石見銀山の世界遺産登録

石見銀山世界遺産になった。あれにそんなものになる価値があるのかと問う人がいたら、自信をもって「ある」と答えよう。なぜなら、地元の人はみんな、「これ、世界遺産?」と思っているからだ。なったのでみんな喜んで、住民が450人しかいない町で提灯行列をするのに、役場が用意した提灯の数500(適正数である)の倍の1000人もが集まったくらいに喜んでいるんだけど(娯楽の少ないところだから、そんなめったにないお祭りには来るわな。日本全国で14回しか機会のないことだものね)、その喜びとは別に、「ホントか?」とは皆思ってる。だから、世界遺産の値打ちがあるのである。これは世界遺産になりますよとエラい先生方や文化庁が言うから、半信半疑ではあるが、信じたほうが得だし、がんばって整備を進めてきたのである。自薦ゼロ、他薦100%。だったら値打ちがあるに違いないじゃないか。


世界遺産登録は、ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)の勧告をもとに審議される。銀山はここから「記載延期」のきびしい勧告を受けた。日本がこれまでに推薦した物件は一発で登録されてきたから、この一報が届いて以来、推薦にあたった学者は「これは落とすための審査だ」と息まき、ユネスコ日本代表部大使は国際会議を中座して現地視察にかけつけ、文化庁は大部の反論書を作成したり、取材自粛をマスコミに要請したりでたいへんだった。石見銀山ガイドの会の会長は「「顕著な普遍的価値」がないと言われれば、そうかなあと思う」と話していた(正直な人である。それまでは、「ある」と言われていたので「そうかなあ」と思っていたわけだ)。世界遺産委員会審議の当日、県の担当者は神妙な面持ちで「発表を待つ受験生の気分です」と言っていた(いかにも、いかにも)。せめて今年は無理でも来年に登録のチャンスが残るように、査定のワンランクアップを願っていたが、結果は逆転の登録だった。


審査がきびしくなっているのは事実で、その背景にはふくれあがりすぎた登録遺産の数がある。加えて、今回のイコモスの評価とユネスコの審査との食い違いは、「文明の衝突」のさまをのぞかせていたと見ることができる。世界遺産に登録されている鉱山遺跡は12あるそうだが、それらはヨーロッパと中南米に限られている。つまり乾燥地帯(ヨーロッパも基本的にここに属すと見てよい)でヨーロッパ人が彼らの技術で採掘した鉱山ばかりなのだ。そういうものがスタンダードになっているところで、非ヨーロッパ世界の鉱山遺跡をはじめて審査するのが今回の委員会だったわけで、欧米スタンダードでは律せない部分の評価が問われたのである。
ここには、鉱山施設、作業場や精錬所などはまったく残っていない。残っているのは穴だけといっていい。存在するのは活動している限り。結べば庵、とけば元の草の原。木造建築の宿命だ。こないだも隠岐国分寺が焼けて蓮華会舞の面装束があっけなく失われたが、火により水により被害を受けやすい上に、日本のような湿気の多い環境では「無人」というのが家の最大の敵で、人住まぬ建物は、生命力盛んな自然の中の「枯死物」として、おそろしい速さで朽ちてゆく。あとには草木が生い茂る。そのことがかえって思わぬ高評価を生んだという面が今回の審査ではあったようだ。
鉱業は「元祖自然破壊」である。近代以後の自然破壊の花形は工業で、大々的な環境破壊は産業革命以後に広まったが、それ以前の世界においても、鉱山だけは自然環境を痛めつけることに励んでいた。鉱業と植物環境保全とは、根本的に両立しがたいのである。降水量の少ない乾燥地帯ではそれが特に著しいが、湿潤多雨の日本でも、月世界のごとき足尾銅山のような例がある。しかしわが石見銀山は緑の中に埋もれていて、あちこちに口をあける穴(坑道)に気がつかなければ、日本のどこにでもある山道を歩いているとしか思えない。乾燥地帯の人々には稀有と感じられる鉱山と豊かな植物環境との共生が、まさにその自然の強さのために残りえなかった施設面の不足を補って余りある評価になったわけだ。
それをもって考えれば、木造建築で世界遺産になるのにふさわしいのは、第一に法隆寺、そしてそれと同等の資格で伊勢神宮ではないか。今ある建物自体は古くない。古くないどころか、常に20年未満の「新築物」だ。しかし、式年遷宮というシステムによって、そこにあるのは「古代建築」である。古くて新しい「永遠の新築」、「更新する古代」なのだ。朽ちるのを宿命づけられた木造建築が、「石の専制」(「世界遺産」という発想の背後にあるのも結局はこれだ)に対して思想的に闘争を挑み、それに勝利している、と言っても言い過ぎではなかろう。


しかし、鉱山施設が穴(間歩)をのぞいて何も残っていないなら、訪問者は何を見るのか。一見してこの遺跡の値打ちを示すもの、わかるものがない。間歩で公開されているのはひとつだけ。たったひとつきりのそれを見ただけでは、「これっぽっちで世界遺産?」と思われてもしかたがない。秋にもうひとつ最大規模のものが公開されるというが、漫然とやってきた人は、「ははあ、ひんやりしていますな」で終わりである。町並みは割合によく残ってはいるが、「でも、これくらいのとこなら他にもあるんじゃないの?」という素朴な感想をもらす人々(観光客なんてそんなものである、よくも悪くも)の波に洗われるのは目に見えている。いや、そうじゃないんです、と言いたいのだが、そのためには長い説明が必要になる。ユネスコの本来の意図とは別に、世界遺産は「グレードの高い観光地」みたいになっていて、遺産登録を目指す側も、観光客の増加による経済効果を勘定しながらやっている。なまじそんなものになってしまい、「あそこ、大したことなかったよ」なんて口コミの評判が広がったら逆効果である。大森自体はかなり整えられてきたけれど、銀の積み出し港であり、遺産の一部をなす沖泊などは、あれじゃイコモスにとやかく言われてもしかたがないと認めざるを得ないようなみじめな有様であるのだし。
鉱山と鉱山町、港などが一体となって残っているのが石見銀山遺跡のすぐれた点で、そのことが世界遺産への推薦の大きな理由となっていた。たしかにそうだと思うが、それはいわば学者の視線であって、学問に来たわけでない人々にそこをわかってもらうのはなかなかむずかしい。そこにあるものだけを見ていては真価が知れない、そこにないものを見る目が必要になるやっかいな遺跡である。鳥瞰図で見れば、一面緑に覆いつくされた山々の中に、人が立ち働くせわしげな区画がある。海から眺めれば、少し変わった形の山の見えるあたりに、出船入船繁き港があるようす。南蛮・唐土からボリビアまでの世界大の視角と、博多・尾道・江戸、甲州佐渡・院内などを結ぶネットワークを見て取る力、いわば人に司馬遼太郎になることを求めるのである(司馬遼太郎の目で見れば、およそ遺跡にして世界遺産クラスたらざるものはないのではないかという疑問はとりあえず不問にしておく)。
奥出雲の菅谷タタラもこの遺産に含めるべきではなかったかと、私などは思ってしまうのだが。ヤマを掘るのに必要なのは、たがねや槌の鉄である。中国山地はタタラ製鉄による鉄の一大産地で、それが銀山の開発を助けたことは疑いない。菅谷タタラの産鉄が実際に大森で使用されたかどうかは知らないが、その可能性はあるし、かりにそこからは銀山に納入されていなかったにしても、日本に唯一残る高殿タタラ遺構(今も時々使われるから「遺構」とは言えないかもしれない)として、銀山採掘をささえた中国山地タタラ製鉄業の右代表として、世界遺産に組み込まれてもよかったのではないかと思う。


同時に登録されたほかの新規登録地を見ると、人の知るものはほとんどない。シドニーのオペラハウスは有名だが、あんな新しいものをしちゃっていいの?と思うし。世界遺産になるべきものはもうなってしまっていて、今登録されつつあるのは、いわば「B級遺産」ではないか。登録を絞り込もうとするのは正しいなあと思ってしまう。すべりこめてよかったね。
今度のイコモス勧告以降の騒ぎで痛感したのは、笛を吹かれたから踊ってきたという面があらわに見えたこと。そうではなく、人の振り付けでなく、たしかな自分たちの主体性が地元には望まれる。
そしてまた驚かされたのは、日本に外交力があったこと。新聞紙面で知るだけだけども、逆転へ向けての巻き返しの陣頭に立ったユネスコ大使の確かな戦術と水際立った働きぶりは、わずかな記事からもうかがえる。日本にそんなものはないと固く信じていたので、うれしい驚きだった。


昔から大森はいいところだと思っていて、知られざる隠れた名所として、これはという客人が来たときはよく連れて行っていた。抱き合わせで世界遺産の一部になった温泉津も、ヨーロッパの中世都市を知っている人には、これが日本の中世都市です、などと言って案内したものだ。そう言うと興味を示してくれる人もいたが、大多数の人々には単なる「ひなびた田舎町」でしかなかった。自恃や自負がいくらあっても、無視や冷淡に常にさらされていては、自信はなかなかもてるものではない。
晴れてこうして世界遺産となってみると、自分の目の確かさが証明されたようで、その点はうれしいのである。クロサワの映画ではないが、日本人は身近にあるものを正しく評価することができず、域外から、海外からの評価を逆輸入することが多い。これもまたその一例になるのかもしれない。
だけど、ちっとばかり座が高すぎるねえ。今までは客人にいろいろ自前の講釈をしなければならなかった。今度は言い訳をしなくちゃいけない。いや、世界遺産といっても大したことはなくて、いやどうも、ごめんなさい。あやまってどうする。これからは胸を張って客人を連れて行けるはずだけど、胸を張るのには慣れてないもので。