回る。昼食にプロフを食べたら5万スムだった。昔なつかしいロシアのカップ型アイスクリームが2200スム。おつりはガムでよこす。20年前使い残して持って帰っていた500スム・100スム札はもはや使えず、最高額札だった1000スム札だけは通用するが、10円程度である。20年はガムと化す、か?

6月26日、午後タクシーでフェルガナへ。5時間。峠の夕景美しい。用意されたアパート前に今はA会フェルガナ校の教師・スタッフとなっている昔の学生が来てくれていた。

6月27日、小児病院の3階にあるフェルガナ校へ。授業に加わる。

 フェルガナ校の教師2人は昔の学生。特定技能・介護で就労を希望する者のクラス3つと技能実習生としてホテル勤務を希望する者のクラスがあり、それぞれ少数の日本留学希望者を含む。後者は8月で終了。前者の受講生のほとんどは現役看護師で、平均年齢は30代後半から40歳くらいと思われる。8か月コースで、12月終了予定。授業料はともに月35万スム。

6月28日、クルバン・ハイトの祝日。アルタリクの同僚教師の実家へ招かれ、羊の屠殺を見る。フェルガナ大学の国際部長だった彼女の父親はメッカ巡礼をすませ、ハッジになっていた。

7月3日、R氏が学校に来て、受講生を集めて説明会。この日から介護クラスの教科書を「みんなの日本語」から「いろどり」に変える。

7月10日、マルギラン駅まで車で送ってもらい、列車でタシケントへ。5時間強。

 昔は首都に行くには車でカムチック峠(標高2200m超)を越えなければならなかった。冬は雪でスリップの恐れもあり、なかなかたいへんだったが、ここにトンネルが掘られ、鉄道が開通している。便利になった。ただし、隣町のマルギランまで行って乗らなければならない。トンネルを抜けるのに15分。道のほうも、旧道より低いところに2本のトンネルができて、かなり楽になった。昔の道を見上げると、あんなところを通っていたのかと感慨を持つ。

7月11日、集中コースの授業始める。ウズベキスタン経団連にあたるものの会長、参観に来る。その後、ホテル就労希望者を集めて日本語力をみるための質問をする。

7月12日、UJCへ行き、日本語専門家A氏にあいさつ。「特定技能制度による来日希望者のための日本語教授法研修」という助成プログラムがあることを教えられる。もともと6月23日が締切りだったが、7月14日に延び、さらに18日まで待ってくれるとのこと。

7月13日、UJCの図書会員となり、本借りる。

7月16日、飛行機でフェルガナに帰り、翌17日、日本語教授法研修の申請書類送る。

受講生に招かれ、サトカク(7月23日)、ヴォディル(7月25日)で行楽。

7月26日、全クラスでひらがな・カタカナテストをする。赴任したときはコース開始から3か月近くたっているのに、ひらがな・カタカナが満足に書けない者がいるのに驚き、やってみることにした。「半分できなかったらサヨナラだよ!」と脅したのは冗談のつもりだったが、半分もできないのが半数もいた。4か月クラスに通っていて、なおこれである。冗談ごとではなくなった。

7月28日、授業で介護テキストの説明始める。

 

8月1日、盆踊りの練習始める。玉入れの玉となる紙風船の折り方を教え、受講生に作らせる。早口ことば、箸の使い方も練習。

8月6日、JFT-Basicなる試験がどんなものか知るため、費用こちら持ちで、不合格は承知の上で2人の受講生に試しに受けさせる。スタッフの車でタシケントへ。彼と同僚教師の1人も受験し、彼らは合格。

8月11日、タシケント校の教師5人のために勉強会。

8月13日、飛行機で帰る。

8月21日、7月2日のJLPT・N4試験の結果がわかる。6人中2人合格。

8月27日、学校がある病院で盆踊りを行なった。雨のため屋内で。使っていない別棟の広間があったので、使わせてほしいと当日頼んだら、あっさりOKだった。日本では絶対に不可能なことで、こういう鷹揚さに出くわすたびにこの国への愛情が湧いてくる。

 しめくくりの東京音頭のほかに、早口ことば・箸で豆摘まみ(以上個人戦)・玉入れ・綱引き(クラス別対抗戦)などをした。受講者の大半とその子供たちが参加。レクレーションとしてだけでなく、せっかく日本語を勉強しているのだから、日本文化に接してよい思い出を作ってもらいたいと考えて。

 受講生にはシングルマザーが何人もいる。ある女性は兄一家のアパートに同居しており、日本へ行って働いて、自分のアパートを買いたいと思っている。ぜひ日本で働いてほしいものだが、特定技能での派遣はN4試験合格が絶対条件で、合格したらすべてを得る。不合格なら何も得られず、勉強のために費やした授業料も通学時間も無駄になる。100か、0か。間はない。催しが楽しかった一方で、その裏側はきびしい。

 20年前の学生も1人来てくれた。恰幅のいい中年男になっていた。あのころの学生はみんな2、3人の子持ちである。間の20年がすっとんでいると、再会はなかなか感慨深い。

8月28日、区切りとしてN5模擬試験を行なった。28名中、N5合格水準に達している者は10名。

 この試験の結果を受け、5か月学習しながらN5レベルを大きく下回っている10名ほどには継続の断念を強く慫慂した。現時点でこれでは、12月にN4に合格することはとてもできないので。介護で日本へ働きに行くためには、1)介護技能試験、2)介護日本語試験、3)JFTまたはJLPTのN4試験に合格しなければならない。その試験シーズンが9月から始まる。これら4つの試験の受験料に加え、タシケントへ受験に行くためのタクシー代も最低3回分かかる。加えて、9月・10月・11月の授業料も必要だ。タシケントへ受験に行くためには朝3時に出発しなければならないし、帰ってくるのは夜遅くなる。泊まれば宿泊代も。N4に合格せず、日本に行けないことになったら、このお金と時間が全部無駄になる。だから、今の時点でN5レベルを大きく下回り、とうていN4に合格できない人は、あきらめてお金と時間を大切にするのがいい、これ以上「出血」せずに、と考えてのことである。コース開始時には介護クラスは全部で50人くらいいたが、8月28日時点で30人ほどになり、最終的にN4試験に合格できそうなのは10人かそれ以下であろうと思われる。40人は授業料と時間(1時間も2時間もかけてクラスに通う人もいる)を無駄にして終わるのではないか。

 元来、ゼロから始めてN4に合格するには、能力も努力も十分なら半年でも可能だが、2年やそれ以上かかることも珍しくない。8か月でN4レベルに達するという本校のゴール設定は、十分な能力と努力が前提となる。しかし語学はスポーツと同じで、運動神経や語学センスは多分に先天的なものであり、それに恵まれぬ人が、大人になって、ましてや40を過ぎてそれを得ることはまず期待できない。努力のほうも、仕事があり家庭があり、家事もしつつ子どもの面倒を見てもいる状況(身重の人もいる)では、なかなか家で勉強の時間が取れないのは理解できる。

 しかし、われわれが理解しようがどうしようが、N4試験に合格しないことには日本へ行けない。これが隘路である。5分の4の「戦死者」を出す死屍累々のインパール作戦になるのが幻視できる。

 彼らは不満を鳴らすに違いない。学校が悪い、教え方が悪い、日本語なんか勉強するな、韓国語にしたほうがいいと周囲に言うだろう。ウズベキスタンではカンニングが横行しているし、カネを払えば裏で何とかしてくれる、カネを取る以上は何かしてくれるだろうと考える者はきっといるだろうから、この学校にも悪評がたちかねない。

 中年子持ちの現役看護師を対象にしたこのやり方は改めるべきだと考える。受講者にはシングルマザーや失業者も少なからずいて、その人たちが「出血」ののちに「戦死」してしまっては悲しい。

 だが、この不成績のあとも、なおクラスを続けたいという者がいる。ウズベク人の底知れぬオプティミズムには驚嘆のほかないが、その希望を容れて彼らのためのクラスを作るとしても、いつまで面倒を見るべきか。2年もやれば受かるかもしれないが、それでも受からないかもしれないし、学校や教師の負担も大きい。判断に苦しむ。

8月30日、R氏、客人連れてクラス訪問。