アジアの虚妄、アジアの愉楽

いささか旧聞だが、7月のアジアカップはおもしろかった。いろいろ考えさせられた。おもしろくなかったと言う人は、きっと日本の4位という結果に不満なのだろうが、日本戦しか中継しない民放の同類になってしまってはつまらない。ナショナリズムはサッカーの友であり香辛料だが、しょせん悪友である。強烈なスパイスで、決して嫌いじゃないけども。
もっと早く書きたかったのだけれど、あまりにも暑くて、ものを書く気にまったくなれなかった。だがこれを、記録的暖冬を含めて「異常気象」呼ばわりするのは、きっと人間の惰性的保守主義で、気候はいまや決定的に変動し、日本は「冬のある亜熱帯」に属するのだと、この夏は「やや」暑かったかなと感じられるように、頭も体も適合していかなければならないのだろう。そんなことはともかく。


自明のことであるが、「アジア」などというものは存在しない。ヨーロッパ人のでっちあげに過ぎない。「アジア大陸」などない。あるのは「ユーラシア大陸」で、その西方半島部の連中が勝手に「アジア」と「ヨーロッパ」を切り分けているのだ。それも、本来は西アジアが「アジア」だったのが、野放図に東の端まで広げられてしまったのである。つまり、「ヨーロッパ」を所与のものとして、「ユーラシア大陸のヨーロッパでない地域」が「アジア」だというわけで、そもそも非常に問題のある地域区分なのである。
地理学上の「アジア」自体がそうなのに、アジアカップの「アジア」というのがそれに輪をかけて奇天烈だ。イスラエルやトルコやカザフスタンは「アジア」でなく、オーストラリアは「アジア」だというのだから、地理学も歴史学民族学もまったく無視している。イスラエル(過去にアジアカップで優勝したこともある)の場合はアラブ諸国とやりたくないという理由で、トルコはEU加盟を熱望しているため、ヨーロッパ連盟に所属するというのはわかるし、カザフスタンは、ソ連時代にはUEFAに属していたことを思えば、そこへもどるというのも理解できなくない(アゼルバイジャンアルメニアなどがずっとヨーロッパに属しつづけているのを見れば、むしろ旧ソ連のうちウズベキスタンキルギスなどがアジア連盟に移ったことのほうが例外的ではある)。だが、オーストラリアが「アジア」だというのは、どこをどう見たって理由づけなど考えられない。「アジア」の虚構はここにおいて極まった。
いわゆる「アジア」は、西アジア北アフリカと連続しており、イスラム圏とくくられる)、南アジア(インド亜大陸。サッカーにおいては「不在」として表される)、東アジアの三つに分けるのが正しい。そのほかに中間領域として東南アジアと中央アジアがあるが、これらはそれぞれ東アジアと西アジアに強引に帰属させればさせえうる。とはいえ、「ヨーロッパ」と「アジア」の境界が定かでないように、これら三地域の境界線もきっかり引けるわけではなく、「アジア」というくくりもまた有効であることは認めねばならない。切れないものはまとめられてもしかたがない。切るより併せるほうが度量があるし。


サッカーでは大陸別選手権が行なわれているが、ヨーロッパはヨーロッパの、南米は南米のタイプのサッカーをしており、その中で下位タイプはあるものの、一応ひとつのまとまりをなしている。アフリカの場合はサハラ以北と以南で分かれ、ブラックアフリカ北アフリカは違うし、北中米カリブ海も北米と中米で味わいが異なるのだろう。しかし「アジア」の多様性はそれどころではない。西アジアと東アジアではサッカーがまったく違う。敏捷性を武器にした東南アジアも無造作に東アジアに類別していいわけではないし、そもそも「アジア」ではないオーストラリアは、それらすべてと断然かけはなれている。
さらに細かく見れば、黒人選手の多いサウジアラビアは身体のバネやスピードでアフリカを髣髴とさせるし、要所要所にロシア人選手を配したウズベキスタンは東欧の趣きがある。これに100%ヨーロッパのオーストラリアが加わるのだから、南米のテイストが欠けるだけのにぎやかなサッカーの祭典となった。これを「アジアの混沌」というのかどうか知らないが、多様性に満ちて豊かなのは確かだ。でっちあげの「アジア」の、その上に地理も歴史もてんで無視して、AFA加盟国というのを唯一の基準とする「サッカーのアジア」だが、その大会は実に楽しかった。「アジア」の勝利、なのかしら。


今回はタイ・ベトナム・マレーシア・インドネシアの東南アジア4カ国の共同開催だったため、これら四つの開催国が参加していたので、ベトナムやタイの試合がじっくり見られた。さまざまな点で日本は東南アジアの最北端だと感じることが多いのだが、サッカーにおいてもそう言える。現在のところでは日本のほうが体格でも組織力や技術でもずっと上だが、目盛りを下げ焦点をゆるめて見たら、けっこう似ているのに気づく。同じ東アジアでも、日本のサッカーは朝鮮半島のとはずいぶん違う(戦前、オリンピックに参加するチームを作るとき、内地のチームをしばしば圧倒する植民地朝鮮の選手が代表にあまり選ばれなかったことを差別と感じていたそうだが、あれだけタイプが違うと、内地と半島半々でチームを作っても機能するはずがなく、どちらかを主体とした構成になるのはやむをえないだろう)。どちらに似ているかと言われれば、間違いなく東南アジアのほうだ。
中国はタイやベトナムどころではないいいチームだったが、予選リーグを勝ち抜けなかった。中国を見ていると、弱かったころの日本代表を思い出す。それなりにいいチームだったと思うのだが、とにかくよく負けていた。あの勝負弱さのコピーを見るようだ。カード覚悟で相手をファウルで止めに行き、イエローカードをかざす主審にペコリと一礼する中国選手。日本の風景なんじゃないの、これ。反日の嫌中のと言いながら、実はよく似た者同士なのかもしれない。
予選リーグ最後のウズベキスタン戦は、疲れていたので前半だけ見て寝てしまった。前半戦を見た限りでは、中国の勝ちが3割、ウズベキスタンの勝ちが2割、引き分け5割と結果が予想された。中国は勝っても引き分けても予選突破なのだから、8割方中国で決まりだと思って寝て、朝起きてみると、0−3で中国の敗北、予選敗退。力から、そして前半の様子からいって引き分けか1点差が妥当な試合で3点もの大差がつくというのは、中国の試合運びがまずかったに違いない。
彼らの力は認めるが、そんなチームが勝ち上がるより、ウズベキスタンが出てきたほうが大会のためになる。そして実際、準々決勝のサウジアラビアウズベキスタン戦はすばらしい攻め合いになった。今大会のベストマッチである。明らかにオフサイドでなかったシャツキフのゴールが認められていたら、どう決着したかわからない。


いちばんぶざまなサッカーをしていたのはオーストラリアであった。アジアをなめていた。この広大な地理空間には、試合をする以前に、気候環境という難問があることをすっかり忘れていたのである。湿潤熱帯アジアにKO寸前で、体と頭の動きが鈍り、ドイツでの雄姿のぼやけた影でしかなかった。
初戦のカタール戦は、終了間際に体格にものを言わせて1点取り、引き分けにもちこんだが、完全な負け試合。次はイラクに圧倒され、予選リーグ最後のタイ戦、ここで負けるか引き分けると早々と大会を去らねばならなかったあの試合でも、タイのほうがいいサッカーをしていた。何度もサイドを破っていた。しかし結果は4−0。自分たちの強みを前面に出して戦えば、あの程度の相手なら粉砕できる。サイドを突破されても、真ん中でやられなければいいと腰をすえて、フィジカルで圧倒し、点をもぎとる。タイにしてみれば、「これだけやってもだめか」とむなしくなっただろう。
タイにはまことに気の毒ながら、あそこが勝ち上がって喜ぶのはタイ国民だけである。あ、それから準々決勝で当たる国も喜ぶかな、勝てる相手だから。どんなに予選リーグの出来が悪くとも、ああいうサッカーが嫌いな人でも、オーストラリアが消えたらがっかりする。タイが消えても、「残念だったね、いい試合してたのにね」で終わり。理論上はタイとやることを歓迎するはずの準々決勝の相手も、今回の場合それは日本だったので、オーストラリアを相手に望んでいた。ドイツの借りを返さなければならないのだから。
ゆくりなくも思い起こすのは、東欧諸国の一連の「革命」である。その時点では大事件だったあの出来事も、翌年のドイツ統一、翌々年のソ連崩壊を経たあとで振り返れば、それら「世界史的事件」の前座でしかなかった。ドイツやロシアで起これば「世界史」になり、中小国で起これば「地域史」にしかならないと知ったときの、あの哀感を思い出す。


いちばん情けない試合をしていたのは韓国である。決勝トーナメントで1点も取れなかったのだから。延長0−0のさえない引き分け試合を三つ重ね、丁半バクチのようなPK戦で、ふたつ取ってひとつ失った。みじめなスコアである。
この結果は、すべての人々が深く反省すべきである。韓国国民は恥じて、韓国以外の国民は、逆に、1点も取られなければ3位にもなれるのだという事実をかみしめて。しかし後者の部分については、韓国人は主張してはならない。口にした途端に負け惜しみとなってしまうから。サッカーは点を取るゲームであり、その逆ではないのだ。
韓国で唸らされたのは、局面での強さである。攻撃面ではともかく、ディフェンスでは大いに発揮されていた。サウジも局面で強かった。反対に、日本はここでの弱さが致命的だった。サウジアラビア戦の3失点での守備のもろさは、ドイツでのオーストラリア戦の3失点の悪夢を思い出させた。局面で勝てなければ、全体でも勝てない。日本の課題はここに尽きる。


日本にとって今大会は、ある意味で「羽生の大会」だったと言えるかもしれない。後半彼が投入されると攻撃が活性化し、すばらしい見せ場を何度も作った。しかし、惜しいシュートを何本も放ったが、ことごとくネットを揺らせなかった。すべて5センチ10センチずれていれば入ったシュートである。あのせめて半分が決まっていれば、3位以上は確実、ことによると優勝していたかもしれないのだが、実際には、韓国との試合のPK戦、彼のキックが止められて、日本の大会は終わった。「幸運だけが足りないラッキーボーイ」「5センチ違いのMVP」であった。
実力が隔絶していれば別だが、そうでない場合(つまりほとんどの場合)、優勝するには何がしかの「運」が絶対に必要である。だから勝負師は信心深く(あるいは迷信深く)なる。あらゆる努力をし、人事を尽くしたあとで、なお必要なものがまだあるのであって、それは地上を這いまわる人間の領域にはないのだから。信仰を軽蔑するのは、「勝負しない人たち」に限られる。今回は、前回大会でツキまくった運の清算を迫られたのかもしれない。運の総量というのはたぶん決まっているのだ。


サッカーを見ていると、そこに思想の戦い、意志の戦い、民族性の戦いが現われているのに気づかざるをえない。前回のヨーロッパ選手権で本来弱小のギリシアが最少得点差で勝ち抜き優勝したときに感じた「思想の戦い」のさまが、この大会でも見られた。
日本との準々決勝で、オーストラリアは選手の退場で1人少なくなってから全く攻撃しなくなった。ひたすら守りを固め、攻めるときは最少の人数(キューエル1人だけの場合が多い)で、フリーキックコーナーキックを取りに行くという戦術が徹底していた。1人少なくても関係ないセットプレーで1点取って逃げ切るか、さもなくばPK戦という狙いがあからさまで、悪びれるところ絶無、全員の意思統一ができている。これはひとつの「思想」表現である。何にもせよ、徹頭徹尾、終始一貫という態度には人を敬服させるものがある(「改革なくして成長なし」を5年間叫び続けた某首相と同様)。3位決定戦での韓国も1人少なくなり、やはりがっちり守ってはいたが、チャンスがあれば攻めに出て、シュートを打とうとしていた。これはふつうの対応で、日本人もそうする。だがあっちのほうは、日本人にはできない。「いさぎよさ」を、さらにいえば「玉砕」をよしとする精神風土からは出ない発想である。加えて、守ると決めたら守りきる自信がなければ取れない戦術であって、だから日本人にとって全く「異文化」だ。情緒過多におぼれがちなわれわれの文化と異質な、欧米文化の「合理性の追求」の体現を見た。そのとおり、まんまとPK戦に持ち込まれ、結果的には日本が先に進んだものの、PK戦は実質引き分けである。この「思想戦」の勝者はオーストラリアであったとも言えるのだ。
オシム監督がPK戦を見ずにロッカールームに引き上げていったのも印象的だった。監督が責任をもつべき試合については、引き分け。実際のところここで仕事は終わっている。監督が何もできないサイコロ投げのごときPK戦に立ち会うのは情緒の領分でしかないことを、背中が語っていた。
イラクの優勝は、ふだんサッカーを見ない人にも感銘を与えただろう。事実上内戦状態の国の優勝は、たとえ優勝メンバーの英雄であろうとも、家に帰ったら爆弾テロで吹き飛ばされるかもしれないという苛酷な現実に突き合わせれば、誰だって感動せずにはおれないが、それだけではない。決勝戦イラクは、勝利への強い意志で際立っていた。1対1の局面でほぼ完勝である。力としてはサウジにやや劣っていたかもしれないが、勝ちたいという気持ちではるかにまさっており、その気持ちが空回りせず全面的にピッチに表現されていた。「意志の戦い」に勝っていたのである。いいものを見た。勝利に価する者が勝利するのは、胸のすくことだ。日本の若い選手やサポーターにうかがえる頭でっかちな技術至上主義に危うさを感じる折柄、いい大会だったと思う。


オーストラリアについての感想が多くなってしまったが、それはこの新参者が「アジア」における「異物」であったため、よきにつけ悪しきにつけ目立っていたからだ。「異文化」と真に向き合うことは、親善試合では不可能で、真剣勝負の場でしかできない。しかし日本代表がアジアレベル以上で真剣勝負をする舞台はワールドカップだけで、今までにたった10試合を数えるのみ。その意味でも、「ヨーロッパ中堅国」の代表とガチンコでやれる場ができたのは実に喜ばしい。
韓国、イラン、サウジぐらいしか真の敵がいなかったアジアに、オーストラリアが加わり、イラクが復活し、ウズベキスタンがあなどれぬ力を示して、アジア予選を勝ち抜くのはずっと難しくなった。望むところである。ヨーロッパの予選ではオランダやフランスが敗退したりしているのだ。きびしくもなるがいいさ。応援のしがいもあるというものだ。勝つ日本しか見たくない人は、サッカーの友ではない。負ければ地団太踏んで切歯扼腕するが、それもまたサッカーの楽しみのひとつである。