家族同姓

 前近代において、名前は変わるものであった。近代ではそれは固定されている。筆名芸名や雅号など、あだ名や通称、犯罪や潜行のための偽名など、本名を冒さない範囲でのまたの名があるばかりで、当局に登録した名前は簡単に変えることができない。縛られるのはうれしいことではないが、管理する側だけでなく管理される側にもメリットがあるしくみだから、しかたがない。基本的に変更は許されない中で、認められているのが結婚や養子縁組による改姓である。

 夫婦別姓論議について考える場合、まず確認しておかねばならないのが結婚と苗字だ。

 結婚は子供を得るための制度であるということを忘れてはならない。この制度の根幹を外した議論が多すぎる。子供がない夫婦はしかし珍しくない。ほしいのにできないのは気の毒というほかない。その場合は、状況を受け入れ二人で生きるか、養子をもらうか、あるいは離婚して新しい組み合わせを試すか。組み合わせが変わればできるかもしれない。しかし、子供がほしくない者が結婚するのは筋違いであり、しなくていい。子供はいらないがパートナーはほしいというのは結婚の趣旨に反するから、そういう人のためには結婚制度外にもう一つ別の事実婚制度を設けるのがよかろう。それは夫婦同姓を望まない人のためにもなる。

不妊治療については、気持ちはわかるが、生命を人為的に操作するのはどうなのかと思う。生殖技術からクローン人間までは一直線の道である。どこに線を引くかの問題が出てくる。クローン人間は誰もが許されないと思う。受精卵を他人の胎内に入れて出産するのは、私は許されないと思うが、許されるとする人も多く、実際に行なわれている。ルビコン川を渡れば、もうディストピアへ落ちるのを防ぐ歯止めはない。踏みとどまるなら、断崖へ続く下り斜面の半ばでなく、川の手前だろう。養子のほうがよくないか。)

 

 苗字と名前の組み合わせというのは、個人識別システムとして優れている。リンネの二名法と同じで、同定が容易だ。欧米や中国で採用されているのは故のないことでなく、日本もそうだ。

 世界には姓のない民族も多く(モンゴル人やムスリムなど)、彼らは識別の便のためにドルゴルスレン・ダグワドルジ朝青龍)やマハティール・ビン・モハマドのように自分の名前の前や後ろに父の名前をつけて、父誰それの子何がしと名乗る。つまりロシア文学でおなじみの父称(アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフのフョードロヴィッチ、リュボーフィ・アンドレーエヴナ・ラネーフスカヤのアンドレーエヴナの部分)と同じだ。ロシアの父称の「ヴィッチ」は、ユーゴスラビアでは苗字となっている。イブラヒモヴィッチ(イブラヒムの息子)などがそうで、ゲルマン人のジョンソン(ジョンの息子)、ペーターゼン(ペーターの息子)と同じ成り立ちの苗字だ。抜きがたく父系である。

 欧米の苗字にはさまざまな由来があるが、父祖の身体的特徴とか性格・出自・職業など、父称同様先祖である父親に由来するものが多い。地名から出たものも少なくないが、こちらはやや中立的と言える。

 日本の場合は地名由来が非常に多い。昔の武将は、名前のほうもよく変わるが、苗字も得た所領を名乗ることが多く、それにしたがって変わることがよくあった。森の石松、吉良の仁吉など侠客の通称もそうだし、桂文楽黒門町尾上松緑紀尾井町など、落語家や歌舞伎役者が住所で呼ばれる例もある。官庁が霞が関共産党が代々木、日本以外でもスコットランド・ヤード中南海など、地名の指示機能は強い。苗字転用は自然だ。

 由来はどうあれ、姓・名の二名法の合理性を考えれば、これを維持するのは悪いことではない。

 

 苗字の話のついでに、語順についても一言しておこう。東アジアでは姓・名の順だが、欧米では名・姓と逆順だ。それに限らず、年・月・日でなく日・月・年だったり、住所も通り・地区・市町村・州県・国と、欧米はすべて逆である。彼らはわれわれが何でも反対だと言うが、逆なのは彼らのほうである。第二次世界大戦はいつ終わったかと問われて、15日と答える者はいない。2日でもない。1945年に決まっている。大きいものから小さいものへと絞り込んでいくのが検索の常道である。科・属・種と続ける生物学分類のとおりだ。彼ら自身名簿は姓・名の順で作っているではないか。彼らの間違ったやりかたにならって「アキラ・クロサワ」と倒立するのはつまらぬことで、最近やっと姓・名順を正しい表記とする規定になったのは当を得ている。アルファベット表記のときに混乱を避ける必要があれば、苗字は大文字で書くとこにすればよい。

 縦書きと横書きも洋の東西を分かつ習慣であった。右起縦書は巻物から出た習いだろう。人体の構造からいって、巻物は上下より左右に開くほうが自然であり、かつ右利きの多い人類の大勢から、右手で引き出して開いていくことになる。だから縦書きの文章を右から読む。しかし巻物が廃れた今日では、左起横書のほうが合理的だと言わねばならない。東アジアの文字は縦にも横にも書けるが、アルファベットは横にしか書けない蟹文字だ(モンゴル文字だけがアルファベットなのに縦に書く)。縦書き発祥地である中国がいま横書きをしているのはアルファベットを用いたピンインを使っているからで、日本で理工系の文書が横書きされるのも数式を書く必要による。彼らの文字の不自由さのために、自在な東洋文字がその自在さの故につけこまれているのは残念な気がしなくもないが、合理性が優先されるのは当然でもある。ある中国人の学生は、日本の小説は縦書きで読みにくいと言った。おいおい、君らの古い伝統だろう。物事が根底からひっくり返るには2世代あれば十分だとわかった。

 脱線が過ぎた。閑話休題

 

 夫婦別姓の反対は夫婦同姓とされるかもしれないが、それはフォーカスのしかたがよくなく、正しくは「家族同姓」である。生まれた子供は父とも母とも同じ姓となる。そしてこれは一夫一婦制を前提とする。夫婦家族一体の宣言だ。正妻のほかに妾がいる場合を考えれば、正妻同姓・妾別姓となり、結果として正妻の地位権利を守る働きもする。妻に愛人がいる場合も同じ。

 夫婦別姓推奨者は中国人になりたい人たちなのだろうか? 中国は確固として夫婦別姓である。だが、それは要するに同姓不婚ということで、族外婚の目に見える現われである。氏族制が生き生きとしていた時代の習俗で、血の復讐が原則であった昔には、妻の氏族の復讐の恐れが妻を保護することにもなっていただろう。

 またそれは、第一夫人・第二夫人がいるときに非常に有効に機能する制度である。その状況ではきわめて合理的で、それが本来の目的ではないかと思えるほどだ。生んだ子供は夫の姓になるのだから、腹で奉仕するみたいなものとも言える。男女同権などみじんも関係ない。ガチガチに父系の社会なのだから。一夫多妻を認めるイスラム社会で子供が父称を名乗るのと同じだ。

 この問題を考えるためには、日本語と日本文化の特徴から、さらに二つの所与を押さえておく必要がある。複姓の不可能と両系制だ。

 子供の苗字には複姓という方法もある。夫婦は別姓で、子供は父母両方の姓を合わせたものを名乗る。スペインがそうで、夫婦別姓・子供は父母の姓の複合だから、人はみな複姓であり、別姓である父母の第一苗字を組み合わせた複合姓となるわけだ。父・母・子・孫、すべて違う苗字なのは面倒なように思うが、この方式だと父の第一姓はずっと継承される。AB姓の男とCD姓の女が結婚すれば、妻はCD姓のまま、息子はAC姓。それがEF姓の女と結婚したら、その子はAE姓というように、父系姓のAが受け継がれるわけであり、複姓の尻尾がついてまわるだけで、夫婦別姓・父系貫徹の中国式と同じだが、異母だけでなく異父兄弟の間にもつながりが保たれるという点がこの複合姓方式のメリットだ(よほど異父兄弟が多いのだろうか)。スペイン以外の欧米でも、妻が複姓となることがある。元の苗字に夫の苗字を加えるやりかただ(アグネス・ニュートンがヘンリー・キースと結婚してアグネス・ニュートン・キースとなり、普通にはアグネス・N・キースと書かれ、アグネス・キースで通じる、というように)。中国では子供は父の姓を名乗る父系継承だが、複姓を与えられることもある。中国はほぼ一字姓だから、複姓にしても大事ない。

 だが、分かち書きをせず漢字を使う日本の場合は、目も当てられない。「長谷川登志樹」と「山之内美津江」が結婚したら、妻は「長谷川山之内美津江」? 娘は「長谷川山之内沙也加」? その結婚相手が「三田村佐々岡伊知郎」? 漢字練習帳か? それでも「長谷川山之内」なら「長谷川・山之内」と切れ目は分かる。しかし「小田中曽根」だと、たぶん「小田・中曽根」の複合だろうが、「小田中・曽根」かもしれず、切れ目がわからない。これでは採用できない(ただし、東アジア以外の外国人と結婚した場合は、夫の姓はカタカナだから、「田中ウルヴェ京」のようにふたつ連ねても混乱はない)。

分かち書きをしないのは別に問題ではなく、導入する必要はないけれど、それによってとまどうことはしばしばある。「森保一」は「もりやす・はじめ」だが、初見では「もり・やすかず」と読まれるのが普通だろう。「森林太郎」を「森林・太郎」と区切って読んで笑われた生徒はたくさんいるはずだ。)

 

 日本はまた両系的である。それは婿養子制度からも見て取れる。夫婦同姓原則は、夫または妻の姓を夫婦が名乗るということであって、必ず妻が改姓しなければならないというわけではない。日本において、苗字は変わるものなのだ。明治や戦前の歴史をひもといたことのある人は、男たちの苗字がしばしば変わっているのを知っている。変わらないのは原則長男だけで、次男三男は養子に行って変わることが多い。男の改姓は日常的な風景である。今もこのあたりでは結婚して苗字の変わった男子がクラスに1人ぐらいはいる。十分に男女同権だ。結婚によって改姓するのはほとんどが女子(96パーセントらしい)であっても、そう断言できる。

 親族呼称を見ても、おじ・おば・いとこという呼称は、父方母方ともに同一である。父方の祖父母も母方の祖父母もおじいさん・おばあさん。中国で父方母方で親族呼称が違うのと好対照だ。中国の場合、長幼によっても呼称が変わる。日本では兄弟以外では長幼は呼称に現われない。人を呼ぶときも、男女を問わず、ましてや未婚既婚を問わず、「~さん」をつけるだけでいい。単純明朗である。

 子供(末っ子)の視点からの呼び方も特徴的で、母親が自分の息子を「お兄さん」と呼んだりする。女には7人の「おじいさん」がいて、まず自分の祖父が父方母方に1人ずつ、結婚していればそれに夫の父方母方の祖父、子供がいれば自分と夫の父親、孫がいれば夫もそう呼ばれる。このような子供本位の呼び慣わしは美習と言っていいと思う。

 

 夫婦別姓を言う人たちはファザコンなのか? 姓というものが父系的である(女偏のくせに)ことを知った上で見るとそういう感想も持ってしまうのだが、「選択的」夫婦別姓論議において、妻の姓がどうなるのかは大きな問題ではない。それが親子別姓になることが問題の根本で、夫婦別姓は必ずやすぐにまた別の(より重大な)問題を引き起こす。複姓という解決策のない日本で、子供の苗字をどうするかという問題だ。夫の苗字か。妻の苗字か。議論の筋を追えば、そこも選択ということになるだろう。ルールは思想である。今しかとあり機能もしているルールを崩して、別のまったく違うルールを継ぎ足すのは、二つの思想の衝突であり、混乱である。「選択的」などとものわかりがよさそうなふうで賛同を得ようとしているが、「ものわかりのよさ」は、よかれと思う意図と逆に、無秩序を引き起こす「善意の破壊者」であると知るべきだ。

 「選択的」に子供の苗字を妻のものにしたら、夫から見れば妻との子供も認知した婚外子も形態的に同じものになってしまう。妻から見ても同様で、婚外パートナーに走るのを抑える心理的抑制のひとつが大きく毀損されるだろう。

 複姓ができない中での夫婦別姓は、中国式とほぼ同じということだ(伝統的に子供は父の姓を名乗るが、現代では母の姓であってもいい。中国では複姓は可能であるから、その点で日本は劣る)。この中国式夫婦別姓というのは、父系制・一夫多妻・族外婚を基に形成されたもので、長い歴史があるからあそこでは根づいているわけだが、父系制ではあるが両系的で一夫一婦制の日本になぜそんなものをいきなり持ち込まなければならないのか。父母のどちらかと子供は別姓になる。なぜそんな不都合をわざわざ望むのか。夫婦の姓の同一が目指しているのは、夫婦以上に家族であり、子供である、という制度の根幹を忘れてもらうまい。結婚改姓は家族同姓を維持するためのコストだということだ。そしてそれは男女を問わず払うのである。メリットを考えれば、そのコストは払うに価すると思う。

 一方で、家族同姓の弱みは、まさにその制度が目指している家族一体が壊れたときである。離婚は結婚改姓というコストを払って得た成果を打ち壊す。離婚により再度改姓しなければならなくなればわずらわしいが、それより問題なのは離婚後の子供の苗字だ。好きで結婚したのだから離婚しないのがいちばんいいのだが、過ち多い人間のこと、そうもいかない。離婚しようと思って結婚する人はいないし、離婚したら子供はどちらが引き取るかまで考えて結婚する人は普通いないけれど、「起きてほしくないこと」というのは「起きること」の謂である。

 日本では、人を下の名前でなく苗字で呼ぶことが多い。子供でもそうだ。あまり親しくない人は苗字で呼ぶ。だから苗字が変わるのは、幼児の頃はいいが、学齢から成人までの間は望ましくない。就学以降成人まで安定的であるのが子供のためにはよい。結婚して妻が改姓するのが大多数だからその場合で考えて、離婚後夫方が子供を引き取るなら連続性に問題はないし、妻が引き取るとしても、妻が前夫の姓を名乗り続けるならその点の混乱はない。だが、旧姓にもどった場合、妻は子供の姓をどうするか。変えるか、そのままか。子連れで再婚したときの連れ子、再婚相手の間に子供が生まれたときのその子の苗字は。よけいなお世話に違いないが、気になるところだ。いい大人である妻はどうとでも決断すればいいけれど、まだ主体的な決定ができず、大人の決めたことを受け入れるしかない子供のことを考えると、ここがいちばん弱い部分である。

 

 姓がなくてもやっていっている民族にならって、姓を廃止するというのも一案だが、「だれそれの息子・娘」という子供の呼び名をどうするかという問題は依然残る。ムスリムのように夫の名によるとするならば(4人まで妻が持てる彼らにはそれが理にかなっている)、一代限りというだけで、結局夫婦別姓で子供が父の姓を名乗る中国式と同じことだ。

 結婚制度の廃止は解決策になりうる。今までの結婚制度はやめ、事実婚というか、契約婚とする。しかしこんなことが一片の法令で実現できるとは思えず、どえらい革命でもない限りいきなりそうはできまい。

 この理念的過ぎる方策をプランAとすれば、リアリティの高いプランBは、正式の結婚のほかに事実婚ないし契約婚を法制化し、正式婚(同姓で家族を成す)・契約婚(認証された契約書に基づき、いわゆる内縁関係にある程度の法的保障を与えたもの。財産分けや、離婚の際どちらが子供を引き取るか、養育費負担はどうするかなどの権利義務を定める。その解消に双方の合意は必要なく、一方の意志だけでできる。子供は別れた場合引き取られる側の苗字を名乗る。同姓ならぬ同性カップルも可能だ。だが家族を形成しないので、家族としての権利は生じない)・単なる同棲の三層構造にする、という方法である。まず試用期間のように契約婚をして、その後正式婚に移るというのもよかろうし、離婚して契約婚形態に移り、それでも修復不能なら別れる、仲がもどれば続ける、という冷却期間的使い方もできそうだ。子連れ再婚の場合は契約婚を推奨するといい。

 家族になりたい、正式に結婚したいという希望があり、かつ独身時代との連続性を望むなら、公式名は家族同姓原則に従いどちらかが改姓するが、希望者は旧姓をかっこに入れて名刺名簿に記載できる(「辻上穂希(*澤)」のように)というふうに政府機関が訓令で定めればいい。官庁が行なえば、下はその習慣に倣う。実質的な複合姓で、通称として旧姓の使用を認めるというのより、改姓後の本名も明示するので、職業生活後や職業生活外とも接続しやすい。

 このプランBセット、選択的夫婦別姓のようなものよりずっといいと思うのだが、どうだろう。

 

 名前では、読めない漢字名、いわゆるキラキラネームの問題もあり、私としてはこちらのほうが夫婦別姓よりずっと大きな問題だと思う。「心愛」で「ここあ」だの、「希空」で「のあ」だの、「姫星」で「きてぃ」だの、そう読めるはずのない読み方がまかり通っているのは驚くべき無秩序、カオスであり、決まりごとを守る(監督にパスを回せと言われれば、シュートが打てるときもバックパスをする)日本社会の中での特異な無法地帯となってしまっている。おそらく学校時代漢字に苦しめられたのであろう親たちの、漢字への復讐(切ない思慕も秘めながらの)という深層心理がこの現象の根底に潜んでいそうだが、だからといって全然同情は持ちえない。

 キラキラネームは男にもあるが、とりわけ女の子にひたすらかわいい名前をつけたがる傾向があるように感じる。女の子は年を取らないとでも思っているみたいなあの命名。やがてきてぃ婆さん、ここあ婆さんなどが現われてくるわけなんだが。そのころにはそんな名前が老人名、婆さん連中に特有の名前として認識されているのだろうな。子供に対して親のエゴが強く出ている。狂人も言っているぞ。「子供を救え」。

 この問題への対策としては、人名漢字の読みを制限するという方法がまず考えられる。法律でこの漢字にはこの読み方しかできないと規制する。だが、たかが役所風情に漢字を縛りつけられたくはない。この方法は避けたい。

 漢字を取っ払えば、「のあ」だろうが「きらら」だろうが構わない(多少構いたくはあるが)。それが無理やり漢字と結びつけられているのが問題の根幹なわけだから、戸籍名・正式名はひらがなかカタカナとし、漢字名も一応登録するものの、通称として認めるだけ、という方法もいい。名簿名刺にはかな名とカッコに入れた漢字名を併記する。通称の漢字のほうは本人の希望で簡単に変更できることにする(「希空」を「乃亜」に変える、というように)。こちらを私は大いに勧める。こうすれば拗音や長音はかなり少なくなると思われ、それは和語が増えるということで、それも好ましい。これは抜本的な解決策になる。だが、「抜本的」というのは実現可能性が低いことの別名だ。そうと知りつつも、なおこちらを推す。見れば、選挙ポスターにはこの方式が多い。名前を正しく覚えてもらう必要が切実にある人は、自然発生的にこのやりかたを採っている。自然発生にはすべて理があり、意味がある。

 

 苗字のない人たちだから直接これに関係するわけではないが、男女同権ということでは、女性天皇をめぐる問題がある。私はこれに反対だ。実際的に無理である。現実的な困難を無視して行なわれる主張はイデオロギーだと言わねばならない。

 皇太子や皇女の結婚難を考えろ、ということだ。皇太子のお妃なんて、昔は憧れだったのに、今はババ抜き。今の天皇はあんなにまじめで誠実な人なのに、嫁の来手がなくて苦労したじゃないか。女性天皇に婿のなり手があると思っているのか。現天皇の妹は誰と結婚した? 都庁の小役人と35歳ぐらいで。婿さんも40ぐらいじゃなかったっけ?

 家柄がよくて優秀な男は結婚相手に困ることはない。引く手あまただ。何を好きこのんで窮屈な皇女を選ぶか。それに、有能な男は叩けば埃だ。埃の出ない男を選べば、パッとしないのしか残らない。

 日本には、天皇がいて、貴族がいない。皇族と平民のみである。何というラディカルさ。外国の王族とも通婚しない。つまり皇族は国内の平民としか結婚できない恐ろしい状態なのである。だからそもそも根本的な無理があるのだ。結婚は釣り合いである。個人と個人の結びつきであると同時に、家族と家族、親族と親族の結びつきであるのだから。インドのように同一カースト内での結婚がもっとも望ましいが、カースト外婚をよしとしても、それが皇族と平民では絶対的に釣り合わない。釣鐘ひとつと無数の風鈴。男子が少ないから、男女同権だから、じゃあ女性天皇、とはいかない。嫁と婿では全然違うことを考慮しない机上の高論は、考慮に値しない。

 皇族の若い世代に男が1人だけ。いま適齢期の皇族女性が次々に皇籍離脱をしたら、遠からず皇族は1家族だけになってしまうリアルな危機がそこにある。皇嗣の息子に万一のことがないとは言えないだろうに。そのときになったら考えるということか? 無責任なことだ。現実的には宮家の消滅を防ぎ、その数を維持することが求められる。宮家に男子がない場合は女子による相続ができると補則を付け加えればいい。しもじもでは普通の婿養子である。宮家が一定数あれば、最悪の事態はある程度回避できる。宮家のような傍系なら、配偶者探しも直系ほどに難しくはない。男系男子継承を絶対視するなら、天皇・皇太子に男子を得させるため、側室を何人ももつことが必要になる。だが、婚外子は今の時代にもよくあるが、制度としての側室など不可能だ。

 男性男系天皇のみ守ろうとする人たちは天皇制の強固な(頑迷な)支持者なのだろうが、結果として天皇制崩壊を促進する皮肉な結果になり、すべてを失うことだろう。世の中にしばしば見受けることだが。女性天皇論者、男系男性天皇論者、ともに現実を見ていない。

 で、宮家に婿養子が来ることになれば、その人は苗字を失う。夫婦別姓・同姓論議からの限りない超越。なかなかいいじゃないか。